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空の冒険者・民間パイロット 国内最初の犠牲者

武石浩玻の軌跡


茨城大学名誉教授
佐々木靖章

*本記事は『航空と文化』(No.113

2016年夏号からの転載です。

2019.9.13
 
 

はじめに

 私は昨年、『空飛ぶ冒険者武石浩玻『米国日記』民間パイロット国内最初の犠牲者』(以下『米国日記』)という本を刊行しました。武石浩玻(1884-1913)の日記の復刻です。日記の外に、巻頭に、茨城県出身で直木賞受賞作家である出久根達郎氏の「文学青年の心の遍歴」を載せ、巻末に、小川芋銭の研究者である北畠健氏の「小川芋銭作「風児」について」と筆者の「武石浩玻とその時代」40ページ余を載せております。その縁で、今年2月に日本航空協会で講演をする機会をいただきました。本稿では改めて、武石浩玻の人となりをご紹介します。
 私が武石浩玻の存在を本格的に知ったのは、稲垣足穂(1900-1977)の『空の日本飛行機物語』(1943、三省堂)を読んだときです。足穂は、浩玻がもともと短歌・俳句・詩を創る文人肌の人間であることを述べた後に「ファルマンやボアザンは、共にパリ美術学校出身の画家でした。ラタムは詩人です。(中略)大空には、雲や、霞や、虹や、また風や鳥影などがあります。これらはすべて、詩人がうたい、画家が絵にかき、そして音楽家が音楽にとりいれるのに最も適当した題材であります。ですから、そんな別世界へ、飛行機という文明の利器を操ってはいりこんでみたいとは、芸術家が、普通の人々にくらべていっそう強く、その胸のなかに持っているねがいであろうからです。」と強調しています。同じ見方をするなら、「星の王子様」を書いたサン・テクジュペリがパイロットであったことを思い出す人も多いと思います。足穂自身、1919年3月、関西学院中学部を卒業した後、東京・蒲田の日本自動車学校に入学してパイロットを目指すのですが、事情があって断念、自動車の甲種免許を取得して卒業します。少年・足穂を空の世界に駆り立てたのは、1913年5月4日の武石浩玻の飛行機での墜落死でした。その衝撃が足穂を幻想作家に成長させました。幻想作家といえば宮沢賢治(1896-1933)を思い出す方もいると思いますが、賢治の「グスコーブドリの伝記」には「玩具(オモチャ)ような小さい飛行船」が登場します。幻想作家を育む要因の一つとして、急速に発展した飛行機の世界があったことは間違いありません。
 武石浩玻は、1884年、茨城県水戸市に隣接する勝田(現在のひたちなか市)に三男として生まれ、水戸中学校を卒業した1902年3月に単身横浜に出て、船員になろうと、最初上海航路に、ついで欧州航路の船に乗り、一旦日本に戻り、翌年アメリカに渡り、飛行機の国際免許を取得して1913年4月帰国。大阪朝日新聞社の企画する鳴尾-大阪-京都を往復する「都市連絡飛行」に挑戦しましたが、二日目の5月4日、京都・深草練兵場で墜落して亡くなりました。国内での日本人民間パイロットの最初の犠牲者ということもあり、その死は日本中に大きな衝撃を与え、その後の飛行機ブームの一要因となりました。

 
 

武石浩玻の日記

 武石浩玻(写真1)の死から百年、浩玻の遺族のお宅に浩玻の日記が存在することが分かりました。その一部はすでに稲垣足穂が公表し、『ライト兄弟に始まる』(1970、徳間書店)に収録されております。足穂の秘書のような役目をしていた松村実氏が日記の借用と返却の労を担い、同書に、浩玻の墓地訪問記と記念碑の碑文の復元を発表しております。

 
 

写真1 アメリカで撮影された武石浩玻
 
 

