戦没者の慰霊
1.戦没者の慰霊
忌まわしい戦争の傷跡は計り知れない。50兆円という膨大な戦費をつぎ込んだ4年有余の太平洋戦争によって、日本全土は焦土と化し、2度の原爆投下によって遂に終焉した。まさに「国敗れて山河あり」、鬼畜米英に負けるはずがないと信じきっていた大和民族は、しばらくは虚脱状態におちいった。終戦時、朝鮮全羅南道光州の国民学校4年生だった筆者は、急に周囲が騒々しくなり、檻から解放された猛獣のように勢いづいた現地人の豹変ぶりに、子供心にも不安を覚えたことを鮮明に思い出す。
悲惨な戦争のもたらした代償は大きい。犠牲になった軍人軍属250万人、民間人70万人といわれている。殉職した軍人軍属は九段の靖国神社に祀られている。昭和61年7月には遊就館が開館し、その一角には特攻隊関係展示室も設置され、毎年、桜の咲くころには慰霊祭が執り行われる。
日本人がようやく戦後の荒廃から立ち上がり、復興の兆しが見えはじめた昭和30年前後から、戦火をのがれて生き抜いた人々や遺族の手によって、戦死した軍人軍属を祀る顕彰碑や、往時を顧みる記念碑が建立さるようになった。奇跡的に生き残った軍人や、終戦によって辛くも特攻出撃を中止された多くの軍人たちは、親兄弟以上に固い絆で結ばれた仲間たちの霊を弔う十字架を背負っていた。
靖国神社
靖国神社には246万6千余の英霊が祀られているが、現在、全国各地に建立されている慰霊碑ないし記念碑は数知れない。英霊の原隊跡地や部隊との縁故が深い自衛隊基地内、護国神社の境内、墓地、公園、仏教の聖地である比叡山や高野山などにも多くみられる。自宅の庭に建立された旧部隊長、自ら僧籍に入り、住職となって、かつての将兵の魂の供養に専念されている人もいる。
2. 糸満市摩文仁の丘に慰霊碑建立
最初に特攻が発進したフィリピンのルソン島マバラカットには、戦時、日本海軍々人によって可愛がられた、地元の篤志家ダニエル・ディソン氏によって、1974年に慰霊碑が建立された。同様にセブ島航空基地跡にも建立されている。遥かアフリカの東に横たわるマダガスカル島にも、海軍特殊潜航艇によって殉職した2名の慰霊碑がある。
昭和20年に入って激戦が繰り返された沖縄県、そして糸満市摩文仁慰霊公園は、第2次大戦々没者を弔う聖地として、沖縄県全戦没者25万柱の銘板が建っている。さらに犠牲になった多くの将兵や民間人の碑が建立された。沖縄戦友会は昭和39年に、航空作戦戦没者の碑「空華の塔」を建立した。ここには特攻出撃していった予科練や少年飛行兵、そして乗員養成所出身者など、約2,000柱の若わしの霊が祀られている。
三橋孝氏
小田原市出身の三橋孝(旧姓・小金、仙台養成所6期)は、陸軍嘱託パイロットとして南方航空輸送部で輸送任務に就いていたが、戦後、クアラルンプール近郊で8ヶ月間の捕虜生活を余儀なくされた。およそ1年後、帰国が許されて広島県大竹港に上陸したときは、栄養失調とマラリアに冒され、タンカーに乗せられたほどであった。身長183センチ、体重90キロの偉丈夫が50キロを切って無残にやせ細っていた。
体調が快復するまで丸2年間、その後、日航に就職、再びパイロットとして返り咲いたが、いつも気がかりだったのは、南方航空輸送部時代、戦争で犠牲になった多くの仲間たちの慰霊を顕彰することだった。乗務の合間を利用し、代表世話人となって東奔西走した。その願いがかなって、昭和62年末、摩文仁の丘に、同胞208人の慰霊碑が建立されることになった。
翌年5月29日の除幕式には、およそ90名が参加した。その席上、三橋孝は語った。「南方での慰霊碑建立には、外国のために許可されず、一番近いこの地を選びました。終戦から43年も経ってしまいましたが、せめて生あるうちに、戦友の霊安かれと祈りたいものです」
慰霊碑には、次のような碑文が刻まれている。
3. 知覧特攻平和会館の設立
昭和18年10月、米子航養14期生として乗員養成所に入所した、名古屋出身の板津忠正(旧姓・小椋)は、戦後、知覧特攻平和会館設立に尽力され、初代事務局長を歴任された。
知覧特攻平和会館
猛烈な訓練をへて、19年3月に養成所を卒業した彼の飛行時間は、95式1型中練を修了したばかりで、精々100時間程度であった。卒業後は直ちに充員招集、97式戦闘機によって、ダイブによる敵艦に突っ込む特攻訓練に明け暮れた。この機体はノモンハン事件で活躍した旧式機、その後、10数年経った太平洋戦争で活躍するには、余りにもお粗末なものだった。
板津忠正氏
20年5月、陸軍特別攻撃隊213振武隊として、薩摩半島南端の知覧基地から出撃した。わずか120時間程度の飛行経験しかない14期操縦生は、特攻要員として養成所に入所したようなものである。それでも純真無垢な彼らは、必勝を信じて疑わなかった。第1回目の出撃は徳之島に不時着、2回目と3回目は天候不良で出撃できないまま、終戦を迎えた。すでに同期生62名が、沖縄近海の藻屑と消えていた。
終戦によって死地から脱した彼は、しかし、特攻に殉じた多くの同期生を想い、決して心の休まることはなかった。郷里である名古屋市役所での仕事のかたわら、昭和48年頃から、全国の同期生の遺族を訪ね歩き、霊前に手を合わせ、彼らの遺品を収集してまわった。集められた遺品や遺影の数々は、53年3月、出来たばかりの知覧特攻遺品館へ寄贈された。
しかもなお、心に忸怩(じくじ)たるものを感じていた彼は、観光局課長のポストを投げ打って59年に退職、本格的に遺品収集に奔走した。この年7月に知覧へ移住、全国の関係者に呼びかけながら資金を集め、現在の知覧特攻平和会館設立に全身全霊を投入した。そして61年12月13日、総工費5億円、面積1千5百平方メートルの会館が仮オープン、初代理事長に就任、4年間過ごされたあと、現在は愛知県犬山市のご自宅でご健在である。
知覧特攻平和会館内の遺影および遺品3,000点のほとんどは、板津氏の収集によっている。知覧や万世、都城基地など、陸軍特攻基地から出撃し、沖縄およびフィリピンへの特攻で散華した隊員1,026名、この内、110名が乗員養成所出身者である。
今では年間30万人以上が訪れるこの聖地は、大隈半島にある海上自衛隊鹿屋基地に隣接する鹿屋航空基地史料館と共に、特攻の事実を日本人のみでなく、全世界の人々に伝える縁として、貴重な存在になっている。
展示の目的は、
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特攻の事実を後世に伝える |
② |
特攻戦没者の慰霊顕彰 |
③ |
特攻を通じて戦争とは何かを伝える |
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多くの心ある人々が慰霊顕彰にたずさわり、ここに掲げたものはその一例にすぎない。
-了-
とくだ ただしげ、 航空ジャーナリスト
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