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驚きのバイコヌール (1)
-2006年スペースモデリング世界選手権バイコヌール大会-
山田 誠
2007.02.15
   
   
  2004年スペースモデリング世界選手権ポーランド大会最終日に、FAIの国際模型航空機委員会(CIAM)が大会宿舎で開催され、次回は2006年9月19日〜29日、カザフスタン共和国、ロシア・バイコヌール宇宙基地で開催されると発表された。発表と共に、列席していたバイコヌール宇宙基地にあるインターナショナル・スペース・スクールの担当者が、各国団長に案内リーフレットを配布してくれた。


目指すはバイコヌール

 この日から宇宙が大好きを自認している世界の関係者が、自らの人生において二度は無いと思われる幸運の旅へ参加するため、一斉に走り出したのである。

 現代において、宇宙関係の場所といえば、日本では筑波宇宙センターや鹿児島県の種子島と内之浦の発射場、米国でいえばフロリダ半島のケネデイ・スペースセンターやテキサス州ヒューストンのジョンソン・スペースセンターが有名である。

 そして宇宙開発の歴史といえば1957年10月4日に打ち上げられた人類初の人工衛星スプートニク1号と、同じく人類初の宇宙飛行士ガガーリン少佐であり、この二つの人類初が、旧ソビエト連邦のバイコヌール宇宙基地から打ち上げられたのである。宇宙関係者や宇宙に憧れる青少年にとって、まさに聖地なのだ。


"聖地バイコヌール"でのモデルロケット出来ばえ(Static)審査

 しかし、旧ソビエトの時代には、この場所をスパイ活動により探索されないために500km以上離れた町にバイコヌールと名づけ、ここをレーニンスクと呼んでいた時代があった。ソビエト連邦崩壊後、レーニンスクはバイコヌール市と正式に呼ばれ、同時に本来のカザフスタン共和国の領土に戻ったのである。

 しかし、ロシアはバイコヌールにある宇宙基地を手放すことはできなかった。理由は旧ソビエト連邦にとって、赤道に一番近い場所がバイコヌールだからである。赤道に近ければ地球の自転する遠心力を利用し、ロケットの打ち上げに使用する燃料を約10%節約できる。たかが10%では無い、ロケットの全重量の90%は燃料なのだ。

 1960年代に月へ人間を送った米国のサターン5型ロケットは、全長110m、全重量約3000トン、このうち2700トンが燃料なのだ。10%は270トンに相当する。従って、新生ロシアにとって、バイコヌールはどうしても、手に入れたい場所であった。

 そこで多額の借地権料をカザフスタン共和国へ支払うことで合意し、カザフスタンにあってバイコヌール宇宙基地だけは実質的にロシア領となっている。しかも機密扱いの施設が並び、現地へは鉄道かカザフスタン軍の飛行場へ降りるしか行く手段が無いのである。

 過去、日本人がこの地へ立ったのは1990年12月に東京放送の宇宙特派員「秋山豊寛」氏が日本人初の宇宙飛行を実現した際に、いまはなき宇宙ステーション「ミール」へ滞在し、地球の映像を生中継するため、数十名の中継スタッフが滞在したのみであった。

 2005年、バイコヌール宇宙基地のホームページから情報が届き始めた。しかし今までの世界選手権と比較すると問題は大きすぎる、
「ビザは下りるのか」「モスクワから現地へ飛行機は飛ぶのか」「競技専用のチェコ製ロケットエンジンは、現地へ輸送できるのか」「現地のホテルの連絡先は」「現地の移動は」「レンタカーは借りられるのか」全くの素人が南極探検を始めるような手探りが始まった。そして、予想したとおり難問題が現地でも毎日のように起きたのであった。

「ビザは下りるのか?」
 旅の専門家として我々はJTBに依頼することとし、現地までのルートを設定したが結局は、成田からモスクワへ行き、モスクワから主催者の用意した特別チャーター機でカザフスタン軍飛行場へ下りることが決定された。つまり、ロシアとカザフスタン両国の入国ビザが必要となった。ロシアのビザ取得には現地の招請状が日本に届けられ在日ロシア大使館で受理されたが、在日カザフスタン大使館では、「我が国が主催者ではないので、招請状は出せない」とのことにて、送り出し側の証明を用意すれば良いとの結果、(財)日本航空協会のご尽力により両国のビザは約2か月で用意できた。まずは夢への第一歩前進である。