 浩玻没後百年の2013年は、日本航空協会(帝国飛行協会)創立百年でもあり、同年12月から翌年1月まで上野の国立科学博物館で記念展示「帝国飛行協会と航空スポーツ」が開催され、『飛行機全書』の原稿、河童の絵で有名な小川芋銭が浩玻追悼の意をこめて描いた「風児」一幅、与謝野寛の浩玻追悼詩の原稿なども展示されました。一方、水戸市立博物館では、2015年2月から3月にかけて「特別展あこがれの空へ民間パイロットの先駆け武石浩玻」が開催されました。日本航空協会にはそれ以前に『飛行機全書』(後述)の原稿と浩玻が撮影したと思われる写真のネガが遺族から寄贈されており、ホームページで公開されております。(航空遺産継承基金ギャラリー http://www.aero.or.jp/isan/isan-gallery.htm)
 武石浩玻の日記は中学生時代から在米中まで書き続けられていたようですが、現在確認できるのは、(A)ノートに書かれた1901年10月から翌年8月までの一冊、(B)『明治四十年当用日記』(博文館発行)に書かれた1907年1月から12月までの一冊(写真2、3)、(C)『武石浩玻在米日記』と表書きのある1908年11月から1912年2月までの一冊、都合3冊です。『米国日記』には、(A)の1902年3月18日から同年8月まで、(B)と(C)はその全部を収録し、本文の主な箇所に簡単な注を付け、浩玻が写真愛好家であり、彼の周囲にロサンゼルスで歯科医を開業する高木梅軒や従兄弟の海野幾之助などの同好者がいたことも考慮して、残されている写真を中心に百四十点ほどの図版を挿入しました。
 三冊の日記の読みどころ紹介しながら、浩玻の軌跡を辿ってみたいと思います。(A)=1902年3月19日、浩玻は早朝家を出て那珂川を船で渡り、予約していた人力車に乗り、高台に建つ水戸中学の景色を眺めながら「ああ水戸中学。我は再び後入る能わずと思えば、慕しさなつかしさ、ああその松、杉、まして予の好める一本梅、わが教室なりしはいずかたぞ、など、冥想に冥想を生みつつありし間に、水戸停車場にて、五時五十分の一番列車にて水戸発。」と記します。前日までに、友人や親類などと離郷の挨拶は終わっていたとはいえ、寂しい旅立ちでした。門口に見送ったのは父一人でした。それから品川の海員取扱所の紹介で横浜の船員斡旋所の宿舎にたどり着き、臨時のボーイを志願し、ひたすら求人を待ち、4月9日、上海航路の日本郵船所属の神戸丸に乗船がかないます。目標である欧州航路の神奈川丸に転船したのは6月10日でした。横浜 - アントワープ間を往復して9月に日本に戻り、志望を替えて1903年4月、今度はアメリカに向います。勉強して文学で身を立てようと思ったのでしょう。その時、それまで書き溜めた日記やノート類は携行したと思われます。功ならずして家に戻らず、との覚悟でした。立身出世の時代風潮の中で、実家を継ぐ立場にない男児としては、もっともな判断と思います。
 (B)=アメリカ上陸後三年余を経て、1906年10月、浩玻はロサンゼルス中心の生活を始めますが、生活費を稼ぐだけの毎日でした。大学に入って勉強を続けるのか、文学者への道を進むのか目標が定まらなかったようです。さしあたりお金が必要です。思いついた商売が行商でした。今で言う訪問販売です。ロサンゼルスで日本製の陶磁器類の仕入れをしてテキサス州から東に向かいます。輸送手段も限られ、持ち歩く時の不便な、壊れ物の陶磁器類をメインとした商品を選んだ浩玻のセンスは、商売に向いているとは思われません。それにも関わらず思いついた目標に突き進むのが浩玻の性格でした。12月に入りとうとうルイジアナ州のニューオーリンズで行商は行き詰ります。残った商品を日本人の商店に買い取ってもらい、何人かの友人から借金をして、翌年1月ニューヨーク行きを決断します。師走の日記で、これまでの自分の生き方を分析し「予は執着心がないからいけないと、友のある者が言ってくれたが(略)その天性が年をとるにしたがって(略)明らかに地金をあらわしきたのだろうか。(略)これが予の天性である。どう思ったとて感じたとて、まったく予の勝手だ。」などと綴り、再出発に向けての決意を述べていますが、気移りする性格は、浩玻を定まらない生活に向かわせます。
 (C)=1908年11月1日、コネチカット州のニューヘイブンにおける生活から始まっています。ニューヨークにおけるクック(料理)の生活に失敗した後、同地で同じクックの生活を始めたのです。クックがメインではなく、働きながら学ぶスクールボーイの契約であったのかも知れません。冒頭に「南に坂を下りて、Yale 大学の建物あまたあるところに出ず。(略)昔、『中学世界』などを愛読せし時代、いかに余はこの大学の名にあこがれたりしぞ。今、この New Haven に来たって、卑しき労働に従事することほとんど一箇月、辛うじて Yale の外観を見たるも、ああ、われながら衰えたるよ、何らの感想胸に湧き出ずるなし。乾きはてたる心よ。あわれなる身の上よ。」とあります。渡米後、サンフランシスコで有名なローウェルハイスクールに入って優秀な成績であったにかかわらず、なぜか二年で中退しています。経済的な事情のあったことは間違いありませんが、大学進学への意欲が日記を読む限りはっきりとは見えてきません。日本人に対する俳句指導を続けながら、農場の手伝やハウスワーク(家事手伝い)などの仕事で収入を得て、その日暮らしの生活を送る日々が続きます。

