航空遺産継承基金 ギャラリー 日本陸軍『航空写真帖』昭和8年5月 |
119/406枚目 画像ファイル名:Ka-089_p051-2.jpg 【オリジナルキャプション】 第一期ノ偵察将校卜操縦将校 写真ハ浅田大尉、木村中尉 『日本航空史明治大正編』の口絵では、「アンリ―・ファルマン式機上の操縦将校(前・木村砲兵中尉)と偵察将校(浅田砲兵大尉)」として紹介されている。木村鈴四郎砲兵中尉と浅田礼三砲兵大尉がアンリ ファルマン1910年型に搭乗している様子。 木村鈴四郎中尉が左腕に巻いている腕章は、黒色の喪章か。明治四十五(1912)年7月に明治天皇が崩御した後、政府は8月から9月にかけて国民の喪章について規定した。第一期空中偵察将校の養成時期が6月から8月のため、この写真は8月に撮影されたと考えられる。 参考 大蔵省印刷局 [編]『官報』1912年08月01日,「閣令第二号」日本マイクロ写真 ,大正元年. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2952095 (参照 2024-08-29) 朝日新聞、1912年8月10日、「一般国民の喪章」朝刊五面 大蔵省印刷局 [編]『官報』1912年09月21日,「閣令第三号」日本マイクロ写真 ,大正元年. 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2952141 (参照 2024-08-29) 朝日新聞、1912年9月22日、「喪章は要せず」朝刊五面 日本航空協会、1956、『日本航空史明治大正編』航空遺産継承基金アーカイブ 明治末期から大正前半にかけて、陸軍は「交通術修業員」として、操縦将校や空中偵察・観測将校といった航空要員を養成し始めた。それまで飛行機は臨時軍用気球研究会による調査・研究の対象だったが、飛行機の軍事的有用性が理解され始め、陸軍として航空要員の養成方法を模索するに至ったのである。交通術修業員とは、技術要員を養成して交通兵旅団隷下部隊に派遣するための制度である。当時、陸軍航空を管掌した気球隊は、鉄道隊・電信隊と同様、近衛師団の交通兵旅団に属した。当時、陸軍の航空要員は少なかったため、後に陸軍航空の産みの親といわれる井上幾太郎大佐(当時)は、航空要員養成のために、新しい制度を作る代わりに「交通術修業員分遣規則」を適用し、既存のフレームワークを用いて陸軍全体から志願者を募集し、航空要員の養成を始めた。 参考: 「空中偵察及航空機操縦将校養成の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031772000、永存書類乙輯第3類 大正3年(防衛省防衛研究所) 松原治吉郎、2023、『陸軍航空の形成――軍事組織と新技術の受容』錦正社(航空図書館所蔵):p27-38 「陸軍常備団隊配備表ヲ改正ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15113644400、公文類聚・第三十一編・明治四十年・第十二巻・軍事・陸軍・海軍(国立公文書館) |
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