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愛媛乗員養成所第14期生の特攻
1. 特攻へ血書で志願
愛媛航養14期生は、93式中練の訓練半ばで卒業、できるだけ早く軍務に就かせる意図から、第15期海軍飛行科甲種予備練習生(甲種予科練)として、同じ基地内の詫間海軍航空隊西条分遣隊に入隊し、引き続き訓練を消化していった。基礎訓練修了後は、姫路航空隊へ移動、そこで実戦を模した訓練を終え、各海軍航空部隊へ散っていった。
そのまま姫空の97式艦攻教官要員として指名され、同期生から羨ましがられた山田真、山田見日、植木忠治の3人は、しかし、つかの間の安らぎでしかなかった。それは丁度2ヶ月後の、19年9月25日の夕暮れどきだった。教官たち25名を前にして、司令の露木専治大佐は重い口をひらいた。
「これからの話は他言無用である。今や大日本帝国は存亡の危機に立たされている。戦局は物量に勝る敵に如何に対処するかであり、これを殲滅できるのは、諸君ら搭乗員以外にはない。そのために当局は、ある新兵器を開発した。それは特攻兵器であり、生還を期すことは絶対にない必死隊の兵器である。真に憂国の赤誠に燃え、一命を捧げて悔いないと思う者は、あとで私へ知らせてもらいたい」凍りついたような異常な沈黙が、室内を覆った。
満20歳を目前にした植木は、その晩、ほとんど一睡もできなかった。時局柄、すでに夢みた民間パイロットへの道はとっくに諦めている。そして、国防の盾となり、体を張って戦う覚悟も人後に落ちないつもりである。だからといって、“はい、承知しました”という訳にはいかない。本当にこれでいいのか?自問自答しても答えが出てくる筈もない。
植木はベッドの中で、何回も寝返りをうちながら逡巡した。親兄弟の顔、仲間たちの顔、幼いころの古里の景色などなどが、とりとめもないジオラマのように浮かび上がっては消えていく。特攻から逃避すれば、自分自身が惨めになる。ましてや命が惜しいなどとは、口が裂けても言えない。
ようやく決心がついたように彼は、ベッドの上に起き上がった。すでに午前零時、短刀で左小指を切り、血で赤誠の証といえる願書をしたためた。胸が熱くなり涙が止まらなかったが、書いたことで、フンギリのようなものがつき、少しは気分が楽になった。“オレだけでも必ず征ってみせる”
結局、22名が志願した。そして19年春、相前後して鹿児島県神ノ池基地に展開している特攻部隊・神雷部隊721空へは4名が編入された。植木と山田見日、それに大谷正行も含まれていた。いつも飄々としている大谷は、「仲良く引導を渡してもらおうや」と、大人の風格をみせていた。残りの者は、神風特攻隊白鷺隊へ配属された。
2. 特攻機「桜花」による神雷部隊の出撃
植木は神ノ池基地で初めて特攻機「桜花」の存在を知った。木製小型飛行機で、一式陸攻の胴体に懸架されて出撃する、ロケット推進の滑空有人爆弾である。早速、桜花練習機で約2ヶ月間、連日の猛訓練が開始された。練習機は、桜花11型から爆弾やエンジンを取り外し、着陸用のソリが取り付けられたもので、もっぱら滑空技術を習得した。
沖縄で発見された桜花11型
神雷部隊は4分隊に分けられたが、植木は着任と同時に第1分隊に所属し、第2次攻撃隊員として後に続く者の教育をおこなった。第2分隊には第1次攻撃要員として、嶋村と山田見日の同期生が配属された。さらに第1次攻撃要員は、前記の2名と山田力也、富内敬二、大谷正行の5名が指名され、20年1月下旬、神ノ池から鹿屋へ移動した。その2、3日後には、同期の高橋経夫と藤木正一が合流した。
第1回神雷特別攻撃隊が出撃したのは20年3月21日未明、隊長は海軍航空隊の猛者で、部下からもっとも慕われている野中五郎少佐である。彼は死を諦観していた。「これは湊川だよ」と言い残して出撃していった。南北朝時代の楠公精神になぞらえた、生還を期しえない無謀な出撃という意味である。
一式陸攻18機(うち「桜花」15機の懸架)、直掩戦闘機30機の総勢159名が出撃、大柄で人のよい嶋村も乗り込んだ。しかし、衆寡敵せず、150機のグラマンやヘルキャットに迎撃され、初期の目的を達成することなく全滅したのである。この悲劇が連合艦隊司令長官によって全軍に布告されたのは、2ヶ月以上経ってからであった。
