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あの頃のシンガポール (1958-60年) 
− JALシンガポール支店開設 −
佐野開作
2006.01.12
   
   
 目の前にどこか不二家のペコちゃんを思わせる風貌の紳士がたっている。「君が佐野君か、斉藤です」との挨拶。場所は帝国ホテル(注1)。当時、私は日本航空中央営業所(後の東京支店)国際旅客課に属し、ホテル内カウンターに勤務していた。帝国ホテルの正面玄関を入った両側にPAA(当時のパンアメリカン航空)、BOAC(ブリティッシュ・エアウェイズの前身)、AF(エアフランス)、JALなど、エアライン各社がブースを設け、1〜2名のスタッフが主に海外からのお客様への対応をおこなっていた。斉藤さんについては航空雑誌で南海航空専務として拝見したことのある人物だったが、なぜ私に挨拶してくれたのかなと思った。
(注1) 当時の帝国ホテルは大谷石づくりのフランク・ロイド・ライト氏設計のもので、関東大震災にも耐え、その正面部分は現在、名鉄明治村に保存されている。戦災の影響の残る1950年代、都内に外国人旅客が宿泊するホテルはまだ少なかった。ホテルオークラ、ホテルニューオータニ等は1960年代前半、東京オリンピックの前に開業した。
(斉藤進 初代シンガポール支店長)
1954年2月に太平洋・沖縄(返還前の沖縄へはパスポートがわりの身分証明書が必要であった)へと始まったJALの国際線は翌年、香港、1956年にバンコクへとアジア方面に延び、1958年にはシンガポールまで延長することになった。そして、シンガポール市内・空港へ11名が派遣されることとなり、私はその一員となった。

 シンガポールへの出発前、新橋亭に派遣員が家族共々集合し、顔合わせが行われた。初めてお会いする面々がほとんどであったが、帝国ホテルでお会いした斉藤進さんが支店長。なるほど、あの時、ホテルで挨拶してくれた訳がわかった。中央営業所の阿部さんが、支店次長兼販売主任。私はその部下であった。新橋亭は現在も新橋にあり時々利用しては今昔の感を抱いている。

 当時のことで、ほとんど全員が海外に出るのは初めてである。シンガポールにはいくつかのグループにわかれて出発したが私は総務担当の若手、小松さんと一緒であった。古い旅券を今回、見なおしてみると1958年3月19日、日本出国とある。23時30分羽田を出発し、沖縄経由で香港に到着したのは翌朝である。機体はレシプロ機のDC6B。なにぶん、東も西もわからず、おのぼりさんでエンルート寄港地をよく見てこいという親心であったと思う、各地で皆様のお世話になった。

 香港は人の多さ、多様さ、喧騒、各種香料、料理のにおいに圧倒された。次はオンライン終点のバンコック。朝、香港発でバンコックには12時着。ドアを開けると南の熱風と共に機内に飛び込んできた半袖制服の係員がいろいろと世話をしている。お客さん曰く「日本語のうまいタイ人だな」。さもあろう、亀田バンコック支店長(注2)であった。バンコックでは皆で分宿している家のひとつに泊めていただいた。南方の家はチーク材を使い重厚な感じであった。寝室は蚊よけの網戸に囲まれていた。滞在中はよく飲み且つ食べ、海外勤務は胃袋の勝負だなと実感。
(注2) 亀田重雄:ハワイ出身2世の亀田三兄弟は戦前の野球界で名を馳せ本人も六大学選手であった。戦中は海軍将校として重巡洋艦愛宕に乗務した。のちにJAL専務となり、(株)ジャルパックの会長となる。

 バンコック以遠はThai Airwaysで3月26日、勤務地たるシンガポール、パヤ・レバー空港に到着。現在のチャンギー空港のあたりは、まだ刑務所と海岸地帯であった。宿泊はキャセイホテル。市の中心にあり、なかなか快適であった。戦時中は日本憲兵隊司令部であったとのこと。

 支店事務所は4月4日、市の目抜き通り、南方植民地風建物と新しいビルが混在していたロビンソンロードのアメリカン インターナショナルビル5階にオープンした。 私たちより先着の方々は、それまでもいろいろ多忙であったと思われる。そのビルの難と言えば、看板が出せず、初めての人にはわかりにくい事であった。

 事務所設置、スタッフの採用および業務訓練などなど多忙であったが、初便が就航したのは事務所オープンから約1ヶ月後の1958年5月8日。週3便が飛んだ。その便数に対して派遣員の数11名はいかにも多く、移民局への説明は大変だったようである。ちなみに、パンアメリカン航空の米国人派遣員は3名であった。

 当時、レシプロ機を飛ばしていたJALは太平洋線においてはパンアメリカンのJET化(ボーイング707)で大きく水をあけられていた。またシンガポールの空でも、JAL便就航時にはJALと同様の機材、DC6Bを飛ばしていたキャセイ航空が、途中よりターボプロップ機(ロッキード・エレクトラ)を導入し、我々は苦戦を強いられるようになった。

 気候はなにぶん赤道近くであり、あたり前のことながら年中夏で暑かった。救いは緑が多く、海に囲まれ、スコールがあったことである。当時、エアコンは事務所と支店長車くらいで一般的ではなかった。

 家族の呼び寄せは赴任1年後とされており、我々11人は市内3ヶ所に分かれ、いわば合宿生活をした。阿部次長と私は他の1人とともに、斉藤支店長宅に住んだ。まぁ、役立たずの当番兵のようなものである。この家は後に日本人クラブになったくらいで、かなり広かった。ブキテマロード先の郊外にあり、墓場が近く、我々はおばけ屋敷と称していた。黄昏時、たまたま広大な屋敷に一人いるときなど、英軍の軍楽隊の練習なのか、バグパイプ独特の哀調のある音が遠くから細く聞こえてきて、寂寥感がつのるときもあった。 


