航空機乗員養成所卒業生の葛藤
1. 時代に翻弄された乗員養成所卒業生
昭和16年12月8日、帝国海軍機動部隊によるハワイ真珠湾攻撃に端を発した太平洋戦争で、日米は凄惨な死闘を繰り返した。約4年後、日本の無条件降伏によって幕を閉じたが、結果的に軍人軍属および民間人約320万人が尊い犠牲になった。
乗員養成所卒業生の運命も、当然のごとく時局の激しい変動に翻弄された。乗員養成所出身者は、軍隊では予備役と蔑まれたが、戦場では予備役も現役もなかった。むしろ若いが故に、「予備役」とか「予備下士」と呼ばれる反動として、後述するように、進んで特攻を志願した哀しく悲壮な若者の姿もみられた。
戦局が熾烈になるにしたがい、養成所卒業生は、志とは裏腹に卒業と同時に召集されたことは前述した。彼らは主に陸海軍の最前線に配属され、死線をくぐって輸送任務に就き、あるいは軍用機の空輸をおこない、そして特攻出撃に殉じた。
19年での陸軍少年飛行兵(操縦)と予備役下士官候補生との、伍長に任官した操縦人員を比較すると、次のような概数になり、少年飛行兵10に対し、予備役下士官8の割合になっている。
陸軍少年飛行兵(11、12、13期) 1,600~1,700名
予備役下士官(操縦生12、13、14期生、本科1期生) 1,343名
乗員養成所出身者の総戦死者概数は860名で、戦前に卒業した約3,700名の23%になる。
乗員養成所出身の戦没者概数
操 縦 生 |
本科生 |
計 |
期 |
1 |
2 |
3 |
4 |
5 |
6 |
7 |
8 |
9 |
10 |
11 |
12 |
13 |
14 |
1 |
2 |
3 |
|
陸 |
20 |
18 |
14 |
18 |
31 |
22 |
17 |
58 |
36 |
71 |
62 |
113 |
61 |
88 |
32 |
8 |
7 |
676 |
海 |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
39 |
60 |
52 |
33 |
- |
- |
- |
184 |
計 |
20 |
18 |
14 |
18 |
31 |
22 |
17 |
58 |
36 |
71 |
101 |
173 |
113 |
121 |
32 |
8 |
7 |
860 |
|
注1.特攻出撃者153名を含む。
注2.操縦生1期生および2期生は、逓信省による民間委託操縦生「長期」を含む。
注3.本科2期生および3期生の戦没者は、乗船していた艦船撃沈および空襲による。
2. 乗員養成所卒業生の葛藤
戦局の悪化とともに、陸海軍パイロットの消耗を補うため、民間航空各社は、陸海軍組織と直結する必要が生じてきた。すでに養成所卒業生は、卒業後の就職先の選択の余地はなくなり、陸軍はほとんどの者を、海軍は全員を強制的に召集した。19年4月の法改訂により、乗員養成所は完全に予備役軍人の養成機関と化した。さらに陸軍は、操縦生15期の合格者を、短期現役下士官として、特別幹部候補生として教育した。幻の乗員養成所生徒と呼ばれる由縁である。
ここに至って、もはや官立の民間飛行学校の姿は消え、現役少年飛行兵や予科練出身者と同列にあつかわれ、軍属としての処遇以外の道は閉ざされたのである。ほとんどの者が航空輸送任務に就いたが、この形も徐々に崩れ、戦闘機コースへ進んだ者も相当数がいる。
初志とは違った不本意な道へ進まざるを得なかった彼らは、しかし、愛国心や敢闘精神は、正規軍人に勝るとも劣らなかった。彼らの意地と根性は、血書によって特攻を志願するなど、これから記す壮絶な戦闘記録や特攻出撃の記録から、うかがい知ることができる。
しかし、彼らの飛行訓練は、期間および時間ともに、軍隊のそれ以上に充実していたから、パイロットとしての腕は、現役将校や下士官よりも、平均して上位であり、前線では予想以上の活躍をしたのである。
余談ながら、戦後、日航や全日空などの民間航空立ち上げのときには、幸いにして戦火を潜って生きながらえた養成所出身者が、運航部門の中心として活躍した。私も日航の副操縦士時代、ほとんどの人に目をかけていただき、パイロットとしての奥義を教わったことは、感謝に耐えない。
しかし、彼ら諸先輩は例外なく、戦時のことは口にしなかった。たとえ質問しても、表面的な答えしか返ってこない。何故だろうか?わが国防衛のために戦って多くの戦友を失い、しかも戦後の極端な反動的反戦ムードの中で、砂を咬むような虚しい日々を送らざるを得なかった彼らの、「お前ら戦後派に、われわれの気持ちが分かってたまるか!」という、無言の怒りの表れだったのだろうか?
