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あの頃の上海(1996-1999)
− 浦東空港建設プロジェクト −
 
中西 充



   
2006.01.25
   
   
 ANA又はJAL便で上海に飛ぶと長江(揚子江)の河口の南側、東シナ海に面する空港に到着する。これが2つある上海の表玄関の1つの上海浦東国際空港だ。1996年、今から丁度10年前に私がANA上海支店に赴任した当時この空港は未だ影も形も無かった。

 着任したその年の夏とほぼ同時期に始まったこの空港の建設プロジェクト。その裏話、現地での体験談を想い起こしながら空港がオープンするまでをレポート風に纏めてみた。

 まず新空港の建設に至る簡単な経緯、背景から話をおこすことにする。上海が歴史に登場するのはイギリスとのアヘン戦争(1840−1842)の結果締結した南京条約が最初。租界地として外国人に居住を認め開放したのが上海の街の原型。長江の河口を少し遡った所に南から流れ込む支流、黄浦江(中国読み「フォァンプージャン」)河畔に発達したウオーターフロント都市です。この河はほぼ南北に蛇行して流れその西側河岸から内陸側に広がって発展した街が旧市街。中心はバンド、外灘(中国読み「ワイタン」)といわれる場所で租界時代の中心エリア。1900年頃のゴシック建物がずらりと並ぶ上海随一の観光スポットです。

 駐在していた当時も日本、欧米、東南アジアの国々の駐在員とその家族も多く住んでおり一大国際都市の様相を呈していた。まさに発展する中国の象徴とされていた。現地人の雇用も拡大し上海の周辺からも多くの中国人が旧市街に集まり住むようになります。19世紀時代に造られた狭い旧市街は爆発的に膨張した人口を吸収しきれず、朝夕のラッシュアワーには路線バス、タクシーと自転車と人が渾然一体となり道路に溢れ返る超過密の無秩序状態が常態化し都市機能が完全に麻痺していた。

 外資を呼び込みそれを梃子に更なる経済改革を目指す中国はこれを解消するために国家プロジェクトとして浦東新区開発プロジェクトができた。浦東開発プロジェクトは1990年の前半に動き出した。20年から30年掛けて計画的に1400万人規模の都市とその機能をそっくり黄浦江の反対側(浦東は川の東側の意)に移転させようとする歴史上例を見ない壮大な社会実験としてスタートした。

 上海の空港についていえば、もともと市の中心部から内陸に10数キロ入った虹橋(中国読み「ホンチャオ」)にあった虹橋国際空港が唯一の空港だった。内陸空港の宿命である騒音問題や拡張に伴う膨大な建設コストから新しい土地に作ったほうが安上がりということで新空港が建設されることになった。

 1996年夏、着任の直後に北京の中央政府(国務院)で建設用地が正式に決定されたとの情報が取れた。その週末車で農道を走り1日がかりでその場所を確認に行った。しかし、道案内を兼ねた中国人運転手も探し当てることが出来なかった。広大な田んぼと畑が広がるだけでそれらしい看板も気配も全く無かった。大きなトラックが入り込めるような道路さえもなく狐につままれた様な思いでがっかりして帰路についたのを今でも思い出される。

 その後も機会ある毎、中国の農村視察と郊外ドライブを兼ねて車を走らせたが工事が始まる気配は一向になかった。97年の春(着工決定から半年たった頃)だったと思う、建設予定地に通じる工事用の道路が出来、トラックが頻繁に行き来し始めたという噂を聞いた。車で行ってみると農道の脇に色とりどりの旗がずらりと立てられて空港建設を鼓舞するスローガンが書かれた赤や白の縦幕、横幕が道路脇に掲げられていた。いよいよ工事が始まった。

 空港建設となれば広大な用地の確保は大変、社会主義の国といえども簡単ではない。当時上海人から聞いた話では立退きが決まると1年前に代替地を用意される。もちろん断れないし移転先の希望も聞き入れて貰えないということだった。(これが着工の遅れた理由の一つだったかもしれない)

 日本でもこの新空港建設が話題になり始め視察を希望する人も増え始めた。丁度その頃、現地に工事指揮所が出来た。3階建の建物で2階の大きな部屋の中に空港完成時の全体模型が展示されていた。前もってアポイントをとると指揮所の責任者から詳しい説明が聞けた。ある日、日本からの見学者に同行して指揮所を訪れた時責任者から計画の概要を聞く機会があった。

 その時の説明では、最終的に4000mクラス滑走路が4本、ターミナルビルが4棟、貨物上屋、整備用のハンガーも建設される。滑走路の方位は4本とも南北の平行滑走路、横風用は作らないという。1期建設の滑走路は海側に建設するという。2本目以降は沖合に展開し埋め立て方式とする・・・。
 
