海軍徴用輸送機隊の編成
1. 開戦前後の編成
海軍航空本部の要請によって、大日本航空は昭和16年8月、すでに海南島徴用輸送機隊を編成して、海南島海口基地に進出していた。ダグラスDC-3型輸送機3機と三菱双発輸送機3機を使用、海口から香港と台北、海口からサイゴン間の定期運航をおこない、海軍の対南方作戦準備を支援するものだった。
他方、海軍は大日本航空へ、東京から台北経由で海口への直通運航を指令しており、開戦前、すでに海軍航空本部直轄の海軍第一徴用輸送隊が編成されて、任務に就いていた。要人輸送などの、慌ただしい作戦準備をするためだった。このコースは終戦直前まで続いたが、沖縄陥落後は中国に迂回コースをとって飛行している。
開戦の日、16年12月8日未明、海軍航空本部は、大日本航空会社非常時運航体制に則って、直ちに海南島徴用輸送機隊へ下命している。「輸送機隊は夜明けを待って、その飛行機を以って海南島周辺の海上を哨戒、偵察し、敵性艦船の発見に努めよ」
但し、海軍の徴用方法は陸軍と違い、必要とされる運航量を、飛行時間当たりのベースで大日航からチャーターするもので、その運用や隊の編成については、会社側に任されていた。これによって職員は、軍紀に拘束されることなく、かなり自由に行動できた。海軍の無給嘱託であり、給料は会社が出していたが、この点は陸軍と同じである。
2. 編成概要
開戦の翌年2月、快進撃を続けていた日本軍はシンガポールを陥落、海南島徴用輸送機隊基地は、海口からシンガポールへ移動、名称も第二徴用輸送機隊と改められた。 その後、以下のように次々と徴用輸送隊が編成された。(
)内は本隊所在地。
海軍第一徴用輸送機隊(東京) 海軍第二徴用輸送機隊(シンガポール)
海軍第三徴用輸送機隊(マニラ) 海軍第四徴用輸送機隊(マカッサル、のちスラバヤ)海軍第五徴用輸送機隊(横浜) 海軍第六徴用輸送機隊(トラック島)
注:以下、各隊を第○隊と略称する。
開戦後、シンガポールを基地とした第二隊は、仏印方面の輸送を担当したが、海軍徴用輸送部がスラバヤに設けられたとき、再度、ここを基地とすべく移動した。
この地域は戦域のもっとも西側であったから、フィリピン全域が米軍に制圧され、制空権が奪われたあとも、その間隙をぬってスラバヤージャカルターシンガポールー海南島間の運航が、終戦まで続けられた。
マニラに基地を置く第三隊は、全輸送機隊の中でもっとも熾烈を極めた。フィリピンは、大小無数の小島より成る特異な地理的環境にあるから、航空輸送業務は欠かせない。第三隊はフィリピン全域を担当しており、北は台北ないし高雄から、南はダバオに至る南北縦貫線をカバーし、さらに和蘭領インド(インドネシア)からニューギニア方面への中継連絡航空路であった。
17年に入ると、フィリピン方面の戦局激化に伴い、第三南艦隊麾下に入って活躍した。19年10月、米軍によるフィリピン反抗作戦が展開されると、陸軍大本営は捷号作戦を発動、その全域が日米決戦の天王山と化した。世界最大の海戦といわれたレイテ海戦の最中、ほとんど無防備で暖速、大型輸送機の飛ぶところは、もはや安全地帯ではない。極めて危険な状況下での運航を強いられただけに、多くの痛ましい犠牲者を出している。
19年10月20日、マッカーサー率いる米機動部隊がレイテ島に進攻、翌年1月9日にルソン島東岸のリンガエン湾に上陸、マニラが陥とされようとしていた。マニラ駐在の大日航職員は、必死の思いで北上へ退避した。移動する車両もなく、多くの犠牲者を出しながら、徒歩でボロボロになって250キロ北のエチアゲへ、さらに100キロ北にあるツゲガラオ、さらに北端のアパリまで、苦難の撤退をつづけたのである。
そこで救出を待つ悲惨な状況になったが、台湾からの大日航機による決死の救出作戦(後述)によって、かろうじて死地から脱出している。
