乗員養成所第14期操縦生の青春
1. 乗員養成所最後の操縦生
乗員養成所第14期操縦生は、海軍系120名を含め、計793名が採用され、昭和18年10月に各乗員養成所に入所した。これで臨時の措置として立ち上げた操縦生制度は終止符をうち、これにかわる本科生5期生628名は、この年4月に各養成所に入所している。したがって、その後の19年と20年の採用は本科生のみとなったが、終戦により卒業することはなかった。
昭和18年10月といえば、丁度、学生徴兵猶予禁止令が公布され、法文科系の学徒出陣が開始された年である。それでも大半の乗員養成所希望者は、戦争が終われば、大陸や南方へ飛翔する民間航空パイロットを夢見て受験したのである。時局柄、中には熱烈な愛国心の故に入所した者もいたが、例外だった。しかし、彼らをまっていたのは、地獄のような日々と、想像を絶するような戦場だった。すでに前線は、搭乗員=消耗品(スペア)以外の何物でもなかったのである。
ここで特に14期操縦生をとりあげるのは、彼らが養成所出身者の中で、もっとも多くの犠牲者を出したからである。乗員養成所出身者の戦死者総数861名は、全卒業生(戦後、卒業した本科生3、4期生は含まない)の23%になるが、その内、14期操縦生は121名(陸軍系88名、海軍系33名)にのぼり、全体の14%を占めている。しかも、特攻出撃した153名のうち、14期生だけで76名(陸軍系62名、海軍系14名)にもなり、ほぼ50%ときわめて突出している。
海軍系の方が少ないが、陸軍系養成所が11ヶ所であったのに、海軍系は3ヶ所でしかなく、後に地方養成所は愛媛1ヶ所に併合され、112名の卒業者だった。したがって、彼らの3分の1が戦争の犠牲になった。
2. 陸軍系14期操縦生の姿
14期生80名が都城航養所に入所したのは、18年10月20日であった。所長は菱沼一予備役大佐(5期操縦生で、戦後、日航機長・菱沼俊雄氏のご尊父、なお孫にあたる洋氏は日航現役機長)である。翌年4月1日付で、京都と熊本養成所が陸軍に接収されたため、計160名の生徒が都城へ転入すると同時に、法改正により、逓信省より陸軍委託生となり、大刀洗陸軍飛行学校都城分教場として編入させられた。
総勢240名に膨れ上がった生徒は、各区隊60名の4区隊に分かれて所定の飛行訓練に邁進したが、2ヵ月後には、戦闘機隊が3区隊180名、爆撃・偵察隊が1区隊60名に分かれて訓練を続行、早くも19年7月20日に卒業している。
菱沼一都城乗員養成所所長
彼らは卒業と同時に陸軍乙種操縦候補生(陸軍上等兵)として、東南アジア全域に展開する陸軍教育飛行隊へ配属された。戦闘機要員および爆撃機要員はフィリピンと台湾、偵察要員は朝鮮の前線基地に配属され、ただちに実用機による軍事訓練に入り、ほぼ20年1月に修了している。しかし、その後の飛行訓練は、すべてが特攻出撃のための準備でしかなかった。内地に残った者は、わずか20名にすぎない。
結果的に14期操縦生は、特攻出撃要員として乗員養成所に入ったようなものである。前線には、都城の外に、仙台、岡山、印旛、古河の同期生も集まっていた。200時間程度の飛行経験しかない彼らは、99式高練、2式戦「鐘馗」、97式戦、1式双練、98式直協、99式双軽、99式襲撃機で、がむしゃらに特攻訓練に明け暮れた。
特殊な飛行訓練は、基本的な離着陸の慣熟もそこそこに、模擬爆弾を抱いて仮想敵艦へ向かって地上スレスレまで急降下し、上昇反転していくのである。この急降下がクセモノである。浅いアングルから始め、徐々に約60°の急降下へ移っていくが、これは感覚的に垂直ダイブに等しく、加速によって機体が浮き上がってしまうのである。
