陸軍直轄の航空輸送部隊
1. 南方航空輸送部
(1)南方航空輸送部の設立
開戦以来、破竹の勢いで進攻していた東南アジア、いわゆる台湾以南の占領地域への司政(民政)の必要から、南方総軍は隷下の軍組織に組み込まれた南方航空輸送部(以下、南航)を創設した。これは占領地へ、いきなり民間航空を進出させる危険を回避する配慮もあったようだ。昭和17年12月であり、本部をシンガポールに置き、支部はマレー、ジャワ、ビルマ(現・ミヤンマー)等、それに航空写真部や乗員訓練部など、18ヶ所におよんだ。
防諜名は「岡9326部隊」、一般に岡部隊といわれた。要員は前掲したように、既存の第13、15、16特設輸送飛行隊が各々解散統合されて中核をなし、経理担当の若干の武官と少数の文官(司政長官および司政官)、南方軍嘱託員、それに内地から新たに徴用された職員から成っていた。
それまでの民間航空各社の陸海軍への徴用輸送と異なり、嘱託として陸軍部隊に編入されるので、身分上の問題や給与や服装等々、事務処理が大変だった。頭を坊主にするか否かも問題になった。占領地で現地採用された人の中には、英国航空やパン・アメリカン航空で働いていた外人も含まれていた。
このように南航は、三社の混成部隊であり、それぞれに所属していた会社のノウハウを引きずっていたから、お互いに摩擦を起こし、一致協力体制が出来上がるまでには、相当の時間がかかった。
運営に伴う諸経費は、経理担当武官によって、飛行距離1キロ当たりの定額計算によって支払われた。使用燃料、物品類等は、軍からの貸与の形で運営された。設立当初は、輸送部員の給与は、所属していた会社によって支払われていたが、やがて専任嘱託の身分に変更になり、軍から直接支給する方法がとられた。
最盛期の南航の規模は、職員3,500名、航空機数450機を擁した。輸送範囲も次第に拡大され、南北4千キロ、東西6千キロにおよび、南方占領地帯全域にわたったのである。
昭和17年12月当時の南方航空輸送部運営路線図
日本航空協会発行「日本航空史 昭和前期編」より
(2)乗員訓練部の設立
組織は次第に拡大され、材料廠や修理工場が設立され、試験飛行専用の飛行場も併設されたが、同時に、乗員訓練部が設立された。
南航設立当初の乗員は、大日本航空や中華航空からの選抜組や出向組、それに陸軍輸送航空部からの転属者で充足していた。しかし、戦争拡大による乗員の消耗に対処する必要から、ジャワ島のパタビヤ(ジャカルタ)に乗員訓練部が設立され、昭和18年から乗員訓練が大々的に開始された。
内地の各乗員養成所を卒業した操縦生が送り込まれ、双発高等練習機、97式輸送機、97式重爆改造機、MC20型輸送機等による上級訓練をおこなった。最盛期には250名もの操縦生が投入された。航空燃料が容易に調達できたことで、内地以上に訓練効率はあがったが、戦況の悪化による定期運航路線の縮小によって、養成人員も次第に縮小された。
乗員訓練部第1期生約40名の顔ぶれは、戦後、航空界で活躍した人が多い。トップで卒業した三橋孝(旧姓・小金、日航機長)をはじめ、佐々木実(青木航空/昭和航空)、中川新樹(日本飛行連盟/阪急航空)、佐藤正敏(横浜訓盲学院)、池谷豊次(産経新聞/阪急航空)がいる。戦後、インド独立軍に参加した新開斉政といった変り種もいた。
(3)南方航空輸送部の惨劇
敗戦の色濃くなった19年に入って、制海権や制空権が連合軍に席捲されるに従い、南航乗員は、次第に夜間飛行や悪天候を利用しての飛行を強いられた。いよいよ人員・機材の消耗の度合いは激しくなり、急遽、泥縄式に機上射手の養成を図って、軽武装による防衛手段を講じながら任務を続けた。
