予備役下士官パイロットの戦場
1. 死線を潜った徴用輸送隊
乗員養成所出身者の戦死者は20年1月から6月に集中している。その多くは制空権のない空域での飛行中の撃墜、洋上飛行中の故障による不時着水、悪天候下での夜間飛行中の迷走であり、さらに地上戦に巻き込まれての戦死が後を絶たなかった。
松戸高等航養所教官の水間弘志氏(印旛10期)ら数人は、飛行訓練はなく、20年4月以来、陸軍航空輸送部で任務に就いていた。航空加俸も含めてカネには恵まれたが、それを使うヒマもモノもなかった。主に要人輸送で、台湾、朝鮮、中国大陸、シンガポールを飛びまわった。
飛行中、P51ムスタングなどに追いかけられたが、武器を装備していない輸送機がこれを避けるためには、超低空飛行か雲へ突っ込むしかない。なお上海の街角などには、「日本人飛行士を射殺した者には、賞金一万元を与える」とか、「日本人飛行士は射殺せよ」といった物騒な張り紙が電柱に貼られており、常に私服を持ち歩いていたという。
日々、命を削って任務に就いている乗員たちは、その反動で、地上では羽目をはずし、思いっきり命の洗濯をし、酒と女に明け暮れることが多かった。ある海軍徴用輸送隊では、軍上層部から風紀・軍規の悪さを非難されたが、輸送隊上司は、日夜、死線を潜っているパイロットたちを諌めるヤボなことはしなかった。性病は海軍病院から邦人病院へ、酒の方は憲兵隊を丸め込んで回避したという。
2. ツゲガラオ救出作戦
マッカーサー率いる米機動部隊は、20年1月9日、ついにルソン島マニラ北西部のリンガエン湾に上陸、フィリピン掃討作戦を開始した。マニラに本部を置いている第4航空軍数百名は、すでにその機能を失い、命からがら、徒歩で370キロもの北部エチャーゲ、ツゲガラオまで、悲劇の退却行軍をおこなった。ツゲガラオに溢れた敗残兵救出のため、陸軍は97重を飛ばして、命がけの救出作戦が約1ヶ月もつづいた。
海軍も同様に、2月末、ツゲガラオに孤立した約300名の海軍操縦士の救出をおこなった。彼らを特攻要員として台湾へ移送するのである。第一航空艦隊司令長官・大西中将の要請を受けた大日航第2運営局は、ただちに救出隊の編成をおこなった。
総指揮官は浅香良一運航部長、パイロットは森田勝人(海依3期)、海野昌男(海依5期)、瀬川貞雄(海依8期)、崎川五郎(海依16期)らが、前後3回、夜間、しかも悪天候の中を命がけで救出をおこなった。飛行回数延べ7回、犠牲機材DC3型1機、救出人員計183名、達成率約60%の成果だった。この功績によって、大西長官の謝辞とともに、各隊員に日本刀一振りが下賜された。
北部ルソン島退避行路
3. 大日本航空「猛飛行」作戦
すでに敗色の濃い昭和20年4月、陸軍航空本部は「猛飛行」作戦を策定、大日本航空に協力を要請した。シンガポールや香港、フィリピンなどから本土への航空機材の輸送船が、航行中、片っ端から撃沈されていたが、それに替わる手段として、外地に散っている陸軍特攻操縦要員たちを、内地へ連れ帰る作戦である。
輸送本部は京城基地、夜間飛行という危険な任務である。総指揮は桑島稔運航部長(陸依2期)、飛行責任者は小池武夫第一運営局長、4月12日、陸軍主催の壮行会が上野精養軒で開催された。
この作戦に名を連ねた人たちは、戦後、民間航空再開の原動力となった人たちが多い。宮本正義(海依4期)、橋場邦夫(亜細亜飛行学校)、庄司、今井仁(日本軽飛行機倶楽部)、木本栄司(陸依18期)、長野英麿(日本飛行学校)、斉藤日出麿(中央1期)、高田文(陸委14期)、末次武男(山梨飛行学校)、芳賀、木村正雄(養成所教官)、松山、野田源之助(米子専修科)、金田正治(帝国飛行学校)、西川、藤原繁雄(海委14期)、森田勝人(海依3期)、片岡孝(海依16期)、張徳昌(伊藤飛行機研究所、戦後、韓国空軍参謀総長)といった、当時のエース級パイロットたちである。
熊本の健軍飛行場にある大日本航空熊本航空訓練所も、中尾純利所長を総指揮官とする「猛」輸送部隊が編成された。顔ぶれは、鈴木友茂(陸依3期)、斉藤洋五(海依4期)、小田切春雄(亜細亜飛行学校)、岡部武夫整備隊長(依託機関生3期)らである。この時期は、第1運営局と第2運営局が一緒になって作戦に参加した。
機体は三菱MC20型、97重、三菱4式1型重爆「飛龍」が使用された。4月21日から終戦まで実施、総飛行回数約40回、途中不時着6回、345名(陸軍が予定していた人数は465名)が京城へ運ばれた。この作戦が、あと数ヶ月続いたら、第1運営局パイロットは全滅したといわれるほど過酷なものだった。
