航空機乗員養成所の設立(その1)
1. 逓信省航空局による民間委託訓練
逓信省航空局による陸海軍委託乗員養成制度は、既存の各民間飛行学校の大反対にあったが、結果的に、航空局や帝国飛行協会、新聞社などの関係機関の継続的な活動によって、航空に対する民意の向上と共に飛行学校は増え続け、必然的に民間パイロット数も増加した。昭和10年には、27ヶ所もの民間飛行学校が設立され、パイロット総数も671名(うち女性13名)にのぼった。
航空法により2等飛行機操縦士資格しか与えられなかった女性を除き、彼らの就職先は航空会社をはじめ、新聞社や通信社、機体やエンジン製作等の航空工業関連会社、それに販売会社、民間飛行学校教官などである。といっても欧米とは比較にならないほど少ない。
ここで航空局は、継続して国費による乗員養成の急務であることを認識し、昭和10年に航空振興計画を立案、予算要求をおこなった。その計画では、航空局の求める条件を満たした民間飛行学校や民間団体を指定し、奨励金を支給して人材を集め、飛行訓練生の訓練費用を軽減(従来の授業料の2割以内)することで、個人負担を軽くし、操縦士への道を容易にしたのである。
指定の条件は、過去の実績と現在の施設並びに教育内容が重要視され、配属将校の派遣を義務づけた。これは、優秀な予備役将校および下士官操縦者を選抜する意図があった。彼らには戦場での即戦力を身につけさせるため、派遣将校による術科(教練)教育が義務づけられ、飛行時間も75時間以上としたが、教育期間の定めはない。
まず昭和11年に日本飛行学校、名古屋飛行学校、亜細亜飛行学校の3校が指定を受けた。計17名が航空局による身体検査および学科試験後に、11年度に逓信省による指定第1期生が誕生したのである。翌年には同じく25名が指定を受けている。
戦後、日本航空機長になった工藤哲は名古屋飛行学校卒業1期生である。又、長野英麿と小田泰治(共に戦後、日本航空機長)は、2期生として、それぞれ日本飛行学校と亜細亜飛行学校を卒業している。
上記以外で指定された民間団体は、日本学生航空連盟(関東、東海、関西)と㈶大日本青年航空団であった。最終的に40名が、それぞれの飛行学校で所定の飛行訓練を受け、予備役下士官候補生課程に進んだ。戦後、航空大学校教官になった竹田(旧姓・園田)静雄は大日本青年航空団卒業生である。
この外に海軍予備航空団があった。これは㈶日本学生航空連盟内にあった海洋部が発展したものであり、海軍志願者への準備教育をおこなった。大学・高専在学中の学生が訓練を受け、卒業後、予備学生として入隊したが、太平洋戦争勃発直前に海軍航空隊が全てを継承して海軍予備航空団は閉鎖された。
2. 伊藤視察団による建議
昭和6年9月に勃発した満州事変、続く12年7月の日華事変によって、戦時下における陸海軍パイロットの大量養成による予備戦力の必要性が、国会をはじめ、陸海軍首脳部で論じられるようになった。
陸軍中央は、欧米列強の航空軍事状況を把握する目的で、昭和10年4月、航空本部長・伊藤周次郎少将を団長とする、航空視察団を送りだした。欧米を詳細に視てまわって提出された報告書では、「日本の地理的環境は、経済、科学技術、工業をはじめ、飛行場や航空路の整備に、是非、政府と軍部の補助ないし支援が必要である」ことが強調されていた。このことは航空機乗員養成所設立の強い動機付けとなったのである。
第一次大戦後のベルサイユ条約によって航空工業開発に厳しい制限を科せられていたドイツは、秘密裏にスイスやロシアで飛行機開発や生産、乗員養成をおこなっていたし、有名なヒトラー・ユーゲントを立ち上げた。この組織は、青少年による大規模なグライダー訓練を奨励するもので、ナチス・ドイツが将来を見据えた予備戦力であった。
ソ連も同様に、オソアビアム(国防飛行科学協会)を中心に、年間4千人の乗員養成による15万人常備員計画という、大量民間パイロット養成計画を、着々と進めていたのである。
この時期、日本では航空省設置の問題が浮上したが、これはお膝元の陸海軍共に消極的だった。とくに縄張り意識の強い海軍は、独自の開発の妨げになるとして反対した。この案が流れたことで、欧米列強のその後の航空拡大に遅れをとることにつながった。
航空省こそできなかったが、昭和10年春、衆議院による「航空国策樹立ニ関スル建議案」、貴族院による「民間航空機促進ニ関スル建議」が可決され、7月には「民間航空振興計画」が立案された。これによって、ようやく大量航空機乗員養成の気運が盛り上がったのである。
そして12年1月の帝国議会で、杉山元陸相は「軍事航空の戦時における強大な予備軍」の必要性を強調し、組織的・体系的な民間航空教育機関(学校)の設置が加速されていった。
3. 航空機乗員養成所設立の構想
欧米列強の軍備拡大、わけても航空勢力の拡大は、年間数千人単位でパイロットを養成して第二軍として機能させるべく着々と準備していた。ここにきて第一次大戦を対岸の火事程度に眺めていた陸海軍中枢も、ようやく自前で養成したパイロットだけでは不十分という認識を持ち始めるようになった。
ついに航空局は陸海軍と共に、昭和13年5月に制定された「操縦士養成規則」に則り、次のような内容の策定計画を練った。
第一段階
中学校程度の国立航空学校ともいうべき航空機乗員養成機関を全国5ヶ所、専門学校程度の航空学校を1ヶ所設置する。
第二段階
中学校程度の航空機乗員養成学校を2県に1校の割で設立し、修業年限は5年間とする。学校には、それぞれ飛行場を付設する。
対象者は尋常小学校卒業生とし、卒業後ただちに入学させ、操縦と機関の両部門の教育と普通教育を施し、最後の1~2年に操縦教育を実施する。上級学校への入学は、中学と同一の扱いとする。なお、将来は財政の許すかぎり、1県1校とする。
このニュースに飛びついた新聞各社は、「官立の航空中学校開設さる」、「航空学校の設立」などと書き、「東亜の空の光たれ、銃後を担う民間鳥人の卵、航空局で大募集」などの大々的な掲載をおこなった。やがて全国の街角に貼られた「空だ、男の行くところ」といった逓信省航空局航空機操縦生募集のポスターは、全国青少年の血をたぎらせたのである。
航空局が昭和8年頃、操縦生 生徒募集に用いたポスター
記念誌「赤とんぼ」より(非売品・昭和55年発行)
当初の乗員養成設立の構想は、第二段階のように、陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校という、陸軍将校を育てる発想に準じようとするものだった。そして陸海軍パイロット予備の存在として、相当期間の訓練を受けさせたのち、予備役士官として遇し、平時は民間の仕事に従事し、年1回くらいの訓練を受けさせ、必要なときには適宜、再訓練によって前線に投入して軍人パイロットをバック・アップする構想だった。
したがって第一段階は、あくまで第二段階の構想が軌道にのるまでの暫定的な措置だったが、時局の急変とともに陸海軍による大量パイロット養成の要望が強くなり、皮肉にも臨時の措置が本命となって強化増強されていった。結局、陸軍系12ヶ所、海軍系5ヶ所の乗員養成所が設立され、終戦までつづいた。
とくだ ただしげ、 航空ジャーナリスト
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