航空機乗員養成所の設立(その2)
1. 航空局乗員養成所の設立
まず昭和13年6月に陸軍系として、仙台と鳥取県米子に養成所が誕生した。仙台は東京から北海道の中間地点として、又、米子は大陸への航空路拡大の中継地点として承認された。この経済効果は大きく、地価が一挙に数倍に跳ね上がったという。
ここで陸海軍が同時にスタートしなかったのは興味深い。もともと両者は伝統的に犬猿の仲であるが、陸軍は欧米列強の例にもあるように、現役50%、予備役50%という動員思想がベースにある。それに対し艦隊勤務が主である海軍は、あくまで現役主義にこだわっている。それが昭和5年6月に、早々と少年飛行兵制度(後の乙種予科練)を創り、昭和12年4月に甲種予科練を立ち上げたことでもわかる。
受験資格は旧制中学卒業程度の学力と体格を有する者で、難関を突破した1期生170名は、仙台45名(2期生25名を含む)、米子45名(2期生25名を含む)と、民間委託操縦生80名であった。
昭和16年4月に遅ればせながら「航空機乗員養成所規則」が制定され、乗員養成所に関する法令がようやく完備された。その概要は以下のとおり。
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1等操縦士の中央養成所と、2等操縦士の地方養成所を区分した。 |
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修業年限を5年とし、生徒は国民学校(小学校)初等科修了の男子を採用する。 |
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課程修了後、2等操縦士および2等航空士の技量証明書を授与する。 |
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生徒には、月4円の手当を支給する。 |
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卒業後、本科生は5年間、航空局長官が指定した業務に服する義務がある。 |
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乗員養成所は、操縦士の臨時養成をおこなうことができる。(臨時)操縦生については2年間、航空局長官が指定した業務に服する義務がある。
注:
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現実には、戦局の緊迫と共に操縦生が先行して本命となり、本科生は2次的存在になっていった。 |
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試験内容は学科以外では、身体検査、適性検査、口頭試問、身元調査と5段階の関門があり、手当てを貰って飛行訓練を受けることが魅力となり、常に難関だった。
しかし、乗員養成所を目指す若人は後を絶たず、常に数十倍の倍率で、とくに甲種合格の身体強健な者が選ばれた。操縦生の衣食住はすべて国庫が負担し、若干の手当てが支給された。全員、隊舎で起居し、まったく軍隊と同じ日程で訓練を受けた。
健康診断を受ける少年たち。 宮本晃男著「航空機乗員養成所」より
卒業時には、昭和14年6月改正の「航空機操縦養成規則」に則り、陸軍航空総幹部の方針により、全員、予備役下士官候補者試験を受験し、直ちに一等兵として軍籍にはいり、6ヶ月間の軍用輸送機訓練ののち、陸軍伍長として下士官予備役除隊となった。現役召集の道もあったが、ほとんどが除隊している。但し、海軍については14年1月の海軍予備練習生規則改正によって、予備役除隊の措置を受けることはなかった。
それまでは一部は、士官の道である操縦候補生試験(中学校卒業者が対象)に合格し、士官の道へ進んだが、第四期操縦生以降は、このような例外はない。これは一年間を要する操縦候補生の教育機関を廃することで、操縦者の早期戦力化が図られたものと思われる。但し、予備役下士官候補者試験を不合格になり、再度、徴兵で入営後、操縦候補生採用試験に合格した者も出てくるなど、この矛盾対策のひとつとして、特別操縦見習士官制度が制定された。
彼らのほとんどは、予備役下士官として除隊後、母校の助教をはじめ、大日本航空、満州航空、中華航空、航空機製造メーカーへと就職し、さらに上級コースの中央航空機乗員養成所へ進んでいった。そのまま軍隊に残り、そこで優秀な者は操縦候補生課程を経て将校に昇進した者、母校の助教を経て操縦候補生になり、終戦時、少佐にまで昇進した者もいたが例外だった。
昭和16年にはいり、いよいよ日本をとりまくABCD(米、英、中国、オランダ)による欧米列強包囲網の緊張の高まりとともに、対米英戦争不可避の様相とあいまって、陸海軍軍備の更なる充実の必要から、予備役下士官除隊後、直ちに召集のかたちで徴兵検査を受け、なかば強制的に応召されるようになった。
2. 全国に航空機乗員養成所の設置
