1911年5月5日、所沢飛行場において奈良原三次の設計した国産機「奈良原式2号」が初の動力飛行に成功しました。翌日の東京日日新聞で高度4m、距離60mの飛行記録が報じられました(下写真)。浮上出来なかった「奈良原式1号」の失敗を経て、「奈良原式2号」ではエンジンを1号機の25馬力から50馬力のものに変更、アンリ・ファルマン機を参考に機体素材が竹から木製になり、尾翼まわりもファルマン機そっくりに改良されました。また脚を弱く作ることで操縦練習時に機体全体が壊れないように考慮されています。父の奈良原繁男爵は三次が海軍を辞めて民間人として飛行機の研究を行うことに反対していました。繁は元薩摩藩士で幕末の寺田屋騒動、生麦事件などに参加し、明治維新後は貴族院議員、沖縄県令などを務め男爵を叙爵します。三次は家を出て「奈良原式2号」を完成させましたが、この飛行記録後、親戚は男爵の後継ぎが命の危険を冒して飛行機に乗ることを禁じたため、後の操縦は白戸栄之助などに委ねることになりました。 今から110年前の5月に撮影された写真であることから「今月の1枚」としました。
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