航空遺産継承基金 ギャラリー 日本陸軍『航空写真帖』昭和8年5月 |
186/406枚目 画像ファイル名:Ka-089_p073-1.jpg 【オリジナルキャプション】 大正七年九月 伊国政府ヨリ同国航空隊援助ノ為メ帝国政府ニ援助員派遣ノ要請アリ陸軍大臣ハ本訓示ヲ与ヘ援助派遣員ヲ伊国ニ派遣セリ 同じ書面が、「伊国航空援助に関する件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03025404800、欧受大日記 其3 3冊の内 大正13年(防衛省防衛研究所)(第72~73画像目)にある。 文字起こしは以下の通り。 「訓示 伊国航空隊援助派遣員 曩ニ伊国政府ハ同国航空隊援助ノ為メ帝国政府ニ将校以下派遣ヲ要請シ帝国ハ連合与国ノ誼ニ由リ之ニ応諾シ茲ニ各員ノ出張ヲ見ルニ至レリ 派遣員ハ伊国到着後先ツ技術ノ練習ヲ受ケ後各種ノ航空勤務ニ服スル筈ナルヲ以テ各員ハ其ノ専門ニ応シテ技能ヲ練磨シ以テ伊国航空隊援助ノ任務ヲ完クスヘク而シテ各員ノ修得シタル技能ハ他日大ニ帝国軍ノ航空事業ニ裨益セムコトハ本大臣ノ期待スル所ナリ今回各員カ此選ニ当レルハ其ノ栄誉頗ル大ナルト共ニ責務亦従ツテ重ク其ノ行為ハ直ニ帝国陸軍ノ名声ニ関スルヲ以テ深ク思ヲ此ニ致シ居常帝国ノ軍人軍属タルコトヲ顧念シ監督指導ノ任ニアル上官ノ命令指示ニ服従シ軍紀風紀ヲ厳守シ士気ヲ旺盛ニシ以テ勤務ニ精励スヘシ又外人トノ交際ニハ特ニ深甚ノ注意ヲ払ヒ断シテ帝国軍ノ名誉ヲ汚損スルナキヲ期スヘシ 本大臣ハ茲ニ各員ノ出発ニ際シ衷心ヨリ其ノ任務ノ成功ト健全ヲ祈リ併セテ光栄ヲ荷フテ帰朝セムコトヲ望ム 右訓示ス 大正七年九月十七日 陸軍大臣 大島健一」 総力戦となった第一次世界大戦中、ヨーロッパ諸国は、大量に消耗する兵力・資源に疲弊した。日本は日英同盟から、連合国側に属しており、英仏伊からヨーロッパ戦線への貢献を求められていた。様々な要請のうち、陸軍は英仏からの派兵要請は兵站を理由に断ったものの、イタリアからの航空機材料の提供と航空人材の派遣要請に応えた。当初より、イタリアからの要望には日本人の職工への飛行機製造教育と、飛行将校に対する航空教育が条件に盛り込まれており、陸軍にとってもメリットがあったのである。また、この訓示にも「先ツ技術ノ練習ヲ受ケ後各種ノ航空勤務ニ服スル筈ナル」とあるように、イタリアで教育を受けた将校・職工は、イタリア軍飛行隊に配属され、戦闘に参加する可能性があった。このように、日本とイタリアの両国から、航空技術を学び、発揮することを期待されたイタリア派遣日本航空団であったが、実際には大正七(1918)年十月に日本を出発した後、十一月十一日に第一次世界大戦が休戦となってしまった。このため、航空団は予定どおりイタリアで教育を受けたものの、戦場に出ることはなかった。また、休戦に伴い、当初イタリアが負担することになっていた教育費用は、日本が負担することになった。教育は大正七(1918)年十二月から大正八(1919)年六月にかけて行われた。このイタリア派遣は、同時期に来日したフランス航空教育団に比べ、陸軍航空の発展に与えた影響は少ない。しかし、発展途上にあり、人材に乏しかった陸軍航空において、イタリア派遣が有益な影響を与えたことは確かである。 参考: 松原治吉郎、2023、『陸軍航空の形成――軍事組織と新技術の受容』錦正社(航空図書館所蔵):p.146-190 |
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