4. 壮絶な体当たりを敢行
ソロモン海戦の渦中にあった昭和18年5月8日、東部ニューギニアのハンサから同マダンに対して、緊急補給の糧食と兵員500名および機械化装備の第11飛行場設定隊が、輸送船2隻で輸送され、これを飛行第11戦隊の「隼」戦闘機が、空中から援護していた。第1中隊小田忠夫軍曹も、小林淳二中尉の僚機として索敵任務に就いていた。
そこへ単機のB17型爆撃機「フライング・フォートレス」が、偵察のために低空で輸送船の方向へ飛行しているのが目に入った。小林編隊は直ちに反転して攻撃に移ったが、敵もさるもの、超低空で離脱を図った。これを逃すと、その情報により敵機が来襲するのは明らかである。小田軍曹は射撃しながら接近、敵が動じないとみるや、決然と体当たりを敢行、これを撃墜した。しかし、隼も空中分解して、小田軍曹は戦死を遂げたのである。
小田忠夫は、航空局が民間依託した名古屋飛行学校出身で、養成所3期生に相当する。所定の飛行訓練修了後、本来ならば伍長で予備役除隊するところ、彼はそのまま現役として陸軍に残った。この壮絶な行為によって彼は、2階級特進して准尉となり、第11戦隊を奮い立たせたのである。
5. 死を超越した生き様
昭和19年12月21日、編隊長・水野帝中尉の2番機として熊坂豊吉軍曹(仙台航養8期)は出撃した。「スル海を北上中の敵船団を策敵攻撃せよ」の命令により、隼を駆って、フィリピンのネグロス島フィブリカを離陸したのである。
彼のパイロットとしての腕は確かなものだったが、「予備役下士官」というだけで、周りや上司から疎まれることが多かった。この傾向はどの部隊でもあったが、彼らを自虐的にする以外の何ものでもなかった。同時に、その反発で、少年飛行兵など他の下士官に負けまいとする闘志となったのも確かである。
ある日、熊坂が理由もなく上官から叱責されていたところを、水野中尉が庇ったことで、熊坂は水野中尉に絶対の信をおくようになっていた。自分の実力を正当に評価してくれる上官は、彼らにとって地獄に仏の心境だった。
熊坂軍曹は、出撃の日、水野中尉に強引に頼み込んで編隊に加わった。この時すでに彼の胸中は、死を覚悟していたにちがいない。バナイ島南端で敵船団約百隻を発見、上空で遊弋しているP47型とP38型戦闘機郡に遭遇した。すぐ攻撃態勢に入ったが、熊坂軍曹は、隊長へニコッと笑顔を残して離脱、躊躇することなく編隊長機と敵機の線上に割り込み、隊長機を庇いながら撃墜されたのである。
6. 死の淵からの生還
秩父市にご健在の新井省吾氏(仙台航養4期、中央2期)も、死線をさまよった一人である。第5航空艦隊隷下にあった陸軍飛行第98戦隊は、昭和20年3月18日、ウルシー泊地から九州方面攻撃のために北上していた、米第58機動部隊を迎撃するため、銀河、彗星、天山、陸攻、飛龍など156機が、夜間、海軍航空隊鹿屋基地を発進した。飛行時間3,500時間のベテラン、飛龍機長の新井曹長も戦列に加わった。
離陸後、彼は錦江湾上空で編隊に合流、南に変針したが、早くも都井岬上空で敵夜戦に喰いつかれた。長機が外側に急旋回、すぐさま操縦桿を倒して後を追ったが見失う、同時に、「ガン!ガン!ガン!」と、数十条の赤い火の棒が、機体と操縦席の防弾ガラスを突き抜けて、頭上を流れた。たちまち操縦席は火の海、左エンジンが火を吹いた。
「しまったっ!」、反射的に闇夜の地面へ向かって操縦桿を押し込む。高度200メートル、速度200キロ、まだ執拗な敵の曳光弾が追ってくる。飛行機は片肺でかろうじて飛んでいる。瞬間、<空中爆発、全員死亡>が、頭をよぎった。しかし、不思議に恐怖感はない。さらに運を天にまかせて操縦桿を倒す、地上は山か?断崖か?林か?野原か?見えたっ!麦畑だ、パワー全閉、操縦桿を手前一杯に引く、「ガガガーッ」、機体が引き裂かれる、ものすごい轟音、意識不明・・・・。
4式重爆撃機「飛龍」キ67
蘇生したのは大刀洗陸軍病院のベッドの上だった。搭乗員のうち、副操縦士と偵察員戦死、後上砲係と機関士が重傷、新井曹長と無線士、尾部砲係は、軽傷ですんだ。およそ2ヶ月間の療養、再び沖縄戦の菊水特攻作戦に参加したが、終戦を迎えた。
とくだ ただしげ、 航空ジャーナリスト
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