「おばけ屋敷」と呼ばれていた当時の支店長宅

 支店長の斉藤進さんは元大日本航空出身、大阪商船をバックに日航と対抗して国際線へ進出するため、新会社を設立しようとしたが、不成功に終わっていた(注3)。 斉藤支店長と支店次長の阿部さんとはその頃からの同志である。佐野当番兵はその無念の敗戦記をシンガポール夜話としてよく聞かされたものである。シンガポールへ飛来する機長のなかには斉藤さんの会社が成立したあかつきには、運航要員になるべきだった方々もおられたりした。斉藤さんは鼻っぱしらの強いひとであったが、愛嬌もあり支店の現地スタッフからも親しまれていた。   (注3)日本経済新聞社発行「離陸前夜」に斉藤氏が詳しく書いている

  IATA Asia Pacific Regional Office(アジア・オセアニア地区を統括するIATAオフィス)はシンガポールにあるが、当時、そこにマクガワン氏(Mr. R. McGowan)がいて、多くの航空会社社員の記憶に残る人物だった。彼は元英軍スピットフィヤーのパイロットで、顔面の火傷痕が戦歴を語っていたが、我々若輩とも気さくに付き合ってくださった。後年、IATAのRegional Director South Pacificに昇格され、JALの加藤さんがその後任となった。

 私がシンガポールにいた頃、人民行動党のリー・クワンユー(李光耀)氏が首相として選挙に当選し、永年の英国殖民地支配より脱却した。リー・クワンユー氏は今でも、アジアのリーダーの一人として活躍されていて、その息の長さに感心している。当時、彼の選挙演説を聴いて、事務所のスタッフ達が目を輝かせながら話題にしていたのが印象的であった。

 太平洋戦争中(私にとっては大東亜戦争と言ったほうがピンとくるのだが)、シンガポールは昭南島と名づけられた。当時、中学一年生であった私は「白梅かおる紀元節シンガポールを撃ち落し」と皆と一緒に歌ったものである。

 1941年、マレー半島コタバルに上陸した日本軍は南下し、ジョホール水道よりシンガポールへ突入、ブキテマ高地の激戦等々は連日、新聞、ラジオで報ぜられていた。ブキテマにあるフォード工場内で、山下奉文中将が英司令官パーシバル中将に全面降伏を迫る「YESかNOか」の場面は、中学生だった私に強い印象をあたえた。

 ところが時は移り、両者の立場は逆転。日本は敗れ、山下中将が劇的に降伏を迫ったフォード工場近くの台地にあった昭南神社は、日本軍降伏直後に爆破された。赤ちゃけた土がむきだしとなっている神社の跡に南の太陽がギラギラと照りつけ、人の気配もない。あらためて戦争の虚しさを感じさせられたものである。

 ある夕べ、我々は斉藤さんらと数人で、封切された映画「戦場にかける橋」を観に劇場へ出かけた。捕虜収容所長、斉藤大佐を演ずる早川雪州および英軍指揮官役のアレック・ギネスの名演技は見ものであった。映画のテーマ音楽「クワイ河マーチ」は今でも私を元気づけてくれる。

 帰宅して、阿部さんが「君達は呑気に観ていたが自分は後ろから何か飛んでくるのではないかとヒヤヒヤした」とおっしゃった。戦時中タイにいて、シンガポールから多数送られてきた英軍捕虜や華僑たちが奥地へ連れていかれ戻って来なかった実状を目のあたりにした人ならではの発言だった。

 日本人の数がまだ少ないその頃の映画館中央席にすわった我々の一列はさぞ目立った存在であったろう。翌朝、出勤してみると支店長デスクの上に一通の封書が置いてあった。中のカード曰く、

 Colonel Saito,

 If you work hard, you will be treated well.


 これは「戦場にかける橋」の冒頭、日本軍の捕虜収容所に到着し、整列している英軍捕虜を前に早川雪州演ずる斉藤大佐がのべた言葉である。私は誰が書いたか知らぬが、「わがスタッフもよくやってくれるわい」と思ったが、同時に日本人の一人としての思いは複雑であった。

 私自身シンガポールの人々とだんだん親しくなってくると「自分のおじさんは日本軍に連れていかれて帰ってこなかった」と言われたりした。また、戦時体験のない若いスタッフでも派遣員のなかで、強いことを言う者がいると陰で「ケンペイ、ケンペイ」と言っていた。それ程、占領下での華僑への弾圧は厳しかったのだと思う。


シンガポール人スタッフと共に(後列中央が筆者)

 一方、「日本がやってくれなかったら我々はそのままヨーロピアンの支配下にいたであろう」と言ってくれる声もあったが、それはたいてい、私と一対一の時の発言であった。ともに、アジアの人に接する時はその点、心すべきものと今でも思っている。

 敗戦国日本が翼を取り戻し、ようやく海外まで飛ぶことが出来るようになって、半世紀が経た今日、戦後の民間航空再開の時代に関係した人も少なくなってきている。各自のそれぞれの持場での体験を残したいものである。

− さの かいさく、 元日本航空社員 −

−編集人より−
本文はJAL OB会会報に掲載された後、加筆されています。写真は筆者提供です。
当事者だけが生き生きと描き出すことのできる航空の歴史のひとこまを埋もれさせずに記録することは意義あるものと思います。皆様からのご投稿をお待ちしています。

                 

         
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