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驚きのバイコヌール (4)
-2006年スペースモデリング世界選手権バイコヌール大会-
山田 誠
2007.06.15
   
   
「見せていいのか組み立て工場」
 
 25か国の選手を乗せたバスは、4グループに分けられ、各グループが重ならないようにロシア宇宙局の職員とパトカー、警察官の誘導で見学場所へ移動していく。

 私たちのグループは宇宙船の組み立て工場から見学した、ここの入り口は宇宙飛行士3名が搭乗の直前に並んで宣誓をする有名な場所である。私も立って写真を撮ってもらった。

 説明する係員はロシア語のため、全く理解不能であるが、ロケットの施設であるため、何の目的で使われる機械なのかは、参加している選手全員が理解している。ここに集まっている選手は世界の宇宙オタクなのである。彼らに語らせればすべての施設を何時間でも話し続けるであろう。

 パトカーにつれられ、次の施設に入った。「嘘だろう」これが全員の印象である。10年前なら全員がスパイ容疑で射殺されているだろう。手を伸ばせば届く距離に、これから打ち上げるソユーズ・ロケット3機分が横になって置いてある。


現役のソユーズ・ロケットの前に立つ筆者

 ロシア宇宙局が世界大会の選手にここまで施設を公開するということは、それだけ彼らの技術力が安定している証明なのだろうと感心してしまう。もちろん自由に写真が取れる。テロ対策に敏感なアメリカでは、関係者といえども手が届く距離でスペースシャトルを工場で見ることは困難である。

「ブランが捨ててある」
 
 ソユーズ・ロケットブースターの細部写真を撮影しながら、「ここまで見せてくれるのだから、今度は何を見せてくれるのだろう」と、全員の期待は膨らむ一方であった。係員の誘導でバスに乗り込んだ私たちは、先導するパトカーについて行く。

 すると巨大な廃屋工場でバスは止まった。奥行き200m高さ50m以上ありそうな建物だが、屋根が雪の重みで崩れたように内部に落ちている。その建物から4本の線路が延び、入り口には白く塗られたクレーン付きの箱のような鉄骨が、真っ赤に錆びた60輪もありそうな巨大な車両フレームに載せられている。レールの先を見ると、はるか前方にも100mの高さがありそうな巨大な建物があり、レールはそこへ延びている。


ブラン組み立て工場へ向かう線路

 「これはブランの移動用クローラだ」、ということは、この建物は宇宙政策の変更により中止となった旧ソビエトのスペースシャトル「ブラン」の組み立て工場だ。このような施設まで見せていいのだろうか。世界に旧ソビエトの恥を見せるようなものだと考えれば、ロシアの考えが理解出来なくなってくる。


ブランの巨大な移動用クローラ

 もちろん、私たちには、大変結構な見学施設ではあるし、二度と見せてもらうことは不可能であろう。再びバスに乗り移動を開始すると前方に座った選手から声が上がる「ブランが見えた」。まさか、いくらなんでも国家機密であったブランが、どうして砂漠の中にあるのだ。何かの見間違えだろう。崩れかけた工場の跡や、捨てられたビルの間をバスはいくつも曲がる。

 ここでは土地が無限にあるため、建物を建て替えるという考えはないらしい。必要な施設は空いている土地に建てればよいという考えのようで、数多くの建物がそのまま捨てられている。そしてバスが朽ちかけた建物を右に曲がった瞬間、日本チーム全員がどよめきをあげた。


砂漠に放置されているスペースシャトル「ブラン」の実験用モックアップ

 砂漠の中にブランが捨ててある。実験用のモックアップだが、もちろん本物である。日本だけではなく、世界の誰もが信じられない光景だ。東京お台場の海の中に、最新型フェラーリ100台が捨ててあると表現すれば理解してもらえるだろうか。あるいは東京湾にアメリカのスペースシャトルが捨ててあるほうが分かりやすいだろうか。

 本来はありえないことが現実に目の前にある。世界から集まった選手一人ずつが、考えられる限りのポーズでブランとともに記念撮影をしている。ブラン本体は砂漠の砂で機体表面を洗われ、白と黒の表面はすべて茶色が薄く載っていた。

