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驚きのバイコヌール (2)
-2006年スペースモデリング世界選手権バイコヌール大会-
山田 誠
2007.03.15
   
   
「通訳のご婦人」
 いよいよ我々を乗せたバスは空港に着いた。これから旅の最大の難関であるバイコヌールの軍飛行場へ向かうチャーター機に搭乗できるのかという正念場であった。がしかし、すべてはベテランのツアーガイドである通訳のご婦人にお任せである。ここで窓口を探しチケットを入手出来なければ、我々の世界戦はここで終了となる。

 通訳のご婦人は入り口にいた空港関係者の若い女性に、バイコヌール方面への窓口を聞き、そこまで同行してもらう。選手全員も荷物を引きずりながら急ぎ足で、その後ろに続いた。突然、動きが止まった、空港ターミナルビルの端の方である。各地への案内看板は並んでいるがロシア語ではまったく読めない。若い女性はここまで案内すると、ニコニコと姿を消した。

 通訳のご婦人も「困った」という表情で「窓口を探してくるから全員ここから動かないで、私の携帯電話番号を教えておくから」と言い残し、左手出口方面へ向かっていった。15名の日本人は、言葉も文字も理解出来ない空港の片隅に置かれ、まるで駅で迷子になった子供が、親が現れるのを不安な顔でジット待っているという状況であった。

 10分、20分と時間が過ぎ、チャーター機の出発時間が迫ってくる。待つことすでに30分経過。絶対に何かトラブルがあったはずだ、他の国の選手は一人として見あたらない、空港を間違えたか、窓口カウンターの場所を間違えているのではないだろうか。誰もが考え出していた。「よし、携帯に連絡しよう。」、選手の一人が成田空港でレンタルした、世界で使用可能な携帯電話の出番である。携帯電話を手にして、渡された電話番号メモを入力しようとしていた時、選手団の後方から声が上がった。「戻ってきたよ」、声の方向を見ると両手一杯に多数の搭乗チケットを持った手を左右に振りながら歩いてくる通訳のご婦人の姿があった。

 私は駆け寄り、「チケット手に入りましたか」と聞くと、「ロシア人に話を聞くときは、一番偉い担当者を呼び出さないとだめ、5人目で、やっと話が通じたわ」とのことである。聞けばバイコヌールへの特別便窓口はこの先で、窓口担当者に日本選手団15名の搭乗チケットを誰が持っているのかを聞いたところ、次々と現れる担当者4名は、そんな話しは知らないといい、「ならば一番偉い担当者をここへ呼びなさい」と怒りながら、ご婦人が命令して責任者が現れまで、約20分待ったとのこと。そして話しを始めると、「そのチケットなら私が持っています」とのことだった。

 ロシアは縦へも横へも情報を流すという感覚が無く、すべて一人が情報を握ってしまう社会なので、こういう場面では最高責任者を呼ぶのが一番であると、ご婦人に教えてもらったのである。こうして、日本選手団15名の搭乗チケットは、やっと全員の手に渡ったのである。さあ、では窓口へ行こうということでご婦人の後について、20mほど右へ移動し、先の通路に出ると何と、私の知っている各国の選手が何十人と並んでいる姿が目に入ってきた。「えっ、ここが窓口だったんだ」。我々は大きな柱の陰で待っているのも同然であった。ほんの20m動けば、そこはバイコヌール・チャーター便の窓口だったのである。

「バイコヌール到着」
 モスクワからツポレフTU-154に乗り、約3時間でバイコヌール軍Krainy空港へ着陸した。タラップを下りると30年ほど前の離島の空港のように、小さな管制塔が見えるだけで照明は暗く、軍人が写真は撮るなと仕草で伝えてくる。各国の選手とともに縦1列に並び、カザフスタン軍による入国審査が始まった。 


バイコヌール の出発表示板

 外気温度はすでに10度以下に感じられる。昔、「がきデカ」という漫画シリーズの主人公に「こまわりくん」という少年警察官がいて、大きな警察帽をほとんど垂直に近い状態で頭にかぶっていたことを思い出した。いま私の前にいるカザフスタン軍の入国審査官2名は、まさに巨大な軍帽を垂直にかぶっているのである。国が変わると、何が権力を象徴するのかわからないものである。

