予備役下士官の評価と制度の変遷
1. 予備役下士官の去就
前述したように養成所誕生の背景は、有事の場合の予備戦力の温存にあったが、養成所出身者の卒業後の去就は、原則として半年ほどの軍事訓練を終えたあと、予備役として除隊していた。したがって現役志願者を除き、民間航空の発展に寄与すべく、航空局の斡旋によって、養成所教官要員として残留したり、民間航空や飛行機製作会社、新聞社等々へ就職していった。
そもそも養成所へ志願する青少年の大半は、前述した昭和12年6月の、神風号で亜欧連絡往復飛行に成功した飯沼正明操縦士の快挙や、昭和14年8月から10月にかけての、中尾純利機長によるニッポン号での世界一周飛行への、少年らしい憧憬によるものであり、けっして軍人になるためではなかった。
養成所誕生の初期の頃は、まだ世の中が平穏であったから、予備役除隊が可能であり、卒業生は初期の意図通りの道へ進むことができた。しかし、それも昭和14年ごろまでで、操縦生5期生あたりまでであった。ところが14年夏のナチス・ドイツによるポーランド侵攻、翌年の日独伊三国同盟に対する、わが国への欧米列強による圧力の高まりとともに、志願者以外でも召集され、次第にその比率が多くなっていったのである。
養成所卒業と同時に、本人の就職希望は無視され、事実は、航空局と陸軍航空総監部との協議によって、有無をいわさず現役召集の形が一般的になっていった。彼らの意思にかかわらず、飛行戦隊訓練部、後の教育飛行戦隊で、偵察、戦闘、軽爆、重爆などの軍事飛行訓練を受けたのである。
戦闘機隊以外の機種では、主に航法が重要視されて徹底して訓練された。訓練時間は約50時間で、課程終了後、前線の輸送任務に就いたのである。
2. 予備下士官の評価
戦列に加わった予備役下士官は、当然、少年飛行兵出身者らと比較されることになる。ここに昭和15年に、各飛行戦隊から上層部へ提出された予備役下士官を評価した資料がある。その内容はなかなか厳しい。以下に要約して記述する。
○彼らは現役志願者ではないので、「地方的気分」が強く、航空要員のみならず、中隊内部への影響は無視できない。精神ないし内務教育の一層の充実が重要。
○予備役下士官不採用の者が、操縦候補生(士官操縦要員)に採用される不具合がある。
○一般下士官航空要員に比べて、体力不足である。
○年齢が若いため、一般に純真且つ陶冶性に富み、教育の成果が顕著である。
○彼らは伍長として現役採用しているが、上等兵として採用し、一ヵ年は徹底した軍事教育をすべきである。彼らは軍事常識に乏しく、軍人精神の鍛錬不足を痛感する。
○教育末期に配属先を決めるのではなく、できるだけ早期に配属先を決めたほうが、団結上極めて有利である。
評価は、例外的に教育の成果を挙げているものもあるが、一般的に厳しく、体力が劣り、娑婆っ気が多いから、軍人精神を叩き込まなければモノにならないという意見が大半を占めた。
このマイナス・イメージは太平洋戦争勃発当初には、ますますエスカレートし、「予備下士」=「弛んでいる者」という同義語が出来上がっていた。「軍人精神の欠落者」「地方的気分屋」「娑婆っ気が多い」という訳で、ほとんどの教育隊で徹底してしごかれた。この度合いは、現役下士官が多い海軍航空隊で激しかったようだ。
3. 腕の予備下士
軍に編入された養成所出身者にとって、前掲のような扱いは、はなはだ不名誉なことだったから、悔しい思いをし、その反動で発奮した話もある。実際に少年飛行兵と比較して、系統的ないし相対的に、恵まれた環境の中で2等操縦士になっていた予備下士官たちの腕は、少年飛行兵たちよりも優れていたから、飛行競技会などでも上位の成績を収めていた。
他方、明らかに養成所出身者の勇気を鼓舞すべく、意図的に特攻へ志願したり、体当たり攻撃をおこなって殉職した哀しい出来事もある(後述)。
軍隊が徹底したタテ割りの世界とはいえ、とくにパイロット仲間では、腕のよい者は上下から一目置かれていたから、これは大いに救いだった。彼らは「腕の予備下士、(軍人)精神の少年飛行兵」と呼んで、自らを慰めていた。
戦争も末期になって相次ぐ激戦の中、殉職による熟練パイロットの激減により、皮肉にも予備下士官の腕が目だってきたのである。精々、2~300時間の飛行経験しかない予科練出身者に対し、予備役の間、乗員養成所などで助教をしていた彼らの腕は冴えていた。「夜間飛行のできる最後のパイロット」といわれたが、逆にそれが古参の怒りをかったという皮肉な現象も起こったようだ。
“パイロットなら腕で勝負しろ”という潜在意識の強い航空隊では、威張るばかりで人間的魅力に欠ける上官への反発は相当なものがあったし、腕の低い予科練出身者たちともソリが合わなかった。むしろ学徒出陣の特別操縦見習士官たちとの方がウマが合った。しかし、戦争末期になると、皮肉にもその腕を買われて最前線や本土防衛のための特攻要員としての配備につかされたのである。
4. 乗員養成所教育体系の変遷
昭和19年4月付きの航空機乗員養成所規則改定により、ついに養成所組織は軍に直結する組織へ改変された。これによって地方航養所生徒または高等航養所普通科生徒は、最初から陸軍予備生徒として兵籍に編入され、卒業生は伍長または軍曹、高等航養所高等科卒業生は少尉として遇している。
これは18年10月から始まる学徒出陣直前の改定であり、航空を超重点施策とする東条首相じきじきの指令であった。つまり飛行経験のある操縦士を、短期間の教育で戦力化する狙いであり、逓信省航空局に所属しながら、「半官半民」ではなく、「半軍半官」といわれた所以である。
海軍については、地方航養所時代を甲種予備練習生として遇し、卒業後は上等飛行兵曹(従来は一等飛行兵曹)となって実戦配備についた。陸軍に比べて約2年後の17年5月に設立された高等航養所生徒についても、甲種予備練習生であり、卒業生は飛行兵曹長として戦地へ赴いた。陸軍と違って、やはり予備下士官だったことに特徴があるが、終戦直前の改定であり、この適用を受けた者はいない。
注:陸海軍の兵から準士官までの階級を以下に記す。
陸 軍 |
海 軍 |
兵 |
2等兵、1等兵、上等兵、兵長 |
兵 |
2等水兵、1等水兵、上等水兵、水兵長 |
下士官 |
伍長、軍曹、曹長 |
下士官 |
2等兵曹、1等兵曹、上等兵曹 |
準士官 |
准尉 |
準士官 |
兵曹長 |
とくだ ただしげ、 航空ジャーナリスト
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