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終戦と大日本航空の解散
1.航空機乗員養成所の終焉
昭和20年8月15日、日本はついに無条件降伏を謳うボツダム宣言を受託、戦火の鉾を収めた。ついで8月31日、連合軍総司令官マッカーサー元帥がロッキードC54型「バターン」号で厚木基地に到着、9月2日には、東京湾に碇泊している米戦艦ミズーリー号艦上で、重光葵外相が降伏文書に調印した。
厚木海軍航空基地をはじめ、各陸海軍基地で待機していた特攻要員や、航空士官学校生徒たちは、無条件降伏を容易に信じようとせず、その憤懣が爆発した。近海の米艦船への特攻出撃や、米軍司令部への襲撃を画策し、一時、緊迫した不穏な空気が流れ、まさに一触即発の状態が続いたが、関係者の必死の説得で、日とともに下火になっていった。
「猛(たけし)飛行」に従事していた長野英麿は、宮本正義(海委4期)らとプノンペンを基地にして、仏印地帯からかき集めたパイロットを、特攻要員として内地へ運ぶ仕事に従事していた。MC20型輸送機でプノンペンを発ち、ダナン上空を飛行して、8月14日の薄暮、台北に到着した。そこには斉藤洋吾所長(海委5期、戦後、日航)が待っており、「日本は負けたよ」の言葉に、わが耳を疑った。
長野英麿氏
一億玉砕を本気で考えていた長野は、日本の敗北を素直に納得する訳にはいかなかった。16日払暁、MC20で雁の巣に飛んだ。そこで特攻隊要員を降ろし、機関士と2人で沖縄へ突っ込もうと相談したが、大森正男福岡支社長(陸委4期)の説得で中止した。
13年6月に産声をあげ、7年有余にわたって国防の一翼を担いながら、大車輪で若人の乗員を育てた航空機乗員養成所は、ここに完全に終焉した。そこには茫然自失した約4千人の教職員、約5千人の生徒の姿があった。16日付での大日本航空第一運営局と第二運営局が合併して運営局になり、仕事は残務整理に切り替わった。女子職員約600人が処理に従事したが、いろいろな悪い噂が広がり、早々に退職していった。
本科3期生が9月に繰り上げ卒業、12月には本科4期生が繰り上げ卒業した。12月28日付運輸省令第46号によって、地方航空機乗員養成所規則の廃止、12月31日付勅令第734号によって、航空機乗員養成所官制が正式に廃止された。残務整理は、退職金や保険金の支払、軍移管物資の分配、重要書類の焼却、外地からの遺骨引渡し等々の膨大なものだった。軍からの物資は、一時、本社地下室に保管したが、盗難が相次ぎ、大庭哲夫航空局次長の指示で、国会議事堂の倉庫へ移された。
2. 終戦処理連絡飛行
終戦直後の8月19日、海軍の一式陸攻2機に分乗した、日本降伏使節団の河辺虎四郎陸軍中将他16名の外務省一行は、沖縄の伊江島に到着、ここで米軍輸送機に乗りかえてマニラに到着、米軍司令部参謀たちと会談、戦後処理についての命令書を受領した。その内容は厳しいもので、「一切の日本国籍機の飛行は、8月24日午後6時をもって禁止する。これに従わない場合は撃墜する」という項目が明記されていた。
しかし、戦禍による鉄道や道路の破壊によって、国内交通網は寸断されており、海外からの民間人や復員軍人軍属、被災地からの帰郷等々、国民の大移動に迅速に対応しなければならない。これに理解を示したGHQ(連合軍総司令部)は、25日から31日までの終戦処理の連絡飛行を許可したが、後に期間は延長された。
「終戦処理連絡飛行」が正式な名称であるが、国際的なルールに従って、機体に緑十字を描いたことから、一般に「緑十字飛行(Green Cross Flight)」と呼ばれた。
外地での旧日本植民地での緑十字飛行も実施された。8月下旬頃から12月にかけて、中国大陸、インドシナ半島、シンガポールと、広大な地域に広がる飛行場を連絡飛行したのは、主に養成所出身者だった。彼らは、ほんの一時とはいえ、久しく経験しなかった安全な空を満喫した。機体はDC3型、MC20型、呑龍、飛龍などが使用された。
「日本進駐に関する事務を促進する」ことに関するGHQ特命(9月12日付SCAPIN23)によって、日本国内で緑十字飛行が開始されたのは、9月14日からだった。航空庁に終戦処理部が組織され、主に公用通信物輸送をおこなった。
