天虎飛行研究所の実状
1. 航空局による養成所天虎分教場の指定
逓信省航空局は、乗員養成所設立と平行して、乗員養成の一部を民間へ委託していた。海軍系の委託を受けたのは、井上長一が経営する大阪の堺水上飛行学校と、藤本直が経営する琵琶湖畔の天虎(てんこ)飛行研究所であった。堺は場所的に訓練効率が上がらず、1年で脱落したが、天虎は終戦まで委託訓練をおこなった異色の飛行学校である。
但し、昭和18年春からは、大日本飛行協会傘下の天虎飛行訓練所として、学徒の飛行訓練にたずさわった。これは琵琶湖という波がおだやかな、抜群の訓練環境がモノをいったことと、藤本直校長の力量に負うところが大きい。
天虎(てんこ)飛行研究所は、愛知県知多半島の安藤飛行研究所で教官をしていた藤本直(海委11期)が、昭和12年6月、滋賀県大津市馬場里の琵琶湖畔に設立し、大津水上飛行場を拠点とした関西の飛行クラブである。大津市民には天虎(てんとら)と愛称されていた。天虎とは藤本が寅年だったことからきている。設立当初は琵琶湖や京都一円の遊覧飛行とビラまきくらいだったが、週末ともなると、十数台の高級車がならび、嵐寛寿郎や森光子ら映画スターらが出入りした。
天虎飛行研究所の訓練風景(大津市歴史博物館提供)
航空局による飛行訓練委託条件は、1年間で学科と200時間の飛行により、一等操縦士および二等航空士資格取得のための、必要な教育を実施するものだった。委託訓練校としての指定を受けた藤本は、早速、援助資金により、格納庫の増設、学生宿舎、教室等々、研究所の拡大整備をおこない、13年6月1日に委託生4名を受け入れた。
顔ぶれは占部桂順(のち天虎助教、戦後、住職)、稲垣茂樹(戦後、全日空機長)、林忠夫(大日本航空機長、川西大艇で殉職)、それに寺田正夫がいる。堺水上飛行学校へも同様に4名が委託された。
訓練機は、初練として13式水上練習機、中練が15式水上中間練習機、航法訓練機として14式水上機が使用された。彼ら4名は、予定通り約200時間の訓練を消化した後、所定の追加訓練を受けるべく、霞ヶ浦海軍航空隊へ送り出された。
同時に、その優れた成績が評価され、異例の米子臨時航空機乗員養成所天虎分教場として、出発することになった。訓練の中味は海軍式教育制度によるものだったが、完全に独立していた。前掲したように、堺水上飛行学校への委託は1期生のみで終っている。
分教場としての1期生は6名で、日本青年航空団から移行してきた者たちだった。但し、まだ官制上は乗員養成所の分教場ではなく、卒業者全員が陸軍に入隊した。その一人である大久保正美は、卒業後、陸軍士官の道をすすみ、大尉で終戦、戦後の自衛隊発足と同時に入隊、ふたたびパイロットの道を歩んだ。
正式に米子の天虎分教場となってからの生徒は、15年8月入所の2期生10名からで、養成所7期操縦生に相当する。数少ない顔ぶれを見てみると、戦後、日航機長になった越田利成、松井三千彦、池田三郎、日本産業航空機長の松本英雄がいる。
異色としては、後に韓国の李承晩大統領幕僚になった安光範、さらに江藤匡一(きょういち)は、訓練中の疾病でパイロットを断念したが、戦後、実業界に身を投じ、全国数百箇所に展開するレストラン・チェーン店「ロイヤル」の社長として活躍した。彼は航空機内食をも提供し、運輸大臣表彰を受けている。
16年入所の天虎3期生(養成所9期相当)20名、17年入所の同4期生(養成所11期生相当)20名で、航空局からの委託訓練を終了している。なお、4期生のときは、米子航養所から海軍系の愛媛航養所天虎分教場と改称された。やはり戦後、日航機長になった谷田俊一、大石謙二、穂苅明治らが名をつらねている。
分教場として航空局から委託を受けたのは、この4期生までである。
2. 天虎飛行訓練所として再出発
18年春には、海軍系の福山高等航養所が誕生し、天虎で行われていた水上機教育は、福山で実施されることになった。天虎分教場は、すべての施設を大日本飛行協会に寄付する形で、その役目を終えたのである。
帝国飛行協会は、15年10月1日、大日本飛行協会と改称されて発足した。その意図は、高度な国防航空を推進する政府の方針にしたがい、学生航空連盟や大日本青年航空団、日本帆走飛行連盟等の既成団体を傘下におさめる大組織として、学徒航空訓練の一元化を図ろうとするものだった。
そして天虎は、18年5月、協会所属の天虎飛行訓練所として生まれ変わったのである。訓練費用は、すべて政府の補助金と財界からの寄付金が当てられた。藤本所長は、これらの寄付金によって、大津市内の空き地を買い求め、学生用の食堂や寄宿舎を建設した。
訓練対象者である第一次学徒約50名は、京大、阪大、同志社大、立命館大、龍谷大、大谷大など、関西一円からの学生だった。中には同志社在学中の裏千家の後継者・千政興(千宗室)の顔もあった。
19年の第二次訓練生募集では、予備学生のほかに予備生徒も採用し、高専卒業者にも門戸を開放したが、彼らが満足な飛行訓練を受けることはなかった。すでにガソリンは極度に逼迫し、乗員養成所の飛行訓練は麻痺状態になっていたのである。
前線に配備されている陸海軍航空部隊ですら、松根油やアルコールで代用せざるをえない程に不足していたから、予定通りの訓練ができる筈はない。しかもなお、20年に入って、訓練生の間に特攻隊志願への胎動が芽生えたのは、時代の必然だった。(後述)
予備飛行学生たちの飛行訓練(大津市歴史博物館提供)
生涯を航空界に身をおいた藤本直は、戦後、サンケイ新聞航空部パイロットを皮切りに、再び航空界へ身を投じた。昭和27年7月に日東航空を設立、デハビランドDHCオッター水陸両用飛行機などで運航していたが、相次ぐ事故が経営を圧迫、39年4月に富士航空、北日本航空と合併、新会社・日本国内航空㈱取締役として活躍したが、昭和59年3月に永眠した。享年63歳だった。
日本国内航空は、時代と共に吸収合併を繰り返し、東亜航空から東亜国内航空となり、社名変更による日本エアシステム、そして日本航空と合併し、現在へ至っている。
とくだ ただしげ、 航空ジャーナリスト
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