第四隊の担当区域は、和蘭領インド全域であった。セレベスやボルネオなど、大部分がジャングルに覆われた一帯の地上交通網は皆無に等しく、航空交通は必須であった。只、幸いにこのエリアは、米軍の反攻地域から外れていたので、激戦の渦中に巻き込まれることは無かったが、マニラ陥落後は、戦火によって交通網が寸断され、運航には困難を極めた。
第一次大戦後、日本の委託統治領だった南洋諸島は、太平洋の緊張の高まりと共に、対米作戦上、日本海軍の最重要防衛線として不可欠になった。
これに対処すべく海軍は、飛行艇隊の第五隊を設け、横須賀鎮守府麾下として、基地を横浜の根岸湾においた。路線は横浜ーサイパンーパラオートラックを運航した。さらに飛行艇隊の第六隊を設けて、南洋方面作戦に従事していた第四艦隊麾下とし、主基地をトラック島におき、ここからラバウル、クェゼリン間を運航した。
戦争激化と共に、南太平洋路線は、ますますその重要度を増していった。海軍の指示により、路線は延長され、トラックからパラオ、ダバオ、マカッサル経由でスラバヤに至る路線を新設し、海軍中央と現地部隊との迅速な連絡網を構築していった。
しかし、18年から19年にかけて、米機動部隊はつぎつぎと南洋諸島を制圧、19年6月には、海軍の最重要拠点であるサイパン島およびテニアン島が玉砕した。海軍防衛線の後退につぐ後退によって、徴用輸送機隊は大きな犠牲を強いられ、その機能も麻痺状態に陥った。とくにトラック島を基地としていた第六隊は、壊滅状態になって終焉し、多くの隊員が犠牲になったのである。
3. 海軍直轄の輸送隊へ改編
17年秋のガダルカナル島攻防戦の敗退によって、ソロモン海戦もようやく終末を迎えようとしていたが、海軍は南方方面資源地域の治安維持と、後方支援機構強化の策を図った。スラバヤに南西方面艦隊司令部を設け、これを支援するために、新たに南西方面海軍徴用航空輸送部を創った。
ここに航空機整備のための工場を設置し、機材のオーバーホールや発動機の装換を可能とし、機材稼働率の向上が計られた。そして19年11月、シンガポールに支部を設置、現地輸送業務の一層の円滑化が可能になった。この輸送部は、後にスラバヤ海軍徴用航空輸送部と改称、第四隊が吸収され、さらに第二隊が吸収された。第三隊は、フィリピン方面の激戦によって機能が麻痺し、マニラ分遣隊に変更された。
海軍中央は、より一層、的確且つ迅速な指令伝達を計る目的で、次のような組織に改編したが、そこには最早、航空会社としての機能はない。
臨時海軍徴用航空輸送本部―
大日本第二運営局―
|―海軍第一徴用輸送隊(東京)
|―海軍第五徴用輸送隊(横浜)
|―スラバヤ海軍徴用航空輸送部
さらに20年7月15日、大日航でおこなっていた徴用航空輸送業務に代わって、特設海軍航空輸送廠が設置された。これは海軍自体の航空輸送と第二運営局をも包含するもので、もはや大日本航空としてのカラーはなく、海軍の一組織であったが、それが機能することはなかった。
海軍徴用輸送機隊がもっとも活躍したのは、17年初めから19年前半であった。この間、1200名が動員され、飛行機材は、DC-3約40機、三菱双発輸送機約10機、川西中型飛行艇2機、川西97式飛行艇約20機、二式大艇「晴空」5機、計約77機である。
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DC-3型輸送機 |
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97式飛行艇 |
とくだ ただしげ、 航空ジャーナリスト
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