目標へ向かってまっすぐ降下していく技倆は、単純なようでむずかしい。飛行機の降下率と適切な速度の維持が必要であり、外界の風向風速も考えなければならないから、ベテランでも容易ではない。さらに毎日の猛訓練は、自分自身のことなどユックリと考える暇がないほど疲労困憊し、精神的に麻痺するほどで、それは、特攻出撃の恐怖心を払拭するという、飛行隊の方針でもあった。
3. 海軍系14期操縦生の姿
海軍系14期操縦生は、18年10月、長崎と愛媛に、それぞれ42名と78名の計120名が採用されたが、長崎が海軍に接収されたことから、同年12月、長崎の生徒は愛媛に合流した。志願者心得による修業年限は1年だったが、14期生は変則的で、初練が終わり、中練半ばのわずか5ヶ月間で卒業、飛行訓練は詫間海軍航空隊へ引き継がれた。
彼らの肩書きは、第15期飛行科甲種予備練習生であり階級は飛行兵長、制服は予科練の七つボタンとまったく同じである。違っているところといえば、制帽の徽章が「桜花」から、俗に「金平糖」(こんぺいとう)といわれたコンパスを図案化したものだけだった。市井の人たちに見分けられる筈もなく、「幻の予科練」と呼ばれた所以である。
基礎飛行課程修了後、全員、ただちに姫路海軍航空隊勤務を命じられ、実用機教程にはいった。機体は97式艦攻で、ハワイ真珠湾攻撃で雷撃機として活躍した名機である。ここで約45時間を消化、飛行時間120時間そこそこで実施部隊に配属された。といっても、教官要員などの一部を除き、皆、特攻要員でしかなかったのである。
勇躍、一人前になって各部隊へ配属されたものの、新兵の生活は、愛媛での罰直(体罰)に明け暮れた日々の延長でしかなかった。しかも腹立たしかったのは、乙飛(乙種予科練)や、丙飛(他職種から移行した予科練)出身の一等飛行兵曹や下級の飛長によって罰直を受けたことである。善行章、つまりメシの数ないしキャリアがモノをいうのである。しかも、養成所出身の先輩たちは、庇ってくれるどころか、見て見ぬふりをしていた。
大分の佐伯931空に赴任した樫原福次郎さんは、殴られっぱなしで終戦になったので、今だにひがみ根性が抜けないという。鹿児島県出水空の国分分遣隊(現・陸上自衛隊駐屯地)に、教官として赴任した有村宏さんも同様で、二飛曹や飛長による罰直が待っていた。「善行章の一本もないヤツはボタ下士だ!」「白米の中に麦がまざったらお終いだ」などと言われては、ぶん殴ぐられた。
さすがにある時、長崎航養所12期生の松本清一飛曹が啖呵を切ってから、徐々に下火になっていった。彼は「われわれはボタ下士ではない。戦争が終わったら、その時こそ、われわれの時代がくる。絶対に死ぬなよ!」と、励ましてくれた。救われる思いだったが、海軍の日陰者としての屈辱感を拭い去ることはできなかった。
97式艦攻の飛行経験が、わずか45時間という佐伯931空で樫原一飛曹は、終戦直前のある日、突然、未経験の夜間哨戒飛行を命ぜられた。後席は機長兼偵察員の高野兵曹長である。未経験ながら、命令を拒否する訳にはいかない。警戒警報や空襲警報が、いつ発せられてもおかしくない中、なんとか離陸していった。
佐伯931空時代の樫原氏
暗夜、海上50メートルの哨戒飛行、しかも運悪く、離陸後一時間ほどで、姿勢制御のためのジャイロ計器が故障してしまい、アワをくった。唯一、飛行姿勢を維持できるものといえば、海面に白っぽく浮かんでいる波頭だけである。高野機長の罵声を浴びながら上がったり下がったり、ようやく東の空が白んできたときは、地獄に仏の心境だった。着陸後には、高野機長の鉄拳が待っていたが、このときは素直にこれを受けた。経験豊かな高野機長の適切な指示がなかったら、とっくに海の藻屑になっていたからだ。
とくだ ただしげ、 航空ジャーナリスト
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