航空遺産継承基金 ギャラリー 日本陸軍『航空写真帖』昭和8年5月 |
118/406枚目 画像ファイル名:Ka-089_p051-1.jpg 【オリジナルキャプション】 我国最初ノ卒業飛行 大正二年六月下旬所沢―国府台間第一期飛行機操縦将校卒業野外飛行ヲ実施ス 写真ハ国府台到着 機上ハ長沢中尉 機前ハ井上仁郎中将 『日本航空史 明治・大正編』によれば、第一期操縦将校卒業試験飛行では、「ニューポール式に長沢中尉、モーリス・ファルマン式に沢田中尉、岡中尉と両少尉は会式三号機に分乗」とある。このように、長沢賢二郎中尉がニューポール式(ニューポールNMまたはニューポールNG)で卒業飛行を行ったとされるが、実際に写真に写っている機体はモーリス ファルマン1913年型である。 この卒業飛行の様子を垣間見ることのできる、当時の民間人の日記がある。鎌ケ谷市郷土資料館の所蔵する、津川象の日記である。津川は当時、八柱尋常高等小学校の校長を務めており、後に鎌ケ谷村役場の書記を務めてた人物で、自ら記した日記を後年に編集・浄書している。筆まめな地元の名士というような人物像が窺える。 さて、日記には以下の様にある。 「大正二年六月十八日午前九時頃飛行機の音響が校内(校内とは八桂村小学校内である)に聞こえた。学校は時恰も挿秧休暇で、予一人日直して居たが此の頃此の地方で飛行機を見るのは稀有なことであるから急いで庭に出て大空を仰いで見た。二台の飛行機が松戸矢切方面の上空を飛翔して国府台練兵所に著陸するのを目撃した。野山に柴刈る男女、田畑に耕す老若何れも鍬を捨て鎌を措き争って、この珍来の怪物を見んと、ひしめき合って驚異の眼を瞠った。予は明治四十三年の頃始めてこれを見た。今日は二度目である。」(可読性のため、カタカナはひらがなに改め、濁点・句読点を補った。旧字体は新字体に改めた。) 日記によれば、津川が飛行機を見たのは明治四十三(1910)年の代々木練兵場における日本初の公開飛行を見物して以来だった。当時、津川の居た千葉県西部では飛行機は珍しく、野山や田畑で作業中の人々は手を止め、驚異の眼差しで飛行機を見たという。 津川は、大正二(1913)年の日記を後の昭和二(1927)年に編集した際の感想も記している。曰く、大正二(1913)年当時から僅かに十数年で日本の航空は発展し、ただ列強諸国に劣ることは遺憾だが、今や「寒村僻地」でも、飛行機の飛ぶ音を聞いて外に飛び出る者はもはやおらず、隔世の感があるということである。詳しくは、鎌ケ谷市の郷土資料館のページをご覧いただきたい。 明治末期から大正前半にかけて、陸軍は「交通術修業員」として、操縦将校や空中偵察・観測将校といった航空要員を養成し始めた。それまで飛行機は臨時軍用気球研究会による調査・研究の対象だったが、飛行機の軍事的有用性が理解され始め、陸軍として航空要員の養成方法を模索するに至ったのである。交通術修業員とは、技術要員を養成して交通兵旅団隷下部隊に派遣するための制度である。当時、陸軍航空を管掌した気球隊は、鉄道隊・電信隊と同様、近衛師団の交通兵旅団に属した。当時、陸軍の航空要員は少なかったため、後に陸軍航空の産みの親といわれる井上幾太郎大佐(当時)は、航空要員養成のために、新しい制度を作る代わりに「交通術修業員分遣規則」を適用し、既存のフレームワークを用いて陸軍全体から志願者を募集し、航空要員の養成を始めた。 参考: 鎌ケ谷市、2024、「第30回 史料整理の現場から(10)日記に書かれた 『約110年前の飛行機飛来の記録』」(2024/6/21更新、https://www.city.kamagaya.chiba.jp/sisetsu/kyoudo_2/nanisuru/kizasinikki.html) 「空中偵察及航空機操縦将校養成の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031772000、永存書類乙輯第3類 大正3年(防衛省防衛研究所) 日本航空協会、1956、『日本航空史 明治・大正編』航空遺産継承基金アーカイブ 松原治吉郎、2023、『陸軍航空の形成――軍事組織と新技術の受容』錦正社(航空図書館所蔵):p27-38 「陸軍常備団隊配備表ヲ改正ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15113644400、公文類聚・第三十一編・明治四十年・第十二巻・軍事・陸軍・海軍(国立公文書館) |
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