仙台と米子に養成所が設立されて以降、戦雲の拡大と共に、養成所の設立は全国に急展開していった。終戦までに設立された養成所を掲載する。
★陸軍系(12ヶ所)
仙台地方航空機乗員養成所 (昭和13年6月開所)
米子地方航空機乗員養成所 (昭和13年6月開所)
松戸中央航空機乗員養成所 (昭和15年4月開所)
新潟地方航空機乗員養成所 (昭和16年4月開所)主に整備・機関士養成
印旛地方航空機乗員養成所 (昭和16年4月開所)
熊本地方航空機乗員養成所 (昭和16年4月開所)
古河地方航空機乗員養成所 (昭和17年4月開所)20年6月に高等航空機乗員養成所と改称
京都地方航空機乗員養成所 (昭和17年4月開所)
岡山地方航空機乗員養成所 (昭和17年4月開所)
都城地方航空機乗員養成所 (昭和17年4月開所)
筑後地方航空機乗員養成所 (昭和19年4月開所)
山梨地方航空機乗員養成所 (昭和20年4月開所)整備専修生養成
★海軍系(5ヶ所)
愛媛地方航空機乗員養成所 (昭和17年4月開所)
長崎地方航空機乗員養成所 (昭和17年4月開所)
福山高等航空機乗員養成所 (昭和18年4月開所)19年4月に地方航空機乗員養成所を併設
郡山地方航空機乗員養成所 (昭和19年4月開所)開所後、海軍が接収
天草地方航空機乗員養成所 (昭和19年4月開所)開所後、海軍が接収
養成所入所数は、戦争の最中の昭和18年以降、急速に拡大した。操縦生11期(昭和18年3月卒)から、ようやく海軍が参入してきた。陸海軍共に14期(19年7月卒業)が最終期である。本科生については後述する。
総概数をみると、終戦までのわずか7年間余で7,570名(操縦生3,107名、本科生4,179名、機関生284名)が入所し、戦時中の卒業者は3,822名(操縦生3,107名、本科生600名、機関生115名)を数えた。この差の3,748名は、すべて本科3期生から7期生と、松戸機関生5期の整備専修生169名であり、訓練中に終戦になった。これに加え、民間委託生総数は194名が卒業している。
3. 陸軍特別幹部候補生制度の設立
学生徴兵猶予停止令によって、学徒が動員されたのは昭和18年10月であるが、同年12月14日に「陸軍現役下士官補充及服務臨時特例」(勅令922号)が発布され、陸軍特別幹部候補生制度(俗に「特幹」)が設立された。これは海軍の甲種予科練の大量募集を参考にして、急遽、つくられた制度である。
この制度は陸軍の全ての分野の現役下士官の養成、つまり採用の日から2年間現役に服する短期現役下士官制度であり、一期生は約3万名におよんだ。一度の採用は無理なので、1、2、3期と分割して入隊させられた。1等兵として採用され、6ヶ月後に上等兵、さらに6ヵ月後に兵長、そして1年6ヵ月後の課程終了後に伍長(下士官)に任ぜられた。
操縦については1割の3千名が採用された。この中には、陸軍系乗員養成所15期生として、既に適正検査まで終わり、入所が決まっていた生徒約300名が、なしくずし的に特別幹部候補生第1期生として組み込まれ、19年4月に大刀洗陸軍飛行学校(13個中隊)へ入校させられた。彼らは9中隊と10、11中隊の一部として編成された。「嗚呼、特幹の大刀洗」といわれた陸軍のこの制度を知る人は少ない。
入隊者の年齢はばらばらで、大正13年4月から昭和4年3月生まれで、年齢的に満15歳から満20歳未満の者と幅があった。現役兵から移行、高専在学中の者、旧制中学を卒業し、すでに社会人として働いている者と多様である。最終期は6期生とも8期生ともいわれるが、詳細な記録は残っていない。
中学校以上の課程修了者または特殊技術を修得し、技能優秀な者は、軍曹(准士官)への道が開けていたが、入隊後の昇進が募集時の内容と違い、乙種幹部候補生(甲種ではない)に準ずる制度だったことがわかり、入隊後あらためて陸上や甲種幹部候補生(操縦候補生)へ進んだ者もでてきた。
大刀洗での操縦教育は短期で、地上準備教育4ヶ月、基本操縦教育4ヶ月、分科基本操縦教育4ヶ月、練成教育4ヶ月で、教育終了予定は20年7月だった。軍事教科などの地上準備教育を終えた第1期生は、8月1日から基本操縦課程にはいった。訓練内容は、乗員養成所の訓練と大差はないが、戦局に即応する必要から、滑空機訓練に重点をおいた猛訓練が開始された。短期間での精神教育も徹底しており、航空兵の本領として、とくに「熾烈なる攻撃精神」「不撓不屈の精神」「時間の厳守」をたたきこまれた。全員を飛行訓練に投入する受け皿がなく、一部は、台湾など海外で訓練すべく、乗船のため待機を余儀なくされている。
飛行訓練は初級練習機の95式三型(注1)でなく、最初から95式一型中練(注2)がほとんどで、その他、4式練(ユングマン)(注3)が使用されたが、教育隊によっては、いきなり99高練(注4)、2式高練(注5)を併用する形の珍しい訓練が実施された。陸軍当局の焦りがうかがえる。それでも戦局の悪化は如何ともしがたく、燃料事情も極度に悪くなり、19年末には、乗員養成を年間1万人に縮小せざると得なかった。