その後、山田見日、大谷正行、高橋経夫、藤木正一、山田力也、富内敬二が無謀な特攻出撃の犠牲になって命を絶ったのである。
3. 生と死の狭間で終戦
有山俊明一飛曹は、木更津の陸上爆撃機「銀河」部隊である第706部隊に編成された。この機体は中島の誇る誉11型1,825馬力2基装備の双発機である。航続距離5,500キロ、搭載爆弾1トン、最大時速546キロと、優れた性能を発揮したが、哀しいかな、搭乗員の練度不足、整備不良などで、その威力を充分に発揮することはできなかった。
陸上爆撃機「銀河」
第706空141名は松島へ移動、有山は、そこで神風特攻隊第4御楯隊に編入された。移動直後の20年4月上旬、隊長から特攻出撃者の氏名が読み上げられた。いつでも逝く覚悟はしていたつもりでも、有山は自分の名前を読み上げられた瞬間、思わず電流が走ったように体が強ばり、頭の中が真っ白になった。「選ばれなくて残念だ」「オレも逝きたかった」と、周囲で呟いている仲間の言葉が、なんと空虚に聞こえることか。たとえ束の間とはいえ、多分、彼らは心の中でホッとしていることだろう。自分が逆の立場でも、彼らと同じく胸を撫で下ろしたことだろう。「選ばれなくてホッとした」などとは、口が裂けても言えないのだ。
数日間は、悶々として自分自身を失った。選抜されなかったヤツの前では、絶対に弱みを見せてはいけない。女々しいと思っても、時折、どうすることもできないニヒルな笑いがこみ上げてくる。メシを食っても、砂を咬むようで何と味気ないことか。ベッドの上でも容易に寝付くことができないどころか、このしがらみから抜け出ることはできない。一途に悠久の命を信じることしかできないのだろうか?
第1回出撃はエンジン不調で離陸不可、第2回は出撃直前にムスタングの急襲により中止、生き延びて千歳へ移動、そこで第5御楯隊を再編成、いよいよ年貢の納め時と思ったが、終戦によって命を永らえた。
4. 特攻要員の心境
戦後、警察予備隊創設時に入隊し、再びパイロットとして帰り咲いた樫原二郎さんは、この過酷な環境を生き延びた。甲種予科練と乗員養成所を受験、双方に合格し、乗員養成所は民間だから安全だろうと軽く考えて、14期生として愛媛乗員養成所に入った。ところが甲種も養成所もなかった。というより「予備下士」とか「ボタ下士」などとバカにされる厳しい環境に晒された分、養成所の方が酷かったかもしれないと述懐されている。
彼は佐伯空931飛行隊に所属し、97式艦攻で雷撃訓練に明け暮れた。20年に入って鹿児島県串良航空基地への転属命令を受けたとき、いよいよ来るべきものが来たという感慨だった。当時の緊迫した状況から、特攻への疑念はなく、これで親兄弟が幸せになればよい、という単純な気持ちが先行していた。
約30%の要員は本当に熱烈だったが、70%は、できれば助かりたいというのが本音だったようだ。樫原さん自身、周囲の環境に麻痺してしまったのか、死への恐怖はあまり無かったとおっしゃる。皮肉なことに、ノイローゼになるような女々しいヤツや、未練がましいヤツが、早く特攻へ出された傾向があったという。
樫原さんによると、特攻には「決死隊」と「必死隊」があるという。1%でも生還の道が残されているのが、決死隊であるが、終戦末期には、事実は必死隊だった。たとえ目標を達成しなくても「死ね」という傾向が強く、帰ってきたときは非国民となり、卑怯者にされたから、ヤケクソになり、途中で発狂して突っ込んでいった者も出てきた。
約4ヶ月間、出撃日を待ちながら、訓練意外はブラブラと日々を暮らしたが、終戦により命を永らえたという。
愛媛14期卒業生は112名、うち戦死者が33名である。特徴的なのは、訓練中に事故死した2名と、19年末までに戦死した者は3名のみであり、他の28名は20年2月から終戦までに亡くなっていることである。特攻による殉職者のうち、神雷部隊の7名と、神風特攻隊は嘉戸乞、山田真、才田紀久雄、稲沢邦彦、伊藤忠、正木美男、川中工の7名で、計14名を数える。
とくだ ただしげ、 航空ジャーナリスト
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