 無事に審査を終わり、通路から出ると、そこには各国の選手が出てくるのを待って現地の通訳や案内担当者が多数いた。その中に、「JAPAN」と書かれたカードを持つ若い女性3名が待機していたのである。早速、日本チームであると声をかける。よっぽど長時間待っていたのであろう、一気に英語で話し始めた。私に続いて通訳の鈴木氏も出てきたので紹介すると、鈴木氏は、ここは俺に任せろとばかり、
長話を始めた。日本選手団の第一印象を良くしておこうという親心が働いたのであろう。しかし、選手である学生たちが全員揃うと、やはり年齢の近い方が理解しあうにも早いようで、たちまち通訳なしでも意気投合してしまった。聞けばロシア語と英語の通訳は、小学校の先生、あとの二人は英語が優秀な高校生で、三人とも今回の大会のために市から選抜されたとのことである。 

 すでに時刻は午後9時を過ぎ、真冬の気温となっている。軍の飛行場のため、待合室があるわけでもなく、駐車場の横に各国の百人以上の選手が立って待っている状態である。私たちとしては、早くホテルへ到着したい一心のため、大事な荷物を何時受け取れるのかを知りたいのである。寒空の中、立ったままですでに2時間以上待っているが何のアナウンスもない。この国はどういうシステムなのだろう。指令する人間がいないのではないかと、これからの大会を考えると不安材料しか浮かんでこない。

 我々の担当をしてくれる地元通訳に荷物の受け渡し時刻を聞いても、解らないというばかりだ。だれともなく「すべての荷物は明日の受け渡し」との話が流れる。そんな馬鹿な、着替えもなく、ホテルへ行けとは、あちこちからざわめきが起き、暴動でも起こるかという雰囲気である。すでに到着して3時間は経過している。すると急に収容所に作られた板塀のような壁に、数十人が殺到していく。どうやら国ごとに荷物の受け渡しが始まるということらしい。アナウンスは皆無なためというより、そのような設備もないようであるが、雰囲気を身体がつかみ取るしか、ここでは方法が無い。とにかく並ぶ。40分ほどしてやっと日本チームの荷物受け取り順がきた。すでに時刻は午後11時を過ぎている。

 この大会は失敗だ。このように時間にルーズならば、大会スケジュールを消化できるはずがない。だれもがそう実感していた。空腹を感じながら、大事なロケットなどの荷物を受け取った我々は、通訳の指示どおりにJAPANと大きく書かれた紙を貼ったバスに乗り込んだ。各国の選手も、この先どうなるのだろうという不安を抱きながら、指定された自国のバスに乗り込んで行く。全員が乗り込んだのだろう、やっとバスがホテルへ向かって動き始める。先頭で青いランプが回転しているパトカーの先導だ。最後尾もパトカー、しかし感動もないまま、やっとバイコヌールのホテルに疲れ切って到着した。

 バイコヌール最初の朝となった。昨日のすべてにいい加減な時間が頭に取り付き、心配ばかりが増えていく。はたしてエンジンは到着しているのか。これが最大の問題である。大会前、約6か月をかけて日本選手が使用する大会専用の個体ロケットエンジンをチェコのデルタ社に発注している。日本の火薬類取締法により、自国からのモデルロケット用エンジンの海外への持ち出しや、現地からの持ち帰り等は事前許可を要する。また、世界選手権で勝つためには現在、世界最高といわれているチェコのデルタエンジンで無ければならない。このため日本はチェコに必要数を事前注文し、現地で受け取るように約束している。

 この火薬エンジンは自動車のF1エンジンに相当するのだ。しかし、チェコからモスクワを経由し、軍用機にてバイコヌールまで輸送しなければならないが、はたして火薬エンジンの輸送許可をロシア政府とカザフスタン共和国政府が出してくれているかが気かがりだ。選手とロケットだけでエンジンがなければ大会を戦うことは不可能である。エンジン受け取りの約束は今日の午後となっている。

