大日本航空の組織改編
1. 戦時下での民間航空に対する陸海軍の方針
昭和14年9月1日、ナチス・ドイツによるポーランドへの電撃的侵攻によって、第二次大戦が勃発した。にわかに国際情勢が緊張したが、16年7月、日本陸軍による南部仏印への進駐が開始されるや、米国の姿勢が硬化、一気に太平洋に暗雲が広がった。
直ちに陸海軍統師部は、大日本航空会社非常時運航体制を策定した。その要点は以下のようであった。
(1)非常時運航要領は、陸上線運航については、おおむね1/2を軍用に供し、残りで定期運航を続ける。
(2)海洋線運航については、全部を軍用に供するか、または全部で定期運航を続ける。
同時に陸軍は、有事即応体制の基盤確立を図る一環として、大日本航空や満州航空、中華航空への全面的な支援をおこなった。その要点は以下のようであった。
(1)飛行機材の無償貸与と機材修理および援助。
(2)陸軍の利用座席の確保。この目的は、民間航空会社の収入の安定もある。
(3)陸軍航空要員の民間会社への積極的な供出。
(4)飛行場および航空路の共用。
(5)気象関係業務の充実強化と、通信器材の貸与および供出。
2. 大日本航空の組織改編
大日本航空は、前掲の方針に従って、一定数の飛行機と、それを運航するための全要員を単位として飛行隊を編成し、軍の嘱託として徴用し、現地作戦部隊の指揮下に配して運用する改編がなされた。
昭和16年12月8日、日本海軍の真珠湾奇襲攻撃によって、太平洋戦争の幕が切っておとされた。その翌年1月、大日本航空は全面的に陸海軍の輸送機関に変貌したが、その改編は以下のようであった。
第1運営局-陸軍:営業部(業務、経理)、運航部(運航、通信、整備、補給)
第2運営局-海軍:営業部(業務、経理)、運航部(運航、通信、整備、補給)
第1運営局の陸軍、第2運営局の海軍が、それぞれ独立して運営する構図になり、民間航空部門の姿は消えた。この構図は陸海軍多年の願望であったが、同時に、陸海軍対立の構図でもあり、以来、終戦まで続いている。
伝統的な陸海軍の対立は、すべての局面で見られ、全軍の戦闘能力に多大な影響を及ぼしたが、それが大日本航空内部まで持ち込まれることになった。その根強さは想像以上のもので、同社職員相互間の仕事にも支障をきたし、非効率極まりないものとして、大きな障害となったのである。
それでも一応、航空会社組織には変わりがないから、それぞれに航空券の発券、座席割り当てや自動車の手配、旅館の斡旋等の旅客係や、手荷物や貨物の授受などは、従来どおりであった。
3. 大日本航空熊本航空訓練所の誕生
大日本航空は、組織拡大と共に自社で整備員養成の方針を固め、昭和14年4月から幼年整備員養成制度を打ち出した。場所は福岡支所とし、採用資格は高等小学校卒業程度であり、教育期間は半年間であった。しかし、整備員需要の増加と共に、教育期間は1年、そして戦時には3年と延長された。
戦争の拡大は、当然、陸軍の航空兵力増強が緊急の課題となり、整備員教育(機体、発動機)と同時に、通信整備教育(計器、通信器材整備)、それに操縦の各要員養成の総合的な教育機関として拡張していった。
戦時最中の19年2月からは場所を熊本へ移し、熊本航空訓練所が発足した。初代所長は中尾純利(陸依1期)で、健軍熊本飛行場が使用された。
操縦士教育は、地方または中央乗員養成所卒業生で、大日本航空に入社した者に、輸送機操縦士資格(機長)を取得させるものだった。通信士および航空士についても教育したが、後者については、社内の事務系社員の希望者を募って訓練をするというもので、当時の逼迫した状況が伝わってくる。
最盛期には200~300人の生徒が在籍していたが、訓練半ばで召集されるようになって、教育は空洞化し、終戦によって終焉した。
4. 陸軍特設輸送隊の編成
昭和16年に入って、対米英一触即発の危機を迎えるにおよんで、陸軍航空本部は、有事即応体制の基盤を創るため、民間航空会社への有形無形の援助を積極的に進めていった。そして、臨戦態勢構築のために、極秘で特設輸送飛行隊編成を下命したのである。正式には特設第13輸送飛行隊と命名された。防諜名は「風9308部隊」、一般には風部隊と呼ばれたが、南方軍総司令官・寺内寿一元帥をして、神武以来の珍部隊と評された。
編成概要は次の通りである。
部隊本部 |
部隊長=大日本航空欧亜部長 森蕃樹以下10名 |
第1中隊 |
中隊長=大日本航空機長 小川寛爾以下120名 |
使用機 |
ロッキード14W-G3型スーパーエレクトラ輸送機9機 |
第2中隊 |
中隊長=大日本航空機長 豊島晃以下120名 |
使用機 |
中島式AT-2型(九七式)輸送機12機 |
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ロッキード14W-G3型スーパーエレクトラ輸送機 |
必要最小限の正規軍人が加わったが、原則として大日本航空職員で構成され、陸軍航空本部の無給嘱託の身分となった。
開戦直前まで、各地で隠密裏に、兵士や軍需物資の移動のための空輸を行っていたが、開戦後、全部隊が、南方軍司令部のあるサイゴンに集結、各軍司令部の命により、連絡飛行、定期輸送、作戦地への短期派遣、緊急輸送等々が続けられた。
中華航空については、特設第15輸送飛行隊(成富汎愛隊長で、通称、成富部隊)で、第1中隊が北京、第2部隊が上海で編成された。同時に、満州航空は特設第16輸送飛行隊(美濃勇一隊長で、通称、美濃部隊)が新京(現在の長春)で編成され、大日本航空と同じ任務に従事した。
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中島式AT-2型輸送機 |
編成を完了した各輸送飛行隊は、17年7月、南方総軍司令部がサイゴンから昭南(シンガポール)へ移動したことに伴い、同地に移動、そこのカラン飛行場を基地として輸送任務についた。
ここで南方総軍は、関東軍に対する満州航空、支那派遣軍に対する中華航空のような航空輸送機関設立を望み、およそ2ヶ月後の9月15日に、南方航空輸送部が設立されると共に、今までの特設第13、15、16各輸送飛行隊が解体されて、南方総軍隷下の南方航空輸送部として統合されたのである(後述)。
それでも、まだ日本国内が戦勝気分に酔っており、軍部も余裕のあったころは、一般旅客の席も、ある程度確保されていたが、時局の急変と共に、次第に軍用定期そのものに変貌し、高級参謀やベタ金(将星)たちの専用定期便へ変わっていった。
とくだ ただしげ、 航空ジャーナリスト
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