3. 死線を潜った徴用航空輸送隊
陸海軍の兵站航空輸送任務は、そのほとんどが民間に委託されていたが、前線の裏方として働く彼らの実状を知る人は皆無にちかい。とくに昭和19年から20年にかけての陸海軍航空輸送任務は、すべてが危険地帯の飛行であり、毎日の飛行が、明日をも知れぬ修羅場と化していた。
乗員養成所出身者の戦死者は、20年1月から6月に集中している。その多くは飛行中に敵機による撃墜、洋上飛行中のエンジン故障による海上不時着、悪天候下での夜間飛行による迷走、はては地上で空襲に遭遇し、飛行機が撃破され、地上戦に巻き込まれて戦死していった。
開戦後の17年4月に立ち上げた海軍系養成所操縦生出身者は、第11期から14期まで総勢500名ほどしかいなかったが、特記すべきは、彼らが民間航空へ行く道はなかったのである。全員が充員召集され、実施部隊へ投入されて前線へ送られ、過酷な戦場と対峙するしかなかった。例外的に優秀なわずかな人材が、横空飛行実験部所属の中島、三菱や川西、それに空技廠、愛知といった航空機製作会社で、テスト飛行に従事したが、空中分解事故などで、殉職した者は5名を下らない。
新聞社機で飛んでいたパイロットも危険が増大した。各社の猛烈な取材合戦が本来の仕事であったが、次第に陸海軍航空本部の組織下に入り、軍の作戦遂行に協力するようになっていった。しかも、敵の攻撃を回避するために夜間飛行を強いられたり、突然、目的地を変更することもしばしばで、極秘輸送任務が多くなっていった。
新野百三郎航空部長(陸依2期)率いる朝日新聞社では、海軍から96式陸攻、DC-3型、陸軍から97式重爆改、MC-20型、AT型輸送機などを借用、主に南方戦線各地への特別航空郵便や、緊急な人員機材輸送を引き受けていた。これらの軍務と平行して、ジャワ新聞、ボルネオ新聞など、南方各地に開設していた支局への特派員輸送、陸海軍報道班員、原稿や写真輸送業務をこなした。
松戸高等航養所教官をしていた水間博志氏(印旛10期)は、戦争末期、陸軍航空輸送部の任に就いていた。教官たち12名で編成された輸送部隊だった。月収は航空加俸を含めて120円と高給だったが、使うヒマとモノがなかった。
要人輸送が主な任務であり、台湾、朝鮮、中国大陸、シンガポールと、危険な空を東奔西走した。将星や参謀、高級官僚の移動は直前に知らされ、共に行動する必要があったが、事前に軍事情報が漏れているとしか思えない事態に、よく遭遇したという。
上海などでは排日思想や抗日運動が激化しており、常に私服を携行していた。街中には、「日本人飛行士を射殺した者には賞金1万元を与える」とか、「日本人飛行士は射殺せよ」といった物騒な張り紙が、いたるところの電柱に貼られていたという。
とくだ ただしげ、 航空ジャーナリスト
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