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逓信省航空局 航空機乗員養成所物語(2)
- 民間パイロットの萌芽 -
  徳田 忠成
2007.02.15
   
   
           民間パイロット養成の萌芽 

1. 日本の航空黎明期

 人間の空への憧憬は、神秘の力で天空を舞う神話の世界を創造したが、これから脱出して気球が誕生したのは18世紀後半であった。フランスのモンゴルフィエ兄弟が熱気球の浮揚に成功すると、その簡単な理屈と構造から、たちまちヨーロッパ社交界で大変なブームを巻き起こした。着飾った紳士淑女がゴンドラに乗り込み、フワリフワリと空中にさまよいながら、下界を眺めてシャンパンを酌み交わしたという。やがて飛行船、それから約100年後にライト兄弟による歴史的な有人動力付初飛行が成功したのである。

 このビッグ・ニュースが日本にもたらされたのは、およそ4年後であった。今では信じられないほどユッタリした時間が流れていた時代である。明治40年(1907)の「科学世界」で紹介され、翌年の新聞「萬朝報(よろずちょうほう)」に掲載された。

 日本初の航空官営組織である臨時軍用気球研究会(以下、研究会)が、軍・官・民の気鋭21名によって組織されたのは、明治42(1909)年7月であった。この奇妙な名前は、気球と比較して、飛行機など誰も見たこともない時代だったから致し方ない。研究会に所属していた徳川好敏および日野熊蔵両陸軍大尉が、やがて欧州に派遣されて操縦術を学び、それぞれ飛行機を持ち帰り、代々木練兵場(現在の代々木公園)で初飛行したのが明治43年(1910)12月19日である。

 その後、陸軍が東京府下の所沢に飛行場(現在の所沢航空公園)を完成させたのは、翌年4月であったが、平和な時代を反映して航空開発は遅々として進まなかった。

 第一次大戦後の大正8年(1919)1月、陸軍はフランスからフォール大佐率いる航空技術指導団を招聘、海軍も大正10年(1921)9月に英国からセンピル大佐を長とする航空使節団を招き、第一次大戦の空戦のノウハウを徹底して伝授された。これが日本陸海軍航空の礎(いしずえ)となり、航空部隊編成の必要性が認識されるようになったが、陸軍の歩兵第一主義と海軍の大艦巨砲主義は、決して揺らぐことはなかった。陸海軍が惰眠から醒めて、本格的に航空部隊の建設を目指したのは昭和10年(1935)前後からである。

2. 帝国飛行協会の設立

 島津藩家老の家柄に生まれた奈良原三次男爵は、東大工学部卒業後、海軍技士(大尉待遇)として研究会のメンバーになっていた。彼は早くから外国文献を紐解き、自ら飛行機を製作、飛行を試みたのが、徳川大尉初飛行の2ヶ月前であった。これは馬力不足で失敗したが、続いて「奈良原式2号」機を製作し、ホップ程度であったが飛行に成功したのが明治44年(1911)5月5日であった。やがて門下生となる、青森県出身の白戸栄之助や大阪府出身の伊藤音次郎が活躍の場を与えられ、白戸は次の年4月に、神奈川県川崎競馬場で有料公開飛行をおこない、日本プロ・パイロット第1号の栄誉に輝いている。

奈良原三次(34歳)初飛行記念写真

 奈良原男爵が千葉県の稲毛海岸に民間飛行場を開いたのは、明治45年(1912)5月である。といっても引き潮による干潟を滑走路の代用としたものである。その数年後の大正4年(1915)2月、伊藤は伊藤飛行機研究所を開設、白戸も翌年9月に白戸共同飛行練習所を設立した。この2校は日本での民間パイロット養成校の嚆矢となった。以来、帝国飛行協会設立の前後から、私設の飛行学校が次々に誕生していった。同時に、仏独米で飛行免状を手にした若者もぼつぼつ現れはじめた。

 明治末期から大正初期にかけて、アメリカで操縦術を学んだ日本人は17人を数えたが、帰朝後の彼らの活躍は、青少年に計り知れない影響を与えている。

 アメリカ帰りの武石浩玻(こうは)はその典型だった。帰国後の彼は、自前の「白鳩」号を駆って各地で公開飛行をおこない大変な人気を集めた。しかし、大正2年(1913)5月、京都の深草練兵場で墜死し、享年30歳で日本初の民間人犠牲者となった。生前の彼は今でいうアイドル的存在であり、子供たちは武石の特徴である鳥打帽を後ろ向きにかぶって、両手を広げて「ブーン、ブーン」と言いながら走り回ったという。