 日本からの見学者が通訳を介して「埋め立てはコストが掛かる。広い土地があるのに何故埋め立てるのか」と質問した。それに対し、「沖合埋立て予定場所は長江河口の南側で泥を含んだ海水、水深もさほど深くない。海なので潮の干満があるので埋立て用地の周りを土手で囲み1箇所切り込みを入れておけば内側に自然と土砂が堆積して陸地になる。埋め立てコストは殆ど掛からない」と説明があった。

 確かにこの辺りを機内の窓から見下ろせば河口付近は泥水と海水の境目がはっきり見て取れる。又上海は山が少ないので埋立て用の土砂がない。中国は万里の長城、運河建設など土木工事では実績はあるとはいえ本当にそのような工法で作れるのか半信半疑で聞いていた。

田んぼと畑のなかに徐々に姿を現す浦東空港施設





 虹橋国際空港の存続も早くから決まっていた。外国乗入れ航空会社として最も関心があったのはどちらの空港に乗入が認められるのか、2つの空港をどのように運用するのか。国内線との乗り継ぎ利便性はどのように確保されるのか、中国の航空会社との公平性が確保されるのか、などであった。当時新空港建設には日本から膨大な額のODAが供与されていた。

 成田空港にも未だ納品されていないような日本メーカーの最新の航行援助設備、光学式の大型電話交換器などが収められることになっていた。

 日本の国益を確保する為に上海総領事に同行してもらい何度も当局に陳情に行った。明確な回答はなかったが別の情報では当局の内部で計画がなかなかまとまらなかったらしい。

 羽田/成田空港の使分けについてもよく研究していた。我々に国内線、国際線の乗り継ぎの不便さを盛んにアピールしていたことを思いだす。

 私が1999年の夏、3年間の任期を終え帰任する頃には外国航空会社対象の説明会が何度か開かれた。欧州の航空会社の一部、アメリカ、日本の航空会社等は新空港へ移転し、欧州のその他、東南アジア、オセアニアの航空会社は虹橋空港に残るというような内容だった。両方の空港から国内線の主要路線を設けるというような説明があった。どのような基準で分けたのか明確な理由説明はなかった。2つの空港が比較的近いので空域が交差しないように東西のトラフィック、南北のトラフィックを使う方面別に乗り入れ空港を決めたのではないかと思う。また両方の空港を直接結ぶ外環状高速道路の計画もされていて乗り継ぎの利便性も確保されるということであった。(現在は空港から旧市街までリニアーモーターが営業運転しており地下鉄も整備されている)

 新空港の開港日は1999年の建国50周年の節目の国慶節(10月1日)にかなり前から決まっていた。国の威信にかけてもその日に間に合わせるために突貫工事にも意気込みが感じられた。予定通り国慶節に開港のセレモニーが挙行され一部の航空会社は即移転したようだ。しかし大半の外国航空会社の新空港への移転は何段階かに分けられ、最後は2000年3月までずれ込んだ。これは1998年7月香港返還にあわせて開港した香港国際空港(チェク・ラプ・コック空港)が開港直後手荷物の仕分け装置が上手く動かずに大混乱したことも学習したのだと思う。中国ではホテルなども開業日は前から決まっていてその日にオープニングセレモニーをやり翌日から又工事が再開されてしまうようなことも珍しくない。どちらかといえばそのほうが一般的なように思う。昔の計画経済の名残か、小さなことにこだわらない性分からかは良く分からない。しかし面子、形式を非常に重視する国民性からは分かり易く良く理解できる。(中国には、「棺桶の中で顔を洗う」という意味の諺もある。死んでも面子、体裁を重視するということを喩えて使われるらしい。)

 とにもかくにも正式決定から3年余りで田んぼと畑の荒野に4000m級の滑走路とターミナルビル、貨物上屋を作り国際空港をオープンさせてしまったのには驚愕させられる。
一概に比較出来ないが20年30年かけても完成しない空港がある日本の場合とはあまりにも大きな違い。大変貴重な経験をさせていただいた。

 2006年は戌(イヌ)年、中国では犬(中国語では「狗」という字が一般的)はあまりいい意味で使われない。「走狗」「羊頭狗肉」等愚かな行いをする者の喩え等が多い。東北地方の朝鮮族などは食料にして食べてしまうお国柄。日本ではイヌの寿命の短さに喩え従来の7倍のスピードで発展する様を「ドッグ・イヤー」と云ったりしたこともあった。今年も政治のレベルでは面子をかけてギクシャクした出来事が続くかもしれない。しかし経済活動、民間交流レベルでは切っても切れない関係。いまさら後戻りは出来ない。2008年の北京オリンピック、2010年の上海万博に向け日中間の航空需要は益々増大するはず。互いに面子だけにこだわらず文化の違いを乗り越えて戌年=ドッグ・イヤーに相応しい発展が遂げられる1年になることを心から祈りたい。

− なかにし みつる、 (財)日本航空協会・元全日空上海支店長 −


**編集人より**
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