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1 航空黎明期の日仏交流フランス航空教育団(仏国航空団が正式な名称であるが、ここではそのミッションが明確なフランス航空教育団の呼び方を用いる)が来日し、2019年(平成31年)は100年目にあたるが、2018年(平成30年)は「日仏修好通商条約」が締結されてから160周年にあたり、これを記念した様々な行事が催された。同条約は1858年(安政5年)に徳川幕府がアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとそれぞれと結んだ安政五カ国条約の一つである。これによる開国後、徳川幕府はナポレオン3世(Napoléon Ⅲ)による軍事顧問団を受け入れ、陸軍の近代化を行った。明治政府に対しても、第二次軍事顧問団(1872~1880年:明治5~13年)、第三次軍事顧問団(1884~1889年:明治16~21年)をフランスは派遣し、陸軍および海軍の近代化に貢献した。フランス人に関連する航空の興味深いエピソードとしては、1872年(明治5年)に明治天皇が横須賀造船所への初行幸の際に、伝習生が行った気球の飛揚を見学したことが挙げられる[1](図1)。この気球の作成指導は、熱気球の飛揚をヴェルサイユ宮殿で国王ルイ16世(Louis XVI)に披露し、有人飛行への道を開いたモンゴルフィエ兄弟(Joseph et Étienne Montgolfier)の子孫にあたるエミール・ド・モンゴルフィエ(Émile de Montgolfier)によってなされた。エミールは横須賀造船所に会計課長として赴任し、日本にフランス式の近代経理帳簿を伝えた。 |
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日本の航空に関与した次のフランス人は、1909年(明治42年)に上野不忍池の周回路でグライダーを自動車の曳航により日本で初めて飛行させたル・プリウール(Yves
Paul Gaston Le Prieur)海軍中尉である(図2)。彼は、在東京フランス大使館付武官であった際に、航空技術に熱中し、相原四郎海軍大尉、田中舘愛橘東京帝国大学教授の協力を得て複葉のグライダーを日本で製作し、この飛行を成功させた(図3)。欧米での航空機開発の情報は日本にも伝わり、政府は「臨時軍用気球研究会」を1909年(明治42年)に発足させ、相原大尉と田中舘教授はそのメンバーでもあった。同研究会は1910年(明治43年)になると、陸軍の徳川好敏大尉、日野熊蔵大尉を欧州に派遣し、徳川大尉はフランスのエタンプ(Étampes)にあるアンリ・ファルマン(Henri
Farman)飛行学校に入学し、11月8日に飛行操縦免許を交付された(図4)。フランスで購入したアンリ・ファルマン機を徳川大尉は12月19日に代々木練兵場において、ドイツからグラーデ機(Grade)を購入した日野大尉とともに日本初の動力飛行を成功させた[2]。
こうした飛行機の導入により、海外で操縦ライセンスを取得する民間の日本人も多く出現するようになる。フランスとの関係では、バロン滋野こと滋野清武(1882~1924年:明治15~大正13年)が有名である。滋野清彦男爵の三男として生まれた滋野清武は、音楽家を目指し、妻和香子を亡くした後、1910年(明治43年)に渡仏し、パリの音楽学校に入学するが、飛行機に興味が移り、フランスの航空学校で操縦免許を取得した。その後、自作の飛行機「わか鳥」号ともに帰国するが(図7)、1914年(大正3年)、再度渡仏した際に、第一次世界大戦が勃発し、フランス陸軍に志願し外人部隊第1連隊に入隊後、「こうのとり飛行大隊(Escadrille des Cigognes)」として有名な第12飛行大隊に所属し、日本航空史上最初のエース・パイロットとなった[1]。
2 フランス航空教育団の来日第一次世界大戦により日本政府は航空戦力の重要性をさらに認識することとなった。1914年(大正3年)7月28日に第一次世界大戦が勃発すると、日本は同盟国としてこれに参戦し、陸軍はモーリス・ファルマン4機(図8)、ニューポール IV-G(NieuportIV-G)1機を、海軍はモーリス・ファルマン水上機4機を参戦させ、中国青島のドイツ租界を攻撃し、陥落させた。ただし、日本の航空戦力が欧米に後れを取っていることは、明らかであった。1917年(大正6年)に開催された陸軍の大演習において、所沢から琵琶湖畔へ14機のモーリス・ファルマン機が飛行したが、数機しか到着せず、演習中にも事故が発生した。陸軍はこの事態を分析し、体制強化とともに、最新の外国機の購入および、人員の海外派遣を推進する方針を打ち出した[3]