定期路線運航は困難を極めていたが、9月下旬、北上した米海軍空母機動部隊の大群の艦載機の猛攻によって、マニラ郊外のクラーク基地に集結した所属機41機が、一夜にして壊滅するなどの致命的な打撃を受けたこともあり、南航は半身不随に陥った。
19年秋の南方軍総司令部のサイゴンへの後退に際しては、20機が三夜にわたって強行輸送をおこなって、その責任を全うしている。さらにレイテ島の戦況悪化にともない、同島の死傷者を補うため、2機によって整備兵40名をレイテ島に緊急輸送したが、ついにコース上の米機動部隊によって撃墜された。機長は加藤守および佐藤勝平だった。
さらに日米両軍決戦の天王山といわれた、19年10月からのレイテ島沖海戦は熾烈をきわめた。そして翌年1月9日、マッカーサー元帥はついにフィリピンのリンガエン湾に上陸した。一帯の制空権は奪われ、飛行の全ては、あるいは深夜に、そして払暁にと、地獄の徘徊であった。
軽武装を施した輸送機では気休めでしかなく、かなりの犠牲者を出しながらも、烈々たる愛国心と航空人としての責任感によって、輸送任務を続行したのである。
最終的に南航は、約2,200名の人員と飛行機約150機に激減、終戦になった。
2. 陸軍航空輸送部
南航とほぼ同じ輸送業務に従事していた、陸軍航空本部直轄の陸軍航空輸送部隊(師第34201部隊)があった。陸軍航空廠飛行班が、各航空会社から受領した飛行機ないし各航空部隊の修理機、オーバーホール機の試験飛行、空輸、連絡飛行等々が主な任務である。 操縦士は少年飛行兵出身の下士官、陸軍委託生から乗員養成所出身者が徴用され、伍長として勤務していた、第1飛行隊から第10飛行隊まであった。
彼らは内地で完成した戦闘機や爆撃機を、フィリピンや沖縄の第一線部隊に空輸するのが任務であった。太平洋戦争勃発とともに、空輸は全戦域に拡大、97式戦、98式直協、99式双軽、99式軍偵などを、マニラやラバウル、ウエワク、ホーランジア、シンガポールへ輸送した。戦闘機の空輸では、教導機と称する97重やMC20型機、DC3型などの双発機が編隊を先導して目的地へ飛行し、帰りは戦闘機を空輸したパイロットたちを乗せた。
この輸送部隊も南航と同じく、18年から19年に入ると、悪天候や撃墜などで犠牲者が急増した。機体の仕上がりや整備不良、それに飛行経験の浅いパイロットが目立つようになり、さらに犠牲者がふえた。無装備で丸腰の軍用機を前線へ運ぶことは、まさに裸同然で猛獣の棲むジャングルへ入り込むに等しい。
戦争末期の稼働率は計画の約20%程度しか機能していない。乗員の絶対的不足を補うために、養成所本科1期生の一部と本科2期生全員を陸軍航空輸送部要員にすることが決定していたのである。
本科1期の永妻寿氏は、19年10月に松戸高等航養所を卒業、同期生48名は直ちに所沢の陸軍航空輸送部第9飛行隊に着任し、所定の軍事訓練後、満州から南方への航空機輸送任務に就いた。しかし、20年に入ると、戦況はいよいよ悪く、全員、本土決戦のために、特攻要員に指名されている。
終戦直前の7月27日、永妻氏は95式1型練習機「赤とんぼ」特攻機を、特攻出撃のために満州への空輸を命じられたが、終戦により、かろうじて命を永らえた。
本科2期生202名は、19年9月に乗員養成所を繰り上げ卒業、全員、陸軍航空輸送隊へ配属され、その後、本土決戦のための、「赤とんぼ」による特攻訓練に明け暮れたが、これも終戦により、からくも最悪の事態から解放されたのである。
とくだ ただしげ、 航空ジャーナリスト
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