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陸軍知覧特攻基地
1. 朝鮮人特攻隊員
平成13年に高倉健、田中裕子主演の東映映画「ホタル」が上演された。高倉健は、平成11年5月30日の日本テレビ「知ってるつもり?」で、「特攻の母」と慕われた鳥浜トメが取り上げられたのを観て、かつての陸軍特攻基地跡に建てられた知覧特攻平和会館を訪れたのが、映画制作のキッカケになった。知覧基地を舞台に、往時を回想しながらの戦後の物語であり、ご覧になった人も多いと思う。ここに出てくる金山文隆(朝鮮名キム・ソンジェ)は、朝鮮人でありながら特攻出撃によって戦死した。
金山少尉と鳥浜トメ
モデルになった金山少尉は、京都薬学専門学校卒業、昭和18年、特別操縦見習士官(特操)を志願、その第1期生として大刀洗陸軍飛行場知覧分教場に入校、6ヶ月間の速成訓練を受けた。そして特攻出撃の前夜、特攻隊員の溜まり場で、鳥浜トメがきり盛りしている街中の富家食堂(現在は「記念館」)に姿をあらわし、トメの前で朝鮮民謡「アリラン」を唄い、翌5月11日、一式戦「隼」戦闘機を駆って沖縄の空へ出撃していった。しかし、このようにして記録に残っている朝鮮人特攻隊員は少ない。
以下に記すのは、平成4年8月、西日本新聞に連載されたコラム「忘れられた特攻隊員」から引用したものである。
大正10年12月に韓国の全羅南道で生まれた李充範(日本名・平木義範)は、昭和12年頃に日本へ移住、熊本県有明海に面した鏡町が終の棲家になった。以来、日本で成長していった李青年は、14年12月、米子航養所5期生として入所した。当時の教官は馬詰太郎(陸委18期)である。在学中、平木義範という日本名に変わった。朝鮮人も天皇の臣民として、「創氏改名」が強制されたのである。
知覧特攻平和会館に残されている李軍曹(戦死により少尉)の遺影の下には、「第八十振武隊、平木義範少尉、昭和20年4月22日、朝鮮・23歳」と記され、「陸軍曹長平木充範」の寄せ書きと共に展示されている。
西日本新聞の記事がキッカケになって、わずかながら彼の周辺が、ようやく明るみに出た。福岡県博多市に従兄弟の平木新吉氏が住んでいたのだ。特攻志願については、親戚の間では「本人の希望でもあり、お国の為だからやむをえない」という雰囲気だったらしい。しかし、その希望については、周囲の仲間の熱意に動かされ、「朝鮮人の肝っ玉をみせつけてやる」という心意気になったことが、容易に想像できる。
鏡町で隣に住んでいたという人々の微かな記憶によれば、利発な子供で、いつもニコニコしていた。特攻出撃の直前に上空を飛行するという情報が入ったが、母親は一歩も外へ出ようとしなかった。日本人なら涙ながらに見送ったであろう息子の飛行は、日本人への、そして息子への無言の抗議だったのだろうかと、記者は言う。
特攻出撃の後、彼から遺髪と爪の入った封筒が送られてきたが、戦死を知らされる「戦死公報」はない。彼の弟も特攻を志願、8月20日に出撃予定だったが、終戦によって救われた。李一家は、戦後、韓国へ引き上げたが、未だに戦死公報は届かない。
知覧基地からの特攻出撃は、20年4月1日以来、2ヶ月間にわたり、436機が出撃した。特攻隊員は1,026名にのぼり、その内11名が朝鮮人であったが、彼らの本名が分かったのは、今だに5名にしかすぎない。終戦によって、本来ならば「英雄」として靖国の杜に祀られる筈の彼らは、本国では、「朝鮮民族の裏切り者」としての評価を受ける屈辱を受けなければならなかったのである。
本国での彼らの遺族は複雑であり、意図的に本名を名乗り出ることを忌避しているのかも知れない。息子が、あるいは兄が、弟が特攻出撃をしたということを、決して口外しない。遺族にとって特攻は、「報いなき戦い」であり、犬死でしかなかった。日本全国に、特攻隊員の慰霊碑が建立されているが、いまわしい植民地時代の遺物のような顕彰の碑を、彼らは決して望んではいないのである
