今月は「山の日」にちなんで、大正九(1920)年11月に大阪城東練兵場で撮影された伊藤式恵美16型「富士」号の写真をご紹介します。写真には、「大阪城東練兵場で飛ぶ 伊藤式16号「富士」号 坂東衆一/後藤勇吉 協力出資により製作 大正9年〜10年」と添え書きがあります。大阪・久留米間第二回懸賞郵便飛行競技大会で撮影されたものです。
伊藤式恵美16型「富士」号
伊藤式恵美16型富士号は、後に川西で有名になる阪東舜一と、最初期の民間パイロットの後藤勇吉が実家の資金で伊藤飛行機研究所に注文したものです。
「富士」号の名前の由来
富士号という名前は、後藤勇吉の実家の家業であった「南藤屋」の屋号と、日本一の富士山にあやかって名付けられました。
マーキングの意味:ダイヤモンドの中に1/2
後席の脇の胴体には、菱形の中に1/2と書かれたマーキングが施されました。これは、労資の協調という阪東の企業上の理念を、ダイヤモンドの中に二分の一と書くことで象徴したものです。富士号の写真は、宮原旭氏のアルバムにも収められており、人力で運搬中の写真と、地上展示中の写真の2枚を公開済です。いずれの写真も、マーキングがよく分かります。
懸賞郵便飛行競技大会
大正時代は未だ飛行機の実用性が低く、民間に飛行機が普及していなかった時代でした。そのため民間航空の振興団体であった帝国飛行協会は、一般の人々の航空への関心と認識を高め、飛行家や飛行機製作所には大会で賞金を与え援助するため、航空局などの後援で飛行大会を開催しました。その中でも大正八(1919)年に始まった郵便飛行競技大会は、郵便物を目的地に届ける競技で、飛行機の実用性を一般にPRするものでした。
第1回懸賞郵便飛行競技大会は大正八(1919)年10月、東京〜大阪間を往復する形で開催されました。過去の「今月の一枚」、「第1回懸賞郵便飛行」でも取り上げています。
第2回懸賞郵便飛行競技大会は大正九(1920)年11月、大阪〜久留米間のコースで開催されました。大会には後藤勇吉の駆る「富士号」をはじめ5人が参加し、スパッド13で出場した石橋勝浪が一等賞を獲得、賞金11000円を授与されました。富士号で出場した後藤勇吉は二等賞となり、賞金8000円を授与されました。
第3回懸賞郵便飛行競技大会は大正十(1921)年8月、東京〜盛岡間のコースで開催されました。過去の「今月の一枚」、「100年前の懸賞郵便飛行」でも取り上げています。懸賞郵便飛行競技大会はその後も行われ、民間会社による定期航空郵便の実現へとつながりました。
小森郁雄氏の写真アルバム
写真は、小森郁雄氏の写真アルバムのものです。小森氏は戦前から戦後まで活躍した航空ジャーナリストです。航空遺産継承基金では、小森郁雄氏のご遺族から多くの写真アルバム等の紙資料のご寄贈を受け、その保存・調査に取り組んでいます。
(小森氏のアルバムに貼られた「富士」号の写真)。下の写真には「大阪〜善通寺〜久留米 飛行競技に参加 大阪東練兵塲 機上は後藤勇吉操縦士」と添え書きがあります。
参考文献
国立国会図書館、2013、「ようこそ、空へ―日本人の初飛行から世界一周まで―」
日本航空協会、1956、『日本航空史 明治・大正編』p.476-498(pdf549〜571コマ目):大正時代の民間航空の様子が、まるで見てきたかのように書かれています。
藤田敏夫、2006、「第二章:伊藤音次郎と白戸榮之助の翼――千葉の海岸から空を征した二人」「第三章:飛行家と飛行大会――大正時代を彩った大空の競演」日本航空協会編『男爵の愛した翼たち(上)』p.49-84:宮原旭氏の遺した写真資料群から、戦前の民間航空の様子を見ることができます。
原田昌紀、2014、『航空黎明期 郷土『播州』の名パイロット 大蔵清三氏の記録』:p.37
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