 
 

写真2 『明治四十年当用日記』の表紙(水戸市立博物館所蔵)

写真3 1907年10月8日の日記(水戸市立博物館所蔵)
 
 

 1909年4月、浩玻は、邦字新聞『絡機(ロッキー)時報』を経営する飯田四郎からの度重なる招請を受けて、ニューヨーク、シカゴを経て、発行地であるユタ州の州都・ソルトレイクシティー(日記には「塩湖市」とある)に到着し、同紙の主筆になり、社説をはじめ広く執筆活動を展開します。ソルトレイクはモルモン教徒が拓いた町で、周辺を含めて日本人が増えており、住み心地も悪くなかったようです。『絡機時報』は1907年9月創刊されたこの地方唯一の邦字新聞で、1923年、後発の『ユタ日報』に吸収されました。『ユタ日報』の一部は復刻されるなど、研究者の間で注目されている新聞です。『絡機時報』もそれに勝るとも劣らない新聞と思いますが、実物がまったくと言っていいほど残っていないので、評価の対象になっておりません。実物が出現すれば、浩玻の言説の価値が改めて認められることと思います。
 ところが滞在九ヶ月、1909年12月、浩玻はソルトレイクを離れ、ロサンゼルスに戻ります。行商の出発地に戻ったのです。浩玻はアメリカに永住する気はなく、成功者として日本に帰ることを内心考えていたと思います。覇者として帰国する具体的な方法を模索し始めたのです。そして、最終的に選んだのは、飛行機の研究でした。その第一歩として『飛行機全書』(最初の書名は『空中飛行機』)の日本における刊行でした。原稿は送りましたが、刊行には至りませんでした(刊行は死の直後、1913年9月。写真4)。そこで作戦を変更して、パイロットの免許を取って飛行ショウなどで賞金を稼ごうとしたと思われます。(C)には、新しい飛行機の構造に関する記述が丹念に書きこまれています。最終目標について、1910年4月2日の日記に「望みは飛行機にある。武石式飛行機の patent を受け、飛行機に関する著書を公にした暁においては、皆これ(著者注:金銭的な苦労のこと)昔の夢となるのであろう。」と記しています。浩玻の根幹をなす考えと思います。この日記は、アメリカ西海岸における飛行機ブームの渦中にいた、日本人の貴重な記録でもあります。稲垣足穂は『飛行機全書』の専門的レベルが思ったより高いと感想を述べていますが、その辺の客観的な判断は飛行機研究のプロの方々に是非検討してほしいと思います。

 
 

写真4 『飛行機全書』
 
 