95式一型中間練習機(愛称:赤とんぼ)
(注1)
95式三型初級練習機(キ17は、95式一型中間練習機(中練)の欠点である重心位置不適当、馬力不足を補う初級練習機として、石川島(後の立川飛行機)が昭和10年4月末に設計、3カ月で完成させた。翼面荷重が小さいので、手放しで上昇できる易しい飛行機で、グライダー曳航にも使用された。強度も中練の半分の6Gである。約660機生産。複座複葉単発、全幅9.82m全長7.85m、ハ13甲型150馬力エンジン、総重量914kg、最大時速174km。 (注2)
95式一型中間練習機(キ9)は、「赤トンボ」の愛称で親しまれ、陸軍パイロットのほとんどが、これで訓練を受けた。石川島(後の立川飛行機)によって製作され、初飛行は昭和10年1月7日。強度は戦闘機なみの12G以上で、曲技飛行も可能だったが、初歩練習機としては難しく、前述の三型が後に造られた。しかし、戦争拡大とともに、乗員の急速な養成が必要になり、初めから一型で訓練をおこなうようになった。終戦間際には、250キロ爆弾を装備して、特攻機として使用される運命がまっていた。総計2,398機生産。複座複葉単発、全幅10.32m全長7.90m、ハ13甲空冷星型350馬力エンジン、総重量1,580kg、最大時速240km。
(注3)
ユングマン練習機は、イリス商会がドイツのビュッカー社から昭和13年4月に輸入した。軽快な動きが評価され、初練、曲技飛行、グライダー曳航などに多用された。逆宙返りも容易だった。陸軍4式基本練習機、海軍2式基本練習機の原型である。複座複葉単発、全幅7.40m全長6.62m、ヒルト空冷100馬力エンジン、総重量670kg、最大時速180km。
(注4)
陸軍99式高等練習機(キ55)は、95式一型練習機から司令部偵察機、軽爆、重爆、輸送機へ移るために、可変ピッチ・プロペラ、フラップ、航法装置、武装等の準実用的練習機として、立川飛行機で製作された。14年3月に1号機が完成した。日華事変後期から太平洋戦争全期で使用された。立川の外、川崎でも生産され、総計1,386機が生産された。複座単葉単発、全幅11.80m全長8.00m、ハ13甲空冷式470馬力エンジン、総重量1,721kg、最大時速349km。
(注5)
陸軍2式高等練習機(キ79)は、立川の陸軍空技研究所と満州飛行機設計部とによって、97戦(キ27)を単座および複座の戦闘練習機へ変換した。終戦間際には実戦任務につき、爆装特攻機にもなった。満飛で陸軍練習機としては最高の3,710機生産された。単座および複座、単葉単発、全幅11.50m全長7.85m、空冷星型9気筒4800馬力エンジン、総重量1,300kg、最大時速340km。
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このあおりを食って、1期生の飛行訓練生は3分の1の約1千名に激減した。内容は教育飛行隊約200名、練習飛行隊約400名、特攻隊約300名というものだった。そして残りの3分の2の飛行訓練はなく、対空射撃部隊、機上通信、機上射手として実戦に参加したのである。
20年にはいって、この傾向はますますひどくなり、陸海軍による乗員養成所の接収ないし併設が相次ぎ、余剰機は特攻機となり、教官や助教の特攻要員指名と、あわただしいものがあった。そして遂に、「と号作戦」(特攻作戦)が発令され、練習飛行隊生徒も特攻の対象者となり、中練や高練等で急降下を主体とする猛訓練が続けられた。といっても技量未熟は覆うべくもなく、ろくに編隊も組めない彼らが、はたして目的地へ到着するだろうかと危惧されるほどであった。
国外での訓練を予定していた待機者は、600名とも650名ともいわれる。彼らは100名、150名と13隻からなる船団に乗船して出国したが、台湾の基隆、高雄、左営沖合、香港などで、アメリカ海軍潜水艦の攻撃により、一隻が餌食になった。そして12月末、訓練基地であるマレー東岸のクアンタン飛行場に到着した。
現地では、第3航空軍第55航空師団隷下の練習航空隊に編成されて、20年の初めから飛行訓練が開始された。訓練機種は、はじめから99高練、2式高練が約20機、飛行班では、真新しい飛行服、帽子、靴、教科書などが支給され、飛行訓練を待ち望んでいた生徒たちは張り切っていた。いよいよ訓練、しかし戦局の配色は如何ともしがたく、ようやく単独飛行にこぎつけた頃に訓練は中断された。
第1期生の訓練終了は20年7月だったから、と号部隊へ編入されて待機した以外は、幸いにして操縦士として前線への出動はなかったが、機上通信に従事した特幹の特攻戦死者3名の記録がある。この間、特攻訓練中の事故死、船舶輸送途上の撃沈による溺死等、犠牲者は数百名におよんだといわれる。まさに終戦直前の日本陸軍の断末魔をみる思いで哀しい。
とくだ ただしげ、 航空ジャーナリスト
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