「お金をここまでかけるか競技施設」
 今日は大会会場での練習打ち上げが予定されている、しかし日本チームはエンジンを受け取ってないため選手はホテルでロケットの最終整備を行っている。競技日程が後の選手のみ現地下見として会場へ向かうことにする。カザフスタン共和国の中に、ロシア政府が多額の借地費用を支払ってバイコヌール宇宙基地は存在している。このため大会会場へ行くには、カザフスタンとロシアの国境を通過するため、参加25か国は各国ごとのバスに分乗し、パトカーが前後を挟んで25台のバスが大名行列で移動する。

 さらにこの隊列が支障なく進行するために、交差する道路はパトカーがすべて封鎖し、対向車線の一般車両も路肩に停車させられている。私にとっても初めての体験である。我々の行く先は、すべてカザフスタン警察により車両規制されているのである。走ること約40分。360度見渡す限り地平線の砂漠のど真ん中に大会会場は作られていた。

 第一印象は、「ここまで金をかけるか」ということである。一枚何トンもある厚さ20cmほどのコンクリートの巨大な板を限りなく砂漠の大地に敷き詰め、その上に各国ごとが使用する特設テントを設置、さらに臨時の郵便局、医療室、レストラン、売店、土産物屋、民族展示館、イスラム教の礼拝所、大会主催者の部屋、トイレ、表彰台、発電設備、水道設備、街路灯、驚いたのは周囲に木を植えて環境を整えていることでもある。砂漠の中に町を作ってしまったのだ。




砂漠に出現したテントの町

 日本が世界選手権に参加し始めた1992年のアメリカ大会以来、2年ごとに参加し、8大会目の参加となるが、これほど費用をかけた大会会場はなかった。先ほどまでは時間のルーズなことが先行していたため、この大会は成功するはずはない、と考えていたが、この施設を見て、一遍に見方が変わってしまった。

 「宇宙開発の聖地バイコヌールは、やはり世界最高の環境を用意していた。彼らは本気だったのだと」。思わず、同行した濱田氏と二人で堅い握手をしてしまった。「やっと、夢のバイコヌールに来た」、そして、砂漠に足を踏みだし、その足跡をカメラに収めたのであった。二人の心の中では1969年7月20日、アポロ11号のニール・アームストロング船長の月への第1歩と同様の心境であつた。冷戦時代の鉄のカーテンを私たちは、やっと超えたのである。


バイコヌールの砂漠に残した記念すべき足跡

 日本選手が入る部屋を選手と探していると、大会事務局から本部テントへ来るように指示を受けた。私は「何か問題でも起きたか」とついていくと、日本チームが競技で使用するエンジンを預かっているので受け取れという。チェコとの事前約束では、エンジン受け取りは宿泊しているホテルのロビーでロシアの大会役員からとなっている。約束と違うので説明を聞くと、「日本を含む5か国の火薬エンジンを、ロシア大会役員がチェコから受け取り、モスクワから軍用機に乗ってカザフスタンのバイコヌールへ運んだ、だから持ってくることが出来た。今日ここへ各国選手が来るので用意しておいた」との話である。

 最大の心配事は、あっけなく解決してしまった。ロシアの親切が心に染みる。実にラッキーな話である。ただし、1点だけ大失敗をしてしまった。砂漠の真昼は気温35度を超える真夏だったのである。早朝は5度、昼は35度、夕方は10度、ここは1日で冬と夏を繰り返す砂漠特有の気候だった。私は冬登山の服装しか持っていない自分を情けなく思っていた。

 日本を出発する前に
旅行社から、バイコヌールは極寒の地なので、9月から10月は冬装備で行くようにとのアドバイスを受け、ヒマラヤ登山隊が使用したのと同じ下着や、厚手のセーターを用意した。もちろん旅行社としては親切に指示してくれたのだが、バイコヌールへのツアーは組めないため、誰も正確には知らなかったのである。

「観客1万人以上、感動の開会式」
 日本選手団にとって、選手、ロケット、エンジンのすべてが用意できた、あとは成績を残すだけである。大会会場も立派で文句のつけようがない。さあ、開会式のお手並み拝見といきましょう。と心はきわめて軽くなっていた。人の心とはいい加減なものである、いや、私だけなのかもしれないが、昨晩の暗い気持ちがはるか遠い日の思い出になっている。