上記の方針に基づき、日本政府は飛行機100機を含む購入を1918年(大正7年)にフランスに打診した。フランス政府はこの打診の回答を7月に行い、大戦中のため規模は限定されるが、サムルソン機30機、繋留気球7基をそれぞれ2回に分け供給可能であることを示した。また同時に、最新の航空機の使用を指導するために指導員も派遣することを申し出た。日本政府は招聘費用を懸念したが、フランス政府は指導員の一切の費用を自ら負担することも約束した。当時のフランス総理大臣兼陸軍大臣ジュルジュ・クレマンソー(Georges Clemenceau)は、後にパリ講和条約の日本全権大使となる西園寺公望と、彼がパリ留学時代に同じ下宿で過ごした親友であり、さらに、1917年(大正6年)、ロシアで革命が勃発した際に、フランスは日本にシベリア出兵を依頼した経緯もあり、第1次世界大戦終結前にもかかわらず、日本への航空教育団(以下、教育団と表記)の派遣に理解を示したと考えられる。ただし、教育団の派遣にあたっては、フランス政府は、イタリア人、イギリス人、アメリカ人を除外し、日本にフランス製軍用機を多数購入することを希望した[1]。 航空教育団の団長には、ジャック・アンヌ・マリー・ヴァンサン・ポール・フォール(Jacques Anne-Marie Vincent Paul Faure)中佐が任命された(図9)。フォール中佐は、フランス中央高地に位置するクレルモン・フェラン市(Clemont-Ferrand)に生まれ、パリのエコール・ポリテクニーク(École polytechnique理工科大学)を卒業後、砲兵連隊長を経て、軍事航空局に入り、飛行中隊長となり、第一次世界大戦中に第207砲兵連隊にて中佐に昇進していた。8月25日付けで団長に任命された後、9月より具体的な人選に入った。パイロットのほか、軍事技術、航空機製造、整備など多岐にわたり、補充員も含め総勢63名に達し、第一弾の41名は11月24日に、日本政府が購入した機体、エンジンとともにマルセイユを出港した。ドイツと連合軍の休戦協定が1918年(大正7年)11月11日に締結されたわずか13日後の出発であった。
日本での航路途中の上海では、日本政府が派遣した日本郵船の第二山城丸が出迎え、1月12日に長崎(図10)、13日に門司を通過し、14日神戸で団員らは下船し、大きな荷物は横浜まで船で運ばれた。神戸のホテルで歓迎式典が開催された後、1月15日朝に汽車で東京に到着した。東京では臨時航空術練習委員長の井上幾太郎陸軍少将が出迎え、一行は、帝国ホテル、築地の精養軒、東京駅ステーション・ホテルに分宿し、一連の歓迎式典が行われた。主なものは、1月19日フランス大使館昼食会、1月27日団長と士官による大正天皇謁見、1月30日暁星学園歓迎式、帝国飛行協会主催晩餐会(築地精養軒)であった[1](図11)。
臨時航空術練習委員は、田中義一陸軍大臣の命により教育団との交渉のために1918年(大正7年)12月12日に井上幾太郎少将を委員長として発足されていたもので、芝愛宕山の愛宕ホテルに本部を設置し、フォール中佐以下士官クラスが常駐し、教育内容を取り決めるための協定書作成に取り掛かった[3]。その結果、教育団は八つの教育班に分かれ、表1に示すように日本の各地でほぼ3カ月間にわたり教育を実施することが計画された[3]。その間、第2弾の9名が1月23日に、第3弾の1名が3月7日に日本に到着し、各地で訓練が開始される。そして4月25日にはフォール中佐の要請にて海軍から派遣されたピエール・ル・クール・グランメゾン大尉(Pierre Le Cour Grandmaison)が到着し、1919年(大正8年)6月30日から約1ケ月間、追浜にてテリエ(Tellier)水上機を使った演習と講義がなされた。また、6月30日より9月3日までの間に補充員11人も教育団に加わっている[1]。
各練習場の状況と、使用された機材を以下に整理する[1] 1) 各務原(岐阜県) 1876年(明治9年)に陸軍第3師団砲兵演習場が設置された各務原には、1917年(大正6年)に、陸軍飛行場が開設され、翌年には所沢陸軍飛行場より航空第2大隊が移設された。単座のニューポール81E2、83E2、複座の82E2、83E2が14機練習用に、また、単座のスパッドXⅢC1(SpadXⅢC1)2機、ソッピース1½(Sopwith 1½)5機が演習用に組み立てられた。エンジンの組み立用作業場では、ル・ローヌ(Le Rhône)80馬力、クレルジェ(Clerget)130馬力、イスパノ・スイザ(Hispano-Suiza)140、220馬力のエンジンが準備された。爆撃、偵察用に後に、ニューポール83E2、サルムソン(Salmson)2A2が使用された(図12~15)。