アメリカ西海岸における飛行機熱

 武石浩玻の飛行機に関する知見は、飛行機関連の文献をひたすら入手に努め、それらを徹底的に読み込むことによって得るしかありませんでした。継続的に読んでいた雑誌は、アメリカで発行のものだけでなく、フランスなどヨーロッパからも取り寄せ、十種類に及びます。単行本は、1909年ニューヨークで発行された The Conquest of the Air と1909年シカゴで刊行された V. Lougheed の Vehicles of the Air を入手し、この二書によって浩玻の飛行機の知見は飛躍的に高まったと思われます。特に高価な後者は飛行機の構造、設計等が写真入りで詳しく書かれており、浩玻が最も参考にした専門書と思います。前者の著者を『米国日記』では気象学の A. L. Rotch としましたが、同年、ニューヨークで航空学の A. Berget も同名の本を出していますから、あるいは Berget の方かも知れません。Rotch 本の全タイトルは The Conquest of the Air, or, The Advent of Aerial Navigation です。Berget 本のそれは The Conquest of the Air, Aeronautics, Aviation; History, Theory, Practice です。
 武石浩玻の飛行機熱を実際の行動に駆り立てた最大の要因は、アメリカの空を自在に飛ぶ飛行機を繰りかえし見たことでした(写真5)。天候の比較的に安定していた南カリフォルニアは、飛行には格好の土地でした。1910年1月10日~20日、第一回国際飛行大会がロサンゼルス郊外、ロングビーチに近いドミンゲス飛行場(Dominguez Field)で開かれることが分かりました。浩玻は1月10日の日記に「飛行してみたくてやりきれぬ。」と書き、翌日、金井重雄等の友人と連れ立って見物に出かけます。ポーラン(Paulhan)やカーチス(Curtiss)という有名なパイロットの飛行技術には感心しますが、他のパイロットの腕には、「予が二三日修練すれば必ずや彼ら以上になれると思った。」と辛らつな言葉を記し、自信のほどをみせています。ポーランはフランスを代表するパイロットの一人で、この時の国際大会で高度と飛行距離で優勝しています。カーチスはライト兄弟と覇を競ったアメリカを代表する航空界のパイオニアです。

 
 

写真5 武石浩玻が残したネガの一枚(撮影日時、場所とも不詳)
 
 

 1910年10月22日、23日の二日間、カリフォルニア飛行クラブ(Aero Clubof Cal.)が開設したばかりのロサンゼルスのモータードローム(Motordrome)で、大陸横断飛行競技会の予選会を開きました。賞金は5万ドル。浩玻は見物に行きましたが、内容は納得できるものではありませんでした。
 同じ年の12月22日、フランス飛行界の先駆者といわれるラタム(Latham)が、アントアネット(Antionette)式の単葉機に乗って、浩玻の住むスメルザ(Smeltzer)近くのガンクラブ(Gun Club)に正午に飛来しました。空中で発砲してカモを打ち落とすなどの妙技を見せた後、畑に着陸し、二時四十分には飛び去っていきました。その雄姿は、浩玻に飛行機をより日常的な身近なものに感じさせました。浩玻は日記に「羨ましかった。彼の趣味ある飛行を見たもの、日米両国人あわせて数十人にすぎなかった。」と感慨を記しています。このラタムは、稲垣足穂が『飛行機物語』で「詩人・ラタム」と名指しした人です。浩玻の住んでいたスメルザは、ロサンゼルスの南東、オレンジ郡(Orange Co.)に属し、当時、ハンチントンビーチ(Huntington Beach)から鉄道も引かれており、徒歩でも一時間余の距離で、隣接するウィンタースバーグ(Wintersburg)とあわせて農業に従事する日本人が多くおりました。後に日本に凱旋する武石浩玻に飛行機を提供したスメルザ飛行会の出資者(出資金は4000ドル)の多くはこの地域に住む日本人でした。
 ドミンゲス飛行場は、飛行会や飛行学校に利用され、練習風景もよく見られたようです。星野米三(初期の民間パイロットの一人)が1913年2月、免許を取ったスロン飛行学校もここにありました。1910年12月31日にも浩玻は飛行会の見物に行っています。ライト式、カーチス式、ブレリオ式、アントアネット式などの機体を実際見ることが出来ました。この時、夜間飛行に初めて成功したホクシー(Hoxsey)が、高度記録に挑戦中に墜落死しました。同じ日、モアザン(Moisant)がルイジアナ州のニューオーリンズで、着陸直前、機外に投げ出されて亡くなったことを後でしります。ニューオーリンズはかつて行商中に滞在したことのある都市です。二人の最期は、パイロットか常時直面する「死」を浩玻に実感させました。
 第二回国際飛行大会はシカゴであったため見ることは出来ませんでしたが、第三回は再びドミンゲス飛行場で、1912年1月20日~28日開催されました。この頃浩玻は、どこの飛行学校に入るか決断しつつありましたので、見物にも熱がこもっていました。1912年1月12日、18日、19日、21日、28日と通ったことが日記から分かります。正式な飛行会が始まる前に、準備の練習飛行が連日行われていたのです。この飛行会では、マーチン(Martin)、スコット(Scott)、パーメリー(Parmelee)、クック(Cooke)等、アメリカを代表する多くのパイロットが集いました。スコットはアメリカの初期を代表する女性パイロットです。この飛行会では、免許取得で必須の8の字飛行の競技(figure 8 contest)も見ることができました。
 飛行学校入学で一番の問題は経費でした。色々可能性を探った結果、経費も安くカーチス式が気に入っていたこともあって、サンディェゴのノースアイランド海軍基地の一郭にあったカーチス飛行学校に決めました。経費は14日間500ドルでした。750ドルを提示した飛行学校もありましたから、飛行環境を考えた場合、高くはなかったと思います。郷里の兄・如洋を初め、友人・知人の日本人からの借金でまかないました。1912年2月から5月まで在学し、近藤元久(1912年10月6日にアメリカで事故死して、日本人最初の航空事故犠牲者になる)についでアメリカにおける日本人の国際免許取得第二号となりました。『米国日記』は近藤やカーチスと会った記録の残る貴重な資料です。

