地方航空機乗員養成所本科生制度
1. 本科生の採用
これまで臨時の措置であった「操縦生」制度と並列する形で、昭和16年に公布された乗員養成所官制により、ようやく本命である陸軍系「本科生」制度を立ち上げた。16年4月入所の1期生から、20年4月入所の7期生まで続いた。総計3,227名が入所し、1,558名(陸軍系1,439名、海軍系119名)が卒業した。この内、4期生539名(含海軍系119名)は戦後の昭和20年12月に、かろうじて繰り上げ卒業している。
海軍系は出足が遅く、翌17年4月の本科4期生からであり、愛媛と長崎に入所している。以来、20年4月入所の7期生まで続いているが、19年4月には6期生が福山にも入所している。総計952名であったが終戦により中断された。卒業生は4期生119名のみで、戦後、陸軍同様、かろうじて繰り上げ卒業したに過ぎない。
本科生養成制度の主旨は、陸軍幼年学校制度を模していることは前掲した。つまり国民学校初等科卒業生が受験資格対象者であり、5年間の教育をおこなう高邁な構想であった。
文部省は本科卒業生に対し、旧制中学校または甲種工業学校と同等以上の学力を有する告示をおこなった。従って、入所後の3年間は普通学教育が実施され、卒業時には中学校卒業と同等の資格が付与された。卒業時、2等操縦士技能証明書、2等飛行機操縦士、2等航空士技能証明書、2級滑空士、整備科卒業生には2等整備士技能証明書が付与された。
卒業後の進路は、高等航空機乗員養成所へ進み、1等操縦士または1等整備士資格取得、さらには航空技術者として必要な飛行機製造技術ないし整備への道が開かれていた。この他、本人の才能に応じて、陸海軍々人への道、高等学校または高等工業専門学校、大学予科の道が開かれているという好条件に、当時の若者は飛びついた。
事実、当時の受験生は陸軍幼年学校か、それとも乗員養成所本科生を受験しようか迷っている。1期生の受験時、前者は1,800名の枠があったのに対し、後者は300名と狭き門であり、約30倍の競争率だったから、その難易度を比較すると、優劣つけがたいものがあったと思われる。
卒業後は下士官(伍長)として予備役除隊の形をとったが、5年間(注;操縦生は2年間)は航空局長の指定する、航空に関する業務に従事する義務が科せられた。軍務に服した場合は、これを徴兵義務年限に加えることができた。しかし、この規定の適用は、1期生と2期生のみで、3期生からは戦雲の拡大とともに、規則改定により昭和19年5月からは選択の余地がなく、なしくずし的に各学年生徒は陸軍予備学生、または海軍予備練習生として兵籍に編入されていったのである。
整備科へ進んだ1期生108名および2期生79名は、機関科要員教育をおこなっていた新潟地方航養所で集中訓練、ここで2等整備士資格取得後、松戸高等航養所で、さらに高度の整備教育を受けて1等整備士の資格を取得した。1期生は20年7月に卒業、乙種予備候補生として、陸軍航空輸送部各飛行隊に配属された。例外的に約10名が新潟地方航養所操縦科へ進んだ。2期生は松戸での訓練中、立川飛行機や松本飛行場で整備応援をやり、20年8月にかろうじて卒業している。
2. 本科生の教育概要
基本的には操縦生の教育と変わらない。しかし、教育期間は5年間であり、最初の3年間は普通学科が主で、グライダーや操縦訓練は経験程度だった。4年1学期の飛行適性検査によって、操縦科、通信科、整備科に分かれて専門教育が実施された。
日常の共同生活はすべて軍隊方式で、教官の顔ぶれは現役陸海軍将校、ないし予備役将校や予備役下士官が担当していたが、座学や術科の教官は、民間人が担当するのが普通だった。予科練出身者の下士官教官が多かった海軍系と違い、陸軍系養成所は、乗員養成所OB教官が多かったから、比較的自由な雰囲気を満喫したようである。
操縦生6期の掛腰正男さんは、昭和16年8月、米子養成所の助教として赴任したとき、たまたま生徒舎からピアノの伴奏による歌声が流れており、本科生の情操教育が充実していることを想い、操縦生との違いに驚き、羨ましかったと述懐している。
具体的な教育内容は、普通学科、専門学科、それに術科に分かれていた。普通学科は、文部省訓令による旧「中学校教授要目」と同等であり、3年目からは航空機を目標にした専門学科、つまり材料および工作法、機械学、電気工学、航空機学、熱力学、航空機発動機学といった学科が主である。
ここで特徴的なのは模型飛行機の製作があり、全国大会や地方大会で相当の成績を残している。さらに滑空訓練によって操縦感覚と一致協力の精神が養われた。滑空機は初級(プライマリー)から中級、そして高級(ソアラー)まで進んだ。
初級グライダー訓練
年間履修時間は上級学年ほど多くなったが、1,450時間から1,650時間であり、当時の甲種工業学校の学科レベルとそん色のない、理想的な内容になっていた。しかし、残念ながら時局が、これらの科目の完全な履修を許さなかったのである。
3. 操縦教育
前掲したように4年1学期になって操縦適性検査に合格した者が移行した。この頃の適性検査は心理適性のみで、平衡感覚、遠近感覚、反射神経といった、現在でも適用されている最もプリミティブな内容である。勿論、最初から整備や通信を希望する者は皆無だったから、皆、真剣になって検査を受けた。といっても実際には、戦局の悪化と航空燃料の欠乏により、操縦教育を受けることが出来たのは、1期生および2期生のみで、3期生以降の生徒は飛行訓練を受けていない。
飛行訓練概要
95式Ⅲ型初練 |
離着陸訓練 空中操作
教育期間:約200日間 飛行時間:約45時間 |
95式Ⅰ型中練 |
離着陸訓練 空中操作 編隊飛行 特殊飛行 計器飛行 野外航法
教育期間:約130日間 飛行時間:約85時間 |
99高練 |
離着陸訓練 空中操作 雷撃訓練
教育期間:約45日間 飛行時間:約25時間 |
注:本科生の平均飛行時間は、約130~140時間
99式高等練習機(キ55)
飛行訓練内容は機種、訓練内容および時間等、操縦生のシラバスと基本的に同じなので省略する。
徹底的に鍛えられた野外航法訓練では、同期生による同乗飛行が多く、なかなかの冒険飛行であった。航空地図、航空時計、航法計算板、それに飯盒満杯の食べ物を携行して乗りこみ、さながら遊覧飛行のようで楽しかったらしい。有視界での飛行は、航空路などなく、超低空飛行をやったり、予定コース上に郷里のある者は、ご法度の郷土訪問飛行をやって燃料不足になり、途中で不時着する不心得者もでてきた。
訓練履修後は2等操縦士、2等航空士、それに2等滑空士資格が授与され、松戸高等航養所での訓練後で1等操縦士資格が与えられた。
本科2期生202名の操縦科要員は松戸が本土防衛のために陸軍に接収されたことから、松戸の支所である古河へ入所して訓練をおこなった。卒業後、全員が陸軍航空輸送部第9飛行隊(師第3401部隊)に配属されて任務に就いた。
本科生の高等航養所修了までの飛行時間は、約215時間であった。
とくだ ただしげ、 航空ジャーナリスト
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