平成3年夏、馬詰太郎氏がこの会館を訪れたとき、平木少尉の朝鮮名が判り、戦後46年目にして、ようやく日本名の下に「李充範」の三文字が書き添えられた。
2. ホタルになった特攻隊員
前掲の東映映画「ホタル」のタイトルのモデルになったのは、新潟県出身の宮川三郎(印旛14期)である。
新潟県小千谷市で生まれ育った彼は、雪国の人間らしく色白で、どちらかというと物静かで大人しく、思慮深い子供だった。地元の小千谷小学校を卒業、技術者を目指して長岡工業学校へ入学したが、成績はいつもトップ・クラスに名を連ねていたという。工業学校卒業後は立川飛行機製作所へ就職したが、時局柄、友達は軍関係の学校を志す者が多かった。彼は意を決して18年春、早稲田大学理工学部、慶応大学工学部、そして乗員養成所を受験し、三つとも合格した。
宮川三郎軍曹
心優しい彼は、親の負担のかからない乗員養成所を選び、この年10月に印旛地方航空機乗員養成所へ、14期生として入所したが、これが彼の運命の岐路となった。14期は操縦生最後の期であり、海軍系養成所を含めた全国11ヶ所の養成所に、計793名が入所している。
20年3月に繰り上げ卒業、直ちに召集されて大刀洗陸軍飛行学校へ入隊した。わずか100時間程度の飛行経験しかない彼らに待っていたものは、97式戦闘機による特攻を目的にした夜間飛行と 急降下の猛訓練だった。97戦はノモンハン事件の主役であり、とっくに旧式化していたシロモノである。
20年2月には沖縄戦を目的にした「と号作戦」が発令され、すでに特攻が日常の戦術となり、日増しに拡大していた。4月上旬、宮川は軍曹(準士官)に昇進、同時に特攻要員の命下布式によって、第6航空軍104振武隊員に指名され、4月12日に鹿児島県万世飛行場から出撃したが、エンジンの故障で引き返した。
生き残りの烙印を押された彼は、知覧基地へ移動、そこで第105振武隊(第3降魔隊)と共に出撃、ついに還らなかった。
晩年の鳥浜トメ
特攻隊員の溜まり場になっている知覧の街中の食堂に、宮川軍曹が姿を現したのは5月中旬頃だった。トメの目に映る彼の姿は、「どこか淋しい兵隊さん」だった。出撃は6月6日、その前日は宮川の満20歳の誕生日だった。トメは心づくしの手料理で彼の誕生日を祝った。
彼が可愛がっていたトメの次女・礼子へ遺品として、日ごろ使っていた航空時計と万年筆を渡し、礼子は丹念に縫いこんだ「鉢巻き」を手渡した。夜更けて、トメらと共に近くに流れている小川の藤棚のある涼み台に座った。闇の中に源氏ボタルが飛び交っていたが、その中の一匹が側の藤棚に止まった。「小母ちゃん、オレ、死んだら、このホタルになって帰ってきていいかな?」「いつでも帰ってらっしゃい、喜んで待っているわよ」
翌日、宮川軍曹は出撃していった。その夜8時頃、トメはすっかりホタルのことを忘れて、いつものように店の奥で食事の仕度をしていた。突然、礼子の甲高い声が聞こえた。「お母さん、宮川さんだよ、宮川さんが帰ってきたよっ!」わずかに開いていた食堂の窓の隙間から、一匹の大きな源氏ボタルが入り込み、暗い天井の梁に止まって、明るい光を放っていた。
居合わせた数人の特攻隊員も集まってきて、自然に歌声が合唱された。「貴様とオレとは同期の桜、同じ航空隊の庭に咲く・・・・」皆、顔をくしゃくしゃにして、いつまでも唄い続けながら、宮川軍曹の霊を弔った。多くの特攻隊員に母と慕われ、戦後は一貫して特攻隊員の慰霊顕彰に尽力した鳥浜トメは、平成4年4月22日、享年89歳で永眠した。
とくだ ただしげ、 航空ジャーナリスト
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