(2) 下志津(千葉県) 千葉県印旛郡の陸軍野戦砲兵射撃学校とその近隣にある下志津陸軍演習場を利用して、空中偵察、射撃観測、無線通信、写真等の教育がなされた(図16)。航空機としては、日本でライセンス生産されたダイムラー100馬力搭載モーリス・ファルマンが使用された。
(3)浜名湖(静岡県) 1919年(大正8年)、新居町中之郷大正浜に海軍の臨時航空術練習委員新居射撃場が新設され、空中射撃術が教育された。使用された機体はル・ローヌ80馬力搭載ニューポール、ベンツ(Benz)100馬力搭載モーリス・ファルマン水上機(図17)、イスパノ・スイザ180馬力搭載テリエ、クレルジェ130馬力搭載二座式ソッピースであった。
(4)三方ヶ原(静岡県) 後に浜松陸軍飛行学校の分飛行場が設置される三方ヶ原では爆撃術の教育が行われ、クレルジェ130馬力搭載のソッピース1½が3機、リバティー300馬力エンジン搭載のブレゲー14B2(Bréguet14B2)が2機(図18)、ダイムラー100馬力搭載モーリス・ファルマン1機が使用された。
(5)東京砲兵工廠(東京都) 小石川の旧水戸藩邸跡に建造された東京砲兵工廠は、1871年(明治4年)に操業し、1879年(明治12年)にその名称となった。ここでは、航空機の機体とエンジンに関して、理論のほか、材料の検査、製造上の検査などの教育がなされた(図19)。
(6)所沢(埼玉県) 1911年(明治44年)、日本初の陸軍飛行場として開設された所沢では、気球に関する教育と、機体製作に関する教育がなされた(図20)。機体製造に関しては、サルムソン2A2、ニューポール24C1に関する製造、量産方法が教育された。1919年(大正8年)末には2日に3機の割合で機体製造が可能になった。
(7)熱田(名古屋) 1904年(明治37年)、東京砲兵工廠熱田製造所が熱田に設置され、1918年(大正7年)よりモーリス・ファルマン式飛行機の製造がなされていた。この熱田製造所においてサムルソン230馬力エンジンの製造工程の教育がなされた。1919年(大正8年)末には、日産1台のペースでエンジンが生産されるまでになった。 当初の予定にはなかった教育として、「水上機取扱特別班」、「軍用鳩研究会」の項目が追加され、前者は、所沢と神奈川県追浜、後者は東京中野で実施された[4]。教育プログラムの内容はこのように非常に充実したもので、1919年(大正8年)8月末で教育団の任務は終了する予定であったが、日本政府はその延長を要請し、残留団員の費用は日本の陸軍省が負担することとなった。その結果、1920年(大正9年)3月末までの残留に関する協定がなされた。なお、フォール中佐は日本滞在中の1919年(大正8年)9月13日に大佐に昇進している。 1年以上にもわたる教育団の活動は、教育プログラムも充実し、日本各地で行われたことが分かる。ただし、生活習慣、気候、組織の違いは大きく、フランスとの連絡も手紙がベースであったため、初期の歓迎ムードが収まると次第に不都合が露呈したようである。原因は不明であるが、フォール大佐補佐役のルイ・オーグスト・ラゴン少佐(Louis Auguste Ragon)が、8月に宿泊先の横浜のホテルでピストル自殺するという事件もあった[3]。さらに、滞在中には、団員からの不平の声も出たようであり、実態の調査が行われ、10月には調査結果が公表された。内容は、日本側の機材や設備が不備なこと、意思疎通の困難なことが指摘された[1]。 こうした軋轢はあったものの、その成果は大きなもので、1920年(大正9年)4月8日付フォール大佐の最終報告書では「教育上の観点から見れば、使節団の目的は楽観的な予想さえも凌ぐほど見事に達成された」[1]とある。ただし、当時の日本の実情に不満を漏らすこともあり、1920年(大正9年)2月4日付報告書には「日本人の工員は、確かに手先はとても器用であり、…機械工学的見地から言えば、工具の教育が不十分で、生産性は低く、人数も足らないため製造作業は遅々としている」と記されている[1]。また、1919年(大正8年)11月の書簡では「操縦教育では熱意が不足し…専修員の年齢が高いこと…」、「機関工術教育を受けた兵卒には技術的素養がなく…過失が頻発した」、「空中射撃教育の専修員…射撃の重要性に対する認識を欠き、熱意が不足…」[5]など大戦を経験した経験豊富な教師陣の熱意と、当時の日本人の意識の違いが見て取れる。 フランス航空教育団の一行は、徐々に帰国するが、最終的に1920年(大正9年)4 月12日、アメリカ経由で帰路についた。それに先立つ3月9日、田中陸相は後楽園の涵瀾亭に一行を招待した。また、帰国前にフォール大佐は、勲三等旭日章に叙され、一行も叙勲の栄典をうけた。フォール大佐は、フランスに帰国後も活躍し、准将に昇進するが、1924年(大正13年)の夏に入院し、8月24日に病死した。日本政府は入院中の8月17日に彼の功績に対して勲二等瑞宝章を授けた。 |
