「赤とんぼ」特攻の悲劇
1. 「赤とんぼ」特攻の悲劇
捷一号作戦発令後、19年10月からのレイテ海戦では、事実上、日本海軍が壊滅した。マリアナ諸島を制圧した米機動部隊は、20年1月9日、ついにフィリピンのルソン島リンガエン湾に上陸、マニラが
陥落した。さらに硫黄島が玉砕、日本軍の敗色は日一日と拡大していった。陸海軍共に、すでに特攻が戦術の主流になっていたが、陸軍はついに特攻要員の大量養成に踏み切った。
特攻を戦術とする「と号部隊編成綱領」には、次のように記されている。
「ト号部隊ノ本領ハ、生死ヲ超越シ、真ニ捨身必殺ト、旺盛ナル攻撃精神トヲ最高度ニ発揮シ、航行又ハ泊地ニ於ケル敵艦船ニ邁進衝突シ、之ヲ必沈シテ敵ノ企図ヲ覆滅シ、以テ全軍道捷ノ道ヲ拓クニ在リ」
陸軍は20年2月、特攻訓練教程として、「と号要員学科、術科、教育課程表」を作成し、各部隊へ配布したが、その内容は、爆撃、航法各10日、射撃4日というお粗末なものだった。しかし、当時の事情は、このような速成教育ですら、満足におこなえない事態だったのである。
ついに陸海軍大本営は、3月1日、搭乗員錬成教育を中止、全軍特攻の方針を決定した。
乗員養成所卒業生も例外ではなかった。本科2期生の宮内恒幸(戦後、航空局乗員課長)ら操縦科生徒は、古河での普通科卒業直前の20年3月下旬、参謀肩章を吊るした陸軍中佐がわざわざ来所し、「すでに玄関先に火がついた。諸君の特攻に頼る以外、本土決戦に勝ち目はない!」と、当然のごとく特攻参加を促した。
日本国内は毎日の空襲で、急速に焦土となりつつあったが、それでも生徒たちは「神州不滅」を信じ、鬼畜米英に一矢報いんと胸躍るものがあったという。
6月末に古河高等航養所を繰り上げ卒業、全員、所沢の陸軍航空輸送部隊に入隊、掘っ立て小屋同然の兵舎で起居しながら、基本教育を受けた。しかし、飛行訓練ではなく、毎日が典範令の丸暗記や、旧式の銃剣を使っての教練であり、体罰だけは、容赦なく浴びせられた。
基本教育修了後、宮内生徒ら約50名が特攻要員として、前橋に移動、師34201部隊前橋派遣隊が編成された。といっても肝心の飛行機はなく、ここでも毎日、竹槍訓練や匍匐前進などの訓練に明け暮れ、空しい日々が続いた。
やがて待ちに待った特攻機が到着したが、目の前の機体を見て愕然とした。期待していた一式戦「隼」でもなく、二式戦「鐘馗」でもない。それはなんと1年前に修了した筈の95式一型中練「赤とんぼ」だった。これに50キロ爆弾2個を爆装するのである。暗緑色に塗られた機体、エンジン・ナセルには特攻のロゴが描かれている。さすがに意気軒昂だけで世間知らずの若者たちも、打ちのめされたような絶望感におちいった。
日本民族のために、親兄弟のために、本気で国に殉じようとしている若者たちは、それでも竹槍をもって敵に立ち向かうことを思えば、飛行機で最後を遂げられることは幸せだと気をとり直した。とっくに現世への未練を断ち切っていたが、2度の原爆投下とソ連軍の満州侵攻によって、全ては終焉していった。
2. 海軍の「赤とんぼ」特攻
海軍機上練習機「白菊」
海軍では93式中練「海軍の赤とんぼ」および機上作業練習機「白菊」、それに水上偵察機が、特攻機として転用された。この特攻は、敵が本土に上陸する場合、敵上陸揚舟艇が海岸目がけて発進し、海岸から100ないし150メートルのところで、海面すれすれに飛んでいって突っ込む、いわゆる「カミツキ特攻」用にするのである。もはや自暴自棄の戦術でしかない。
20年3月1日、海軍は練習航空隊を解隊、訓練中のすべての練習機を実戦部隊に繰り込んだ。優先的に転用された「赤とんぼ」は約600機、特攻訓練に入った主な航空戦隊は、5航艦12戦隊、3航艦13戦隊だった。パイロットは、飛行経験が100時間に満たない予科練生(甲種、乙種)および予備練習生(養成所出身者)がほとんどである。
特攻を目的にした彼らの飛行訓練は、薄暮、黎明、夜間出撃を原則とし、急降下、緩降下などの降爆訓練であった。しかし、猛訓練は犠牲者を生み、さらに訓練中に米軍機による急襲で墜落という惨劇が増えていった。