 スケジュールを見ると、我々のホテルから開会式場まで25か国が揃って出発するようである。この時点では会場がどこにあるかも検討がつかない。次第にホテルの前にパトカーや警官、軍、各国のバス、選手が到着している。歩いて行進するから各国ごとに並ぶようにと指示がでた。

 日本の国旗を地元の中学生だろうか4名が持ち、さらに1名が国名を書いたプラカードを持つ、この後ろに15名の選手が2列で歩き始める。ABCの順で行進するが、ロシア語では日本のJは一番後のようで、私たちの後ろには10名ほどの警察官が横一列で警備している。開会式場は行進している道の先にあるらくし、先頭の方で音楽隊が吹奏する行進曲が聞こえ、数百人の市民が急ぎ足で行進パレードの先に進んでいく。


日の丸を先頭にホテルから出発する日本選手団

 右側のアパートを見ると、道に面した壁の窓はすべてコンクリートで塞がれている、昔、秘密警察がスパイ活動防止のために行った措置なのだろうか。同じことが私たちのホテルにも言える。大きなホテルなのに電話が2本しかない、1本はロビーあとの1本は管理室である。これも冷戦時代のままのスパイ活動防止なのだろうかと考えさせられる。


すべての開口部がコンクリートで塞がれたアパート

 突然、先頭の方から大歓声が上がる、我々も事態が理解出来てきた。陸上競技場が見えてきたのだ、おそらく先頭の国が中に入場したのだろう。しかし、あれだけの歓声は千人、二千人の規模ではないぞ、エッ、私は思わず叫んでしまった、競技場の入り口にオリンピックの巨大なマークがそびえ、何千人という観衆がいるスタンドが手前のゲートから一瞬見えたのだ。「どうしてこれだけの人が集まるんだ」

 いよいよ、最後尾の日本チームが競技場入り口へと進んできた。先に行進している各国選手に左右スタンドから拍手と歓声があがる、「胸を張っていこう」私は全員に声をかけた。数え切れないほどの「ヤポニア」という声がスタンドから聞こえる、選手が手を挙げて声援に応えるとウォーという拍手が返ってくる。
 このシーンはテレビで見た、まさにオリンピックの開会式と同じである。


ヤボニア(日本)の声援に答えながら競技場に入る

 いま私たちは宇宙開発の歴史的な場所で、25か国とロケットのオリンピックに参加しているのである。感動が沸いてくる。「バイコヌールに来てよかった」1万人以上の観衆で埋まる競技場を行進してグランドスタンド前の貴賓席前を通過する。場内アナウンスが一段と大きく「ヤポニヤ」と我々を紹介すると大観衆から地鳴りのような拍手と歓声が沸き起こる。選手たちも全員興奮状態で、観衆に手を振り続けている。ここまで連れてきてよかった。という心境であった。


スタンドを埋めつくした観衆のわれんばかりの拍手と歓声が轟く競技場


 会場には巨大な地球儀とソユーズ・ロケットのバルーンが置かれ、政府要人、FAI
国際航空連盟)会長の開会挨拶が続く。その後、6か月間訓練したという青年男女の民族衣装による踊りとともに、ガガーリン宇宙飛行士の交信音、さらにここから3日前に高度400kmのISS国際宇宙ステーションへ27億円を支払って旅立った世界初の女性宇宙観光客アンサリさんら宇宙飛行士からのお祝いメッセージが披露されたのである。 


FAI会長(左)と当局のVIP二人


民族衣装を着た青年男女の踊り

・・・  第3回へ続く   ・・・

 

やまだ まこと
特定非営利活動法人 日本モデルロケット協会会長

驚きのバイコヌール(1)
驚きのバイコヌール(3)
驚きのバイコヌール(4)
驚きのバイコヌール(5)

編集人より
山田 誠氏は2006年、FAI(国際航空連盟) ポール・ティサンディエ・ディプロマを受賞されました。
続きは4月15日にアップロードいたします。お楽しみに
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