戦時下の本科生の動向
1. 本科生操縦科生徒の去就
第1期生は予定通り3年間の訓練期間を修了、昭和19年3月に卒業、6ヶ月間の軍務に服する予定だったが、そのまま航空部隊へ配属されている。操縦科卒業生総計169名のうち121名は、前線の戦闘機隊、偵察機隊、爆撃機隊に分かれ、各地教育隊で初歩的な索敵射撃訓練(助教が曳航する吹流しを索敵、後方又は急降下で射撃する)修了後、いきなり第一線部隊へ配属された。
松戸高等航養所へ進んだ本科1期生は48名だったが、彼らもやがて第一線へ赴く運命にあった。
1期生は主に東南アジアに出征して戦火を交えたが、結果的に32名(この内、特攻で3名戦死)が殉職し、全体の死亡率は19%におよんでいる。
19年9月に地方航養所卒業の本科2期生の操縦科全員が、古河高等航養所普通科へ送り込まれた。高等教育を受ける筈の古河での普通科訓練は、あわただしいものがあった。ガソリンは極度に欠乏していて、操縦訓練もままならない環境でありながら、軍部は一日でも早く彼らを前線へ投入したい意図から、一式双発高等練習機によって錬成された。彼らは終戦の年6月にかろうじて卒業している。
陸軍一式双発高等練習機甲型(キ-54甲)
「一億総特攻」が叫ばれようとしている時に、2期生全員が高等航養所へ進んだことは不自然にみえる。しかし、これは可能なかぎりパイロットの錬度をあげて温存し、本土決戦要員にする陸軍の意図があったと思われる。
本科3期生は、燃料不足により基本操縦教育を受けることができず、全員、機関科に編入された。これを不服とした操縦科生徒たちは、全員で血書嘆願したほどだったが、すでに敗戦への道を転げ落ちようとしていた日本、そして航空局は、これを受け容れることはできにかった。終戦直後の9月に繰り上げ卒業した。
本科4期生が20年12月に繰り上げ卒業、5、6、7期生計2,621名は未修に終わった。
2. 本科生の特攻訓練
本科2期生の希望は、ほとんどが民間航空ないし輸送隊であったが、時局がそれを許さなかった。彼らの卒業後の扱いは、有無を言わさず特攻要員を強要された。井前末夫さん(戦後、航空局試験官、航大教頭)によると、卒業後の志望を提出する際、第1志望を「特攻」と書くまで、何回も書き直されたという。人によっては7回も書き直され、どうしても拒否した者が、逆に特攻要員に早々に指名される皮肉を味わったのである。
全員が7月に所沢の陸軍航空輸送部(師第34201部隊)に、陸軍乙種予備候補生として入隊、特攻訓練に明け暮れた。
すでに沖縄は陥落し、日本本土の主要都市への連日の空爆による惨禍は、目を覆うものがあった。20年2月、陸軍は「と号要員学科術科教育課程表」を作成、各基地へ配布した。言うまでもなく、即席の特攻要員製造のための航法、爆撃、そして射撃訓練を盛り込んだシラバスであった。
ろくに飛行訓練らしいことも出来ない本科2期生は、(明治)30年式銃剣をあてがわれ、典範令を丸暗記するような無意味な教育が続いた。それでも精神注入棒が唸るなかで、歯を食いしばって頑張ったのである。
やがて約50名の特攻要員が指名され、前橋へ移動、本格的な特攻訓練が開始された。しかし彼らは、遅ればせながら飛来してきた特攻機を見て愕然とした。かつて訓練に使用した95式1型中間練習機で、真っ黒にペイントされていた。覚悟はしていたものの、背筋が凍るような衝撃とともに、深い絶望感と怨念のような感情の高ぶりをどうすることも出来なかったという。終戦により、幸いに特攻出撃した者はいない。
3. 本科2期生の反乱
19年10月に、松戸の支所として茨城県猿島郡に古河高等航養所が開設された。最初に入所したのは本科2期生であったが、お粗末な訓練環境と指導者層への憤懣から、知る人ぞ知る大事件が起こったことに触れる。
世相を敏感に感受している2期生は、大空へ羽ばたくというよりも、祖国防衛のために、すでに特攻精神も辞さない覚悟のような情熱に燃えていた。しかし、所内の雰囲気といえば、松戸と違い、若人の熱気溢れる場所という期待に反し、どこかジメジメとした暗い雰囲気が横溢していた。
設立以来、理由らしき理由もなく、わずか半年間で30数名の生徒が退所していた。そこは若者の修練に必要な、のびのびとした闊達なところがなく、生徒をいたずらに少年刑務所の囚人のように、堅苦しい形式を押しつける空気が淀んでいた。
所長の鈴木越郎大佐が訓示したものだ。
「今までの松戸の教育はなってない。古河へ来たら 今までの気分、方針を一掃して、最大の努力を傾けてほしい」
恩愛溢れる古巣の松戸を非難され、その教育方針を否定された教官たちは驚き、所長への信頼が吹っ飛んだ。予備役ながら典型的な陸軍々人でワンマンの鈴木所長は、何事にも形式的で、妥協を許さない厳格な規律を最優先するもので、教育方針等々で、よく教官たちと意見が対立した。
さらに所長が医務室の看護婦を囲っている噂、教頭も負けじと妾をもち、米麦の横流しをしている噂など、非常時にあるまじき飽衣飽食の噂がひろがっていた。
ある日、所長は独断で、対立する川田幸秋主任教官(松戸高養1期、戦後、航空局乗員課主席試験官)ら6名の現役徴用を陸軍省へ上申した。赤ガミ(召集令状)が舞い込んで初めて知った6名は、悲憤慷慨、所長に抗議したが、「軍人にあらずんば、人にあらず」の時代であり、召集が覆されることはなかった。
川田幸秋主任教官
こんな環境下で、「古河の二・二六事件」は、起こるべくして起こった。
責任感旺盛なM生徒は、脱柵を誤解されて所長へ報告され、謹慎を言い渡された。この処置に怒ったM生徒は逆上、その夜、本当に脱柵してしまったのである。教官をはじめ、周囲の者は善処を申し入れたが、聞く耳をもたない所長は、彼を退所処分にしてしまった。
冷酷無比な処置に、日ごろの鬱憤が爆発した同期生は立ち上がった。20年1月29日、石井博ら有志101名が無断で脱柵、約50キロの道程を徒歩と無賃乗車で上京、大手町にある航空局のオンボロ庁舎前に整列、直訴におよんだのである。しかし、航空局の陸軍予備役将校たちが素直に聞き入れる筈もなく、ある将校は軍刀を抜き払って恫喝した。一方的な説得は30分で終わり、生徒たちは再会を約して郷里へ帰っていった。
この事件にさすがの所長も動転した。電報などで生徒の帰還の手をうち、数日中に皆、古河へ帰ってきて終焉したが、次の措置が待っていた。
先の6名を含む11名の教官が、即日、無期限の休職、生徒13名が退所処分となった。自宅で隠忍自重していた退所者たちには、暗い運命が待っていた。この内、8名は突然、「丁種学生」として、満州奉天陸軍飛行学校へ入学を命じられた。そして富山県伏木港から乗船、朝鮮半島を目前にして敵潜水艦によって撃沈、7名が一瞬にして海の藻屑となったのである。
とくだ ただしげ、 航空ジャーナリスト
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