すでに落日の日本ではあったが、沖縄陥落後も、日本近海を遊弋(ゆうよく)する敵艦船を求めて、散発的に特攻が繰り返されていた。内地からのゼロ戦の補給は途絶え、万策尽きた台湾の新竹に展開していた第29航空戦隊司令・藤松大佐は、虎尾基地にある中練31機の特攻出撃を決断した。
海軍93式中間練習機「海軍の赤とんぼ」
第1陣は正式に「神風特別攻撃隊第3竜虎隊」と命名、8人の特攻隊員が選ばれた。ほとんどが予科練出身者だったが、養成所出身の三村弘(福山13期)も含まれていた。彼らは中練に250キロ爆弾を抱え、7月29日、沖縄近海の敵艦船へ特攻攻撃をおこなった。成果は駆逐艦「キャラバン」撃沈だったが、これは奇跡に近く、7機が未帰還となった。
「白菊」による特攻で犠牲になった養成所出身者は、藤原一男、井上博、能見博(いずれも長崎13期)、市原重雄(長崎12期)、高沢啓次(愛媛13期)がいる。成果は惨憺たるもので、55%の機体が故障ないし天候不良で引き返し、さらに突撃の合図である長符の通信音を打ってきたのは数パーセントでしかなかった。
3. 犬死に特攻隊員を救った整備兵
以下の記述は、本科生機関科1期生・佐藤尚氏が、機関科1期会々報第3号および第4号に掲載した内容を纏めたものである。
松戸高等航養所本科生機関科第1期生々徒89名は、1年間の普通科教育修了後、全員、直ちに乙種予備候補生として、所沢陸軍航空輸送部第9飛行隊に着任した。ここで1ヵ月半という短期の初年兵訓練を受けた彼らは、実施部隊へと散っていった。
この頃の実施部隊では、激戦により熟練したら整備兵が極端に減っていたから、養成所機関科出身者の整備技術は高く評価されていた。
大村彦夫以下20名の候補生は、埼玉県北部にある特攻訓練基地である児玉飛行場へ配属された。すでに第501から506振武隊が編成されており、萩原敏郎中尉(松戸高等航養機関科2期)(注:本科生ではない)が整備隊長、各振部隊整備隊長も、養成所機関科出身者で占められていた。
陸軍一式双発高等練習機甲型(キ54)
しかし、日本軍の敗退は目を覆う惨状だった。6月23日、ついに沖縄が陥落、翌日、振武隊は、整備隊と共に高等双練24機をつらねて大刀洗南飛行場へ移動した。沖縄を作戦任務とする第6航空軍隷下に入るためである。20名が8月1日に陸軍軍曹に昇任した日、ついに飛行団長元木恒雄大佐によって、振武隊の出撃命令が下命された。振武隊に名を連ねた養成所卒業生は、清水竹三(仙台13期)、村山光男(印旛14期)、高野孝祐(仙台14期)、藤村武美(仙台14期)、菊田精一(古河期)である。
「攻撃隊初陣の第501振武隊高松秀明少尉以下8名の攻撃発進は、8月15日午後6時頃を予定する」死を覚悟している8名は張りきっていた。
運命の15日早朝、しかし、整備隊の候補生が、偶然にもハワイから発信されている電波を機上無線で、日本が無条件降伏したこと傍受していた。そして正午、天皇陛下による玉音放送が流れた直後に、打ち合わせていた手筈通りに、ずらりとランプに係留され、主を待っている爆装した双練のタイヤの空気を抜いてまわり、暴動を回避するために、近くの雑木林へ姿を消した。
玉音放送が終わると、案じていたことが起こった。「何だ?降伏したのか!そんなバカなことがあるもんか」「オレは絶対に信じないぞっ!!」
戦隊本部で玉音放送を聴いていた特攻隊員たちに衝撃が走った。本部は大混乱になった。出撃予定の午後6時を過ぎても何の指令もないことに、ついに特攻隊員たちは激昂した。「隊長が行かないなら、オレ1人でも出撃する」
8名は宿舎を飛び出した。しかし、特攻機は全機のタイヤの空気が抜かれ、無残な姿を晒していた。「飛行機が壊されている!」「いったい誰の仕業だっ!」日本刀を引っさげて飛行場大隊へ取って返した。そこには元木大佐が待っていて、命がけで彼らを説得した。日暮と共に、ようやく特攻隊員たちの激しい怒りと哀しみが収まろうとしていた。20年5月6日、振武隊が組織されて以来、死と向かい合って明け暮れた104日間の悪夢から開放された時だった。
とくだ ただしげ、 航空ジャーナリスト
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