陸軍約50名、海軍約250名、大日航約50名の乗員が参加した。機種はMC20型、DC3型、海軍機上作業練習機「白菊」、それに三菱90式機上作業練習機の合計27機が使用された。以下のような条件が付された。
(1)機体は白く塗りつぶし、万国共通の終戦処理機のロゴである「緑十字」を描くこと。
(2)機体に小さな赤色の吹流しを着けること。
(3)使用機は出発時、一機毎に米軍のチェックを受けること。
その外、武器搭載の禁止、飛行機には社名を付さない、日の丸もダメ、飛行ルートの指定、出発予定より15分以上遅れたら、その飛行は中止、同時に空中にいるのは4機までと、厳しい制限が科せられた。
輸送飛行隊長は亀山忠直、基地は羽田空港の予定だったが、突然、ここが米軍に接収されたので、やむなく全機を松戸飛行場へ移した。機種とか機数制限はなかったが、急ぎ松戸へ運んだ機数が全部で27機だった。大日航乗員は森田勝人、小田切春雄、長野英麿、佐竹仁、崎川五郎、岸田知朗、川田幸秋、今村忠雄、小池正一、金井正次、西端泰といった、航空再開後の民間航空を背負った錚々たる顔ぶれだった。
The Imperial Couriers事務所
この緑十字飛行によって、皆、日本民間航空再開への一縷の望みをつないだが、GHQの突然の指令で10月10日にあえなく中止、その数日後、27機は松戸で消却処分にされたのである。これを見守る亀山隊長以下の面々は、誰はばかることなく涙を流しながら葬送した。わずか23日間の飛行った。
その後の輸送任務は、米第5空軍第55輸送中隊管轄のThe Imperial Couriers(帝国輸送便)に引き継がれたのである。
3. 大日本航空の解散
米軍による飛行場施設と飛行機の破壊行為は全国でおこなわれた。羽田飛行場に残された機体は、9月末、ブルドーザーによって無残にも鴨池に埋められ、関係者はあらためて敗戦の悲哀を感ぜずにはいられなかった。札幌飛行場では、10月26日、ゼロ戦や大日本飛行協会の練習機、グライダーが格納庫から引っ張り出され、機体の中に油が流し込まれ、火炎放射器で次々と焼却していった。高松飛行場では、新鋭機61機が一気に破壊され、周囲の住民は5キロも避難したという。
旧植民地全域に路線網を展開し、5,000名の職員、所有機100機もの規模を誇った大日本航空も、その多彩な17年の歴史に幕を閉じるときがきた。20年10月9日現在の株主11,160名、政府を含めた5,000株以上の大株主が26名であった。10月31日に最後の株主総会が開かれた。重要課題は「会社解散の件」であり、精算人は児玉常雄総裁とし、政府はこれをもって解散を認可したのである。
総勢約1万人の職員の身の振り方が遡上にのぼった。生徒の大部分は、郷里の中学校への相当学年へ転入するために帰郷した。航空局職員や乗員養成所教職員については、以前に勤務していた職場への復帰のため、逓信省の郵便局、内務省土木局、公立の学校等々の官公庁への再就職が図られた。
民間航空禁止措置に関するGHQのSCAPIN第301号「商業及び民間航空に関する総司令部覚書」には、次のように明記された。「1945年12月31日以降、日本政府は一切の政府機関もしくは個人、商社、協会、日本人個人あるいはその団体に対し、すべての航空機、航空部品、発動機、もしくは実験用模型を含む航空科学に関する研究、整備、生産諸設備の購入、所有、運航を禁止する」
旧運輸省航空局の木造建物
最後まで残務整理に携った航空局職員は、12月31日に全ての業務を終えた。前記の覚書は翌年になって修正され、例外措置として、占領軍のための航空保安施設の維持管理業務が認められ、逓信省電波局航空保安部がこの任にあたった。航空保安部長は松尾静磨、かつての航空局職員が、21年1月1日発足の航空保安職員として発令された。
もっとも潰しのきかないパイロットたち乗務員は、操縦桿への夢を絶たれた。将来への希望を失った彼らは、それでも毎日、ぶらぶらしている訳にはいかない。そのほとんどが野に下ったが、国鉄の仕事以外では、進駐軍の仕事にありついたり、地方公務員、農漁業、親の商売の手伝い、行商、ヤミ商売と、何でもこなしてメシの糧にしたのである。
とくだ ただしげ、 航空ジャーナリスト
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