 
 

武石浩玻の文学

 民間パイロット・武石浩玻の人となりを知るためには、浩玻と文学との関係を知ってほしいと思います。中学時代から同人誌を出し、近松門左衛門の作品を読破し、兄・如洋の影響で俳句に親しみ、短歌や詩も試みていた浩玻は、渡米後、アメリカ西海岸で俳句指導にかかわり、サンフランシスコやロサンゼルスの邦字新聞や雑誌類に盛んに作品を発表する一方で、故国の雑誌にも投稿を続けました。全国区の雑誌としては『文庫』や『新声』で作品が採用されています。与謝野寛・晶子夫妻主宰の『明星』にも短歌が載りました。『ホトトギス』には、本欄には採用されておりませんが「地方俳句界」のアメリカの俳句結社を紹介した欄に何度も載りました。兄・如洋やアメリカにおける俳友であった菅沼節(俳号は官召郎)の作品は本欄に載っておりましたので、悔しい思いをし、文学的才能の欠如を嘆く記述が日記に散見されます。
 公表された浩玻の作品を幾つか紹介したいと思います。1905年12月号の『ホトトギス』に「(フレズノ公園)夏の月サボテンの影草に落つ」とあります。フレズノはサンフランシスコを出た後、農園の手伝いをしながらターピー吟社を指導していた場所です。1906年3月号の『明星』には「在米武石天郊」との署名で「永き日や駱駝のむれに首あげて運河の岸の船をながめぬ(スエズ運河)」など10首の短歌が載りました。1902年の欧州航路の体験を詠んだものです。1905年6月号の『文庫』にも、「仰ぎ見るアクロポリスの丘の上に朝日栄えたるパセノン(著者注:パルテノンのこと)の堂」などと古代ギリシアを詠んだ歌が載りました。こうしたテーマは、土井晩翠や与謝野寛の影響と思われます。新体詩でも同様のテーマを叙事詩風に詠っています。1906年3月号の『新声』に「羅府西湖公園吠ゆる犬海豹(あざらし)吼ゆる日永かな」などが上位に入選しております。この海豹のいたロサンゼルスの公園は忘れがたいものだったらしく、ソルトレイク南方のガーフィールドで浩玻の指導の元に結成されたワサッチ吟社の同人句集『青鞋(あおわらじ)』(1911)に寄せた詩にも「思い出-再び羅府西湖公園を過りて」と題して「四ときまえここを過りて/囚われのあざらしの身に/わが心いたく痛まし(後略)」と詠いました。異郷をさまようわが身を陸の池に囚われいつの間にか姿を消した海豹に重ねて共感を表しているのです。『青鞋』は、明治期にアメリカで発行された現在確認できる唯一の句集で、最近盛んになった日本人の外地における表現活動(移民文学を含む)研究史上にとって貴重な発見となりました。
 1913年3月、サンフランシスコから日本に向けて出港するとき、如洋宛に投じた手紙の中に「いまさらに老いたる父母に涙をば濺(そそ)がしむべくかえる我かな」とありました。一種の辞世の歌と受け取ることもできると思います。

 
 

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