「モスクワからバイコヌールへ飛行機は飛ぶのか?」
 ロシア・アエロフロート航空機で15名の日本選手団がモスクワ空港に到着した。4名が役員、11名が選手。選手は全員が日本大学理工学部の学生である。前年の2005年に選抜会を筑波宇宙センターで行い、上位の記録者を選んだ結果、他の大学や一般社会人は脱落し、日大の学生のみが残った。役員は、私と実機のロケットを担当しているアィエィチアイ・エアロスペースの濱田氏、モデルロケット協会の水間、TBS東京放送のアナウンサーとして1990年の秋山宇宙特派員打ち上げの実況放送を担当した鈴木順氏である。鈴木氏は人生で2回もバイコヌールへ行けるチャンスに興奮気味である。


やっとの思いでたどり着いたバイコヌール。日本選手団用テントの前で

 旅行社との約束では、ロビーを出たら現地日本語通訳が、「JAPAN」または「WSMC」(注:World Space Modelling Championshipの略)というプラカードを持って待つとの打ち合わせであった。空港の出口では、まるで韓国スターを待ちかまえる成田空港の群衆のように、タクシードライバーが何十人と大声で呼び込みをしている。もちろん多数のメッセージボードが溢れているが、目当ての「JAPAN」はまったくない、70才前後のロシア婦人が持つ「バイコヌール・ツアー」と英語で書かれたボードの前を数回通りながら、「ヘェ、モスクワから立ち入り禁止のバイコヌールへ行くツアーがあるんだ」と、チラチラと横目で見ながらご婦人の前を通り過ぎる。

 しかし、この先には誰もいない。「大変だ、迎えの通訳がいないぞ」これでは、今晩泊まるホテルへも到着不可能である。後から出てきた通訳担当の鈴木氏が空港内にあるツーリスト会社へ走る、「日本チームを担当している通訳はどこにいて、持っているメッセージに何と書いてある」この質問に対して窓口の女性は「バイコヌール・ツアー」と答えた。日本の旅行社が知らせてきた約束とは第一歩から違っていた。

 鈴木氏の機転により、通訳と合流することができ、15名の選手と大量の機材は、空港駐車場に用意されたバスに収まることとなった。我々を乗せたバスは、ようやくホテルへと向かったのである。私はバスの中で通訳のご婦人に伺った、「なぜJAPANと書かなかったのですかと」彼女は「だって、日本人は何人もロビーから出てくるけど、バイコヌールへ行くグループはあなたたちだけだから、私たちロシア人でも行くことができない場所ですよ、だからバイコヌール・ツアーと書けばすぐに解ると思ったの」、思わず納得の私であった。

 翌日、バイコヌールへ向かう特別チャーターに乗るため、通訳のご婦人の先導でバスは空港へ向かった。モスクワ市内を中心に四方向に空港があり、昨夜到着した空港とは別の場所へ向かう。朝のラッシュは東京都内の環状7号線のようで、車は動かない。もちろん予測して早朝に出発しているが、特別チャーター機であるため、乗り遅れたら代替えの航空機は無い。心の中で祈り始めた。

 ゆっくりではあるが空港は近づいている。しかし、バスの中では通訳のご婦人が驚いたような表情で、「私はロシアで生まれて日本の本を翻訳することを専門としながら、何十年と日本人ツアーのガイドをしているけれど、航空チケットを持たないで飛行機に乗ろうとする団体は始めて、とても信じられない」といっている。

 無理も無い、私自身が本当に乗れるのかと疑っているのだから。そもそも今回の特別チャーター便を主催者が用意するという発表があり、その後必要な参加費とともにモスクワからバイコヌールまでの往復航空運賃も大会主催者に送っている。しかし、チケットは日本へ送られて来ず、指定したチャーター便に乗るよう指示がきただけである。 
・・・  第2回へ続く   ・・・


やまだ まこと
特定非営利活動法人 日本モデルロケット協会会長

驚きのバイコヌール(2)
驚きのバイコヌール(3)
驚きのバイコヌール(4)
驚きのバイコヌール(5)


編集人より
山田 誠氏は2006年、FAI(国際航空連盟) ポール・ティサンディエ・ディプロマを受賞されました。
続きは3月15日にアップロードいたします。お楽しみに
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