この時のポーランド機は、同国で名のあるオルリンスキー陸軍中尉で、ロレーン式四五〇馬力を装備したブレゲー式一九型機である。はじめ五月二十二日ワルソーを出発したが、途中で事故を起していつたん帰国し、再挙をはかつて八月二十七日、新興国家の面目を発揮すべくシベリヤ通過の記録飛行を目ざして首都を送り出されたものであつた。
機関士クビアツク軍曹を帯同して、その日のうちにモスコーを通過、一挙に 一、九〇〇㌔をカザンまで飛び、二十九日にはオムスク、三十日には一、七五〇㌔のクラスノヤルスクに進出し、三十一日には更に一、八〇〇㌔を翔破してチタに着くという韋駄天(いだてん)ぶりであり、九月一日にハルビンに入り、二日は奉天へ、三日、平壌へ連日の長距離突破にさきのデンマーク機の記録をはるかに破つて、五日は最後の頑張りで平壌から一気に所沢へ一、七五〇㌔を猛翔して従来の訪日機中、また新たな記録が立てられたのである。
オルリンスキー中尉は、「子供の時分からあこがれていた日本へ、シベリヤの広野を越えてようやく着き、感きわまつて何から申し上げてよいか分らない。奉天から平壌へ着いた時には雨で困難したが、平壌では皆さんから非常な歓迎をうけてうれしかつた。ことに昨晩は連隊長から日本の料理屋に招待されて、日本芸者というものをはじめて見せてもらつたのは印象が深かつた。また日本の音楽も非常によかつた。日本に入つてから富士山や箱根辺を低空飛行で見飽きるほど、眺めて来た」と、手ばなしのよろこびようだつた。
わが宮中では親善飛行の成功をよみせられてオルリンスキー中尉に勲六等単光旭日章、クビアツク曹長には勲七等青色桐葉章を授けられた。飛行協会でも総裁宮殿下は御旅行中だつたが、八日午前、宮邸でオルリンスキー中尉に録色有功章を、クビアツク曹長には紅色有功章を贈り、同日正午、華族会館で歓迎午餐会を催して、その労をねぎらい、伊沢東京市長からも記念品を送つた。
飛行機の整備点検と休養に数日を送つて十二日朝、帰航の途についたが、この日は天候きわめて不穏で大阪以西は濃霧立ちこめ、朝鮮海峡突破を二度まで試みて九時間余を費したがついに海が渡れず、鳥取から引返して薄暮迫るころ大坂城東練兵場に不時着した。翌日も思わしくない天候をついて平壌経由、奉天まで飛ぶ予定で出かけた が、午後二時五十分、猛雨のため江原道の山中平康に不時着し、翌日午後、平壌のわが陸軍飛行隊の二機に導かれて同地に一泊、奉天、ハルビンを経て十八日、チタ、二十四日、カザン、二十五日、モスコー、二十六日、祖国に入り、僚友に迎えられてワルソーに安着し、同国最初の極東訪問飛行記録を完成したのであつた。
 |
 |
| 両名が使用したフランス製のブレゲー19型。所沢飛行場での撮影と思われる。 |