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航空遺産継承基金 アーカイブ 伊藤音次郎氏と日記帳 |
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伊藤音次郎氏は1891(明治24)年6月3日に現在の大阪市に生まれました。1908(明治41)年ライト・フライヤーの活動写真を見たことをきっかけに航空への道を進み、民間航空の先駆者の一人として活躍しました。自ら飛行機の操縦方法を習得した後、操縦者の養成と飛行機製作を行う伊藤飛行機研究所を設立して、黎明期の日本の航空界の発展を支える存在となりましたが、事故で愛弟子の山縣豊太郎を失うなどの悲劇もあり、常に資金繰りに悩みながらの活動で、その道のりは平坦ではありませんでした。第2次世界大戦後、日本で航空活動が禁止されると農業に従事し、1971(昭和46)年12月26日に80歳で亡くなりました。その前半生は、平木國夫氏の小説『空気の階段を登れ』(朝日新聞社、1971/昭和46年、新装版は三木書房、2010年/平成22年)に描かれています。 伊藤音次郎氏は忙しい日々を送る中でも日記を付けていました。日記帳の多くは、伊藤音次郎氏の没後、遺族から千葉市に寄贈されました。伊藤音次郎氏の日記は、日本の航空史の貴重な一次資料であることから、日本航空協会は同市から日記帳を借用して複写させていただきました。また、2012年に平木國夫氏のご遺族からいただいた資料にも日記帳が1冊含まれており、合わせて複写しました。 現在、千葉市が所蔵している日記帳は1910、1914~1921、1923、1925~1943、1962、1965~1970年(明治43、大正3~10、12、14~15/昭和元~昭和18年、37、40~45年)の36冊です。日本航空協会が所蔵している1909(明治42)年のものと合わせて37冊の存在が分かっています。 当協会では今日では読めない人も多い崩し字で書かれていることから、その情報を活用できるように、日記帳の文字起こしを進めてきました。この度、1943(昭和18)年までの作業が終わりましたので、日本の航空史に興味のある方、日本の近現代史を研究される方などに利用していただくべく、伊藤音次郎氏のご遺族の了解を得て、ここにそのデータを公開します。 日記データについて覚書 ・1911~1913、1922、1924、1944~61、63、64、71年の日記は、現在、その存在が確認されていません。 ・書き込みが全くないページが続く場合はスキャンしていません。 ・1910(明治43)年の日記は、伊藤音次郎氏が上京する11月1日からの記述が空白でした。 ・1923(大正12)年の日記は、9月13日からの記述が空白でした。
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