「27億円のガガーリン発射台」
 
 バスは再び次の見学場所へ向かう。どこへ行くという案内もガイドもいないため、次に何が現れるのか今回は分からない。知っているのは先導のパトカーだけである。

 進行するに従い、左手に先ほど見たブランの組み立て工場が小さく見える。前方視界が開けて、再び小さな建物が見えてくると、その屋根の向こうに発射台がそびえている。ということは、いよいよ1961年4月12日ボストーク1号で世界最初の宇宙飛行士ガガーリンを打ち上げた世界中の宇宙ファンの聖地である「ガガーリン発射台」だろう。バスは金網のゲートを入り、我々はバスを降りた。無線鉄塔などが周囲に立っている。


 ここからは発射台が見えないため、田舎町の一角にいる風景である。現場の兵士の指示で歩き始め、金網フェンスに沿って作られている道路をゾロゾロと数十人が歩いていく。建物を過ぎると右手前方に「あった」、写真や映像では飽きるほど眺めて知っている「ガガーリン発射台」である。バスの駐車場や建物からこれほど近くに発射台があるとは、爆発事故が起きたらどうなるんだろうと、余計な心配をしてしまうが、50年以上も古い建物がそのまま建っているということは、無事故の証拠ともいえる。 


宇宙への聖地・ガガーリン発射台

 外周道路に沿って歩いている先頭の兵士が立ち止まった。発射台までの距離は400m位だ。ここまでなのかと全員がグループごとに発射台をバックにして記念写真を撮り始めた。日本チームも交代で撮影する。ひとしきり落ち着いたとき、再び兵士が歩き始めた。発射台まで距離は250mほど、再び止まる。これが最後かと再び撮影会が始まる。すると兵士が歩き始める。

 距離は100mまで近づき、発射台下の噴射口が見えるところまで来ると、私も含め各国選手が砂漠の中を必死に探し始めた。目当てはロケットの噴射で吹き飛ばされたロケット部品である。打ち上げの際に、発射台とロケットを繋いでいたコネクターなどが発射直前に切り離され、ここまで飛ばされているのだ。

 ここへ来た人間しか手にいれることは不可能であると同時に、ロシアの技術者にとって使用済みのゴミ扱いのため、地面にゴロゴロと落ちているのだ。私も使用目的不明の大型コネクターなど多数をおみやげとして拾ってきた。

 兵士が動き出し、遂に我々はガガーリン発射台の真下にまで見学を許可された。いま私の前には緑色に塗装され、チューリップのように開く、ガガーリン発射台がある。後ろにはソユーズ・ロケットを運搬する特別列車が横たわっている。
 
 ここへ来るには、宇宙飛行士になるか、個人で27億円を支払って宇宙観光客になるかの選択肢しかない。過去には1990年12月2日、日本人発の宇宙特派員TBS秋山豊寛宇宙特派員がこの発射台から宇宙へ旅立っただけである。私は自分の生まれた時代と、ここへ来れるようにしていただいた多くの方々へ感謝していた。私たちは幸せだと。
 
 途中でエステスご夫妻とお会いした。お二人の夢は約50年を経て、今日ここで実現したのである。また通訳として参加しているTBSの鈴木順氏は、秋山氏の打ち上げの時、実況アナウンサーとして来ているので彼は2度も聖地に到着した数少ない日本人である。

「ガガーリンとコロリョフ」
 
 見学ツアーの最後は、ガガーリンと旧ソビエトの宇宙開発の中心人物であったコロリョフの住んでいた家の見学である。2DKの質素で小さな住まいであった。いかにも旧ソビエト軍人が生活していたと思える少量の生活道具が並んでいた。


ガガーリンとコロリョフが住んでいた家

 ここでガガーリンは訓練の毎日を過ごし、世界初の宇宙飛行士として世界の英雄になった後は、クレムリンのフルシュチョフ大統領と会い、世界各国へ親善の旅へ向かったのであるが、その後この家で静かに生活することは叶わなかったのではないだろうか。と想像してしまったのである。


2DKの質素な住まいの内部

 もう一度、宇宙へ飛びたいと願ったガガーリンであったが、ソビエトの英雄を事故で死なすわけにはいかないと考えた首脳部は、彼にゴーサインを出すことはなかった。結局、夢叶わぬまま、ガガーリンは訓練中の飛行機事故でこの世を去ってしまうのであった。


・・・  第5回へ続く   ・・・

 

やまだ まこと
特定非営利活動法人 日本モデルロケット協会会長

驚きのバイコヌール(1)
驚きのバイコヌール(2)
驚きのバイコヌール(3)
驚きのバイコヌール(5)

編集人より
山田 誠氏は2006年、FAI(国際航空連盟) ポール・ティサンディエ・ディプロマを受賞されました。
         
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