 
大正元年(1912)12月、退役海軍少佐・磯部鈇吉(おのきち)の東奔西走の尽力により、日本航空協会が発足したが、翌年(1913)4月23日に帝国飛行協会(当協会の前身)と合併した。協会の趣旨は民間航空振興であり、航空に関する訓練および指導の実施、航空思想の普及徹底並びに航空諸般の進歩開発にあった。磯部は帝国飛行協会がドイツへ飛行機2機を発注した際、ドイツへ派遣され、その製作に立会うとともに、操縦術を習得している。

磯部鈇吉(36歳)
 

 しかし、寡黙ながら本来好奇心旺盛な磯部は大正4年(1915)6月、帝国飛行協会を辞し、8月には第一次大戦下のフランスへ渡り、フランス航空隊パイロットとして従軍した。そしてレジオン・ド・ヌール勲章およびクロワー・ド・ゲール勲章を受章するほどの活躍をしている。第一次世界大戦の終結とともに日本へ帰国し、再び日本グライダー倶楽部を設立するなど、生涯を航空思想普及につとめた。なお余談ながら、フランス軍航空隊で活躍した日本人は、バロン滋野や馬詰駿太郎など10名を数える。

 日本を取り巻く国際情勢が次第に厳しくなっていくに従い、協会も時代の流れに逆らうことはできなかった。協会は陸海軍の指導的圧力が強くなるなか、昭和15年(1940)10月1日、それまでの日本学生航空連盟、大日本青年航空団、あるいは日本帆走飛行連盟などの既存の各種民間航空団体を吸収統合し、その総本山として、名前も大日本飛行協会と改称されて終戦まで続いたのである。

3. 民間パイロットの組織的養成開始

 徳川、日野両大尉初飛行の翌年3月には、早くもアメリカのボールドウイン飛行団が、カーチス複葉機2機を携えてやってきた。彼らは大阪城東練兵場を皮切りに、日本各地で有料公開飛行を披露したが、これを目の当たりにした日本人は、まさに空の黒船的ショックをうけた。上空で鳥のお化けのような怪物が乱舞する様は、とくに青少年の心を深く捕らえたのである。飛行団はホノルルをはじめ、アジア、東欧など250回以上の巡業飛行をこなしたが、中でも日本人の好奇心は旺盛で、もっとも反響が大きかったという。

 航空に対する国民の関心が浸透していったが、組織的な民間パイロット養成は、協会設立後の大正4年(1915)から始まった。協会が訓練費用を負担し、毎年、数名ずつ採用して研究会での委託訓練をおこなうものである。陸軍もこのアイデアに積極的で、操縦教育は数ヶ月間、飛行時間約50時間で、卒業後は協会に所属する技師とする意図があった。しかし、まだ民間航空の必要性を疑問視する時代であり、実際には次の7名で中断した。

第1期生(大正4年入所) 尾崎行輝 扇野竹次
第2期生(大正5年入所) 後藤正雄 佐藤要蔵
第3期生(大正6年入所) 後藤勇吉 飯沼金太郎 田中六郎

 上掲で扇野以外の6名は、日本民間航空黎明期の牽引車として活躍した。1期生の尾崎は、京大在学中に父親を説得して応募している。扇野が事故によって訓練を中断したことで、尾崎は只1人の訓練となった。約3ヶ月間の飛行訓練をこなし、大正4年(1915)9月15日、皇族や父親の司法大臣の見守るなか、青山練兵場で盛大な卒業飛行を披露し、晴れて正規に訓練を受けた民間パイロット第1号となった。卒業後、協会の技師として手腕を発揮し、戦後は日本航空役員などを歴任している。

晩年の尾崎行輝

 2期生の後藤および佐藤は、卒業後、所沢・大阪間の飛行時間記録をはじめ、協会主催の数々の野外飛行記録大会で活躍した。

 宮崎県出身の3期生・後藤勇吉は、日本最初の一等飛行操縦士になった。数々の懸賞飛行大会で受賞し、民間パイロットの至宝といわれながら、協会主催の太平洋横断飛行企画での訓練の最中、33歳で墜死した。所属していた川西機械製作所(後の川西航空機)をはじめ、全国13ヶ所で葬儀が執り行われ、全国民から弔電と見舞金がよせられた。意気軒昂、沈着冷静の人だったという。事故でパイロットを断念した飯沼は、アジア最大の亜細亜飛行学校を経営し、多くの航空人を輩出したのである。

後藤勇吉


参考:「航空機乗員養成所年表

とくだ ただしげ、 航空ジャーナリスト

次回は「第2章 陸海軍委託によるパイロット養成制度」を掲載します。 

         
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