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3 フランス航空教育団の航空産業への影響教育団の影響は、フランス製機体、エンジンのライセンス生産が国内民間企業で活発になったことにも及んでいる。主なものを以下に示す[1]。◦川崎造船所 川崎造船所は川崎正藏の個人経営が1896年(明治29年)に株式会社となり、サルムソン2A2を1918年(大正7年)に2機購入し、その後、政府の命によりライセンス生産を開始し、300 機以上が製造した。 ◦三菱内燃機 三菱は神戸内燃機関製作所を1920年(大正9年)に名古屋の大江に三菱内燃機製造として独立させ、翌年、名古屋製作所が完成し、三菱内燃機となった。本格的な生産はイスパノ・スイザエンジンであり、200馬力は1919年(大正8年)に第1号機が完成し、154基生産、300馬力は710基生産された。機体に関しては、ニューポール81E2を1922年(大正11年)から57機ライセンス生産。ロレーヌ・エンジン搭載アンリオ(Hanriot)HD-14E2を1924年(大正13年)から140機生産した。 ◦中島飛行機製作所 中島は中島知久平が1917年(大正6年)に「飛行機研究所」を設立し、1918年(大正7年)に中島飛行機製作所となった。1923年(大正12年)からニューポール83E2を40機、ニューポール29C1を608機ライセンス生産した。 ◦東京瓦斯電機工業 東京瓦斯会社の機械部門が1910年(明治43年)に東京瓦斯電気工業として独立してエンジンなどの鋳鋼製品に進出した。ル・ローヌ80~120馬力エンジンを1922年から生産した。 こうした航空機産業の発達は、英国、米国、ドイツとの関係も深め、多様化したこともあり、フランスとの関係は局部的なものとなっていくが、フランス航空教育団が揺籃期の日本の航空利用、航空機産業に多大な影響を与えたことは間違いない。フランス航空教育団来日100年にあたる2019年(平成31年)には、エアバス社(Airbus)の大型機A380また、新鋭機A350XWBを日本の航空会社が就航を予定している。また、ここ数年、日欧の共同研究プログラムが航空分野でも活発になっている。歴史を振り返ることは回顧に浸るだけではない.「過去は未来を見通す現在の鏡である」という。新たな日仏の航空の将来につながる契機になることを祈念したい。 おわりに2019年(平成31年)がフランス航空教育団来日100年に当たることもあり、一般財団法人 総合研究奨励会内に実行委員会を組織し、記念事業を企画している。フランス側事務局長のアルクエ氏(Patrick Arcouët)は、祖父が教育団の一員として来日し、日本人女性と結婚もしたという経歴がある。氏の尽力で来日団の末裔6家族が明らかになり、その来日も記念事業として予定されている。詳しくは実行委員会Twitter[6]で紹介予定である。参考文献 [1] Christian Polak(著)、在日フランス商工会議所(CCI France Japon)(編集)、「筆と刀、日本の中のもうひとつのフランス1872-1960(Sabre et Pinceau pard’autres Français au Japon)」、在日フランス商工会議所、2005 [2]鈴木真二、「飛行機物語─航空技術の歴史」、筑摩書房、2012 [3]日本航空協会、「日本航空史(明治・大正編)」、日本航空協会、1956 [4]防衛省防衛研究所所蔵資料、国立公文書館所蔵、航空団の叙勲に関する資料(フランス航空教育団に関する日本公文書館、防衛省防衛研究所、アジア歴史資料センター収蔵各種資料は「航空団」の見出語で検索可能である。) [5]フランス防衛省空軍資料館、日本との関係、フランス遣日航空軍事教育使節団(1918-1920)フォール大佐の1919年11月報告書 [6]実行委員会Twitter フランス航空教育団@cMiyNjXtnZTYZF9 |
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