1. はじめに
児童・学生などに対して、模型飛行機を学校で教えた国がありました。第2次大戦前・中のドイツや日本、戦後の旧ソ連圏などです。
このような国・公営の模型飛行機教育の始まりは、ドイツの第1次大戦の敗戦時までさかのぼります。ドイツの優秀な空軍力に悩まされた連合国は、このときに締結したヴェルサイユ条約(1920)に徹底した航空禁止条項を織り込みました。
ドイツは、条約内で僅かに許されていたスポーツ航空の振興によって、自国の航空技術の維持を図りました。レーン地方でグライダーの開発・訓練が開始され、その遺産として現在のドイツは世界一のグライダー大国になっています。グライダーの訓練は15歳くらいから始めます。それ以下の年齢の児童の予備訓練としては模型飛行機の教育が充てられました。内容は模型グライダーの比重が大きく、凧揚げ式曳航法や、斜面上昇気流、サーマルの利用など、現在も使われている技術が多く開発されました。
1930年頃までには、グライダー訓練開始年齢までの学童に対する模型飛行機教育の学年別課程、飛ばす場所、指導者の養成機関、少年団などによる補完システム、全国大会を頂点とする競技会システムなどが整備されました。
「航空技術」には軍事目的も含まれていたわけで、第2次世界大戦のドイツ空軍のエース・パイロットが何人も、この教育システムから生まれています。
<図1>
1940年頃のヒットラーユーゲント(少年団)と模型飛行機(1)
丘陵地のグライダー飛行場所を使った、中型模型グライダーの手投げ発航
当時の世界情勢の流れから1930年代後半に日本もこのシステムを導入しました。1941年から実施され、1945年までに学童モデラー1000万人くらいを育成しました。
日本では、国(文部省)による模型飛行機教育を国民学校の科目として行いました。育成された多数の学童モデラーは、戦後の断絶にとって1965年頃には大部分が消滅しました。しかしながら、短期間であっても国などの大きな組織で模型航空を推進した結果、高い水準の参考書や文献、訓練された指導者などが遺され、戦後の模型界に与えた影響は大きいのです。
<図2>文部省が行った模型飛行機指導者の講習会(昭和19年 熊本)
今日的な目で見ると、この膨大な年少者の模型飛行機人口はバブルです。
当時は航空技術が急伸した時代であり、頻繁に新型機が発表され、少年の興味が航空に集中するという背景がありました。そして戦時でもあり、国のニーズとして模型飛行機を利用して学童に対して科学・軍事教育を行なったのです。このように、特定のホビーやスポーツを、国が学校教科に入れてまでして推進・振興する例は極めて稀です。
模型飛行機の国営教育は、第2次大戦時の独、日に止まらず、戦後に旧ソ連圏でも行なわれています。1950年代の模型航空世界選手権競技では、旧ソ連をはじめハンガリー、ポーランド、ルーマニア、などが好成績を挙げ、技術的にも先進的でした。時代が下り1970年以降になると、中国、北朝鮮なども台頭しています。
2.第二次大戦前のドイツと日本の模型航空教育
第二次大戦前のドイツでは、10歳くらいから模型飛行機の製作と飛行と原理研究が、学校で正課とし教育されました。1930年ころには、17区域の予選を経た全国競技大会がワッサークッペ滑空場で開催されています。参加した機体は大型の3mクラスのグライダーが多く、機数は500機程度、機体検査に13時間、競技に2日間を要しました。
1930年代以降、学校および少年団で指導者の下に模型機の製作が行なわれています。団体訓練の一環であるため、大型の模型機1機を多人数で手分けして製作し、設計や用材も一定でした。加えて、全国7箇所に指導員養成学校があり、教員などが講習を受けています。環境は十二分に整備され、指導者も多く、少し上の先輩の指導も受けられました。このような段取りが、優秀なグライダーや飛行機のパイロットを養成するためには有効でした。
<図3> 1940年頃のヒットラーユーゲント(少年団)と模型飛行機(2)室内機の製作
当時ドイツと同盟関係にあった日本は、上述のドイツ・システムを手本にして、文部省が昭和12年ころから滑空訓練と模型飛行機教育を立案・実施しました。小中学校の全ての学科(特に理数科・工作)を通して、模型航空機の教育を目指したわけです。
導入の経過は以下のようでした。
1)昭和12年に、正課にする目的で中等学校3年(16歳)に滑空訓練採用を奨励する方針を出した。それを目標に操縦・製作の指導教員養成、指導教程編纂、教材機(実機グライダー)の設計を行なった。搭乗年齢(16歳)未満は、模型航空機製作など予備的教育を実施することにした。
2)昭和14年に、小学校における模型教育の研究調査に着手。協議会メンバーは、航空学者・航空機設計者と製作者・模型飛行機の専門家・児童教育心理
学者・軍の航空教育関係者・手工科の先生。
3)昭和15年に、小学校で教える教程試案作成。全国の師範学校、小中学校の工作・作業の先生の府県代表を東京・広島の高等師範に集め1週間の講習会開催。受講者は、各地区の中心として各地で講習会・研究会を開催。試案を修正。
4)昭和16年に、上記を踏まえ第2次試案作成・発表。内容は小学校1年生から高等小学校2年生までの各学年の手工、または国民学校の芸能科の工作で作る模型機の形式と、製作・飛行の指導要領。本年より学制が変わり「国民学校」になる。
4月~5月の間に、ドイツより模型航空教育指導者を招き、各地で講演会を開催し、教育に使われている模型機数機種を紹介している。
学制変更で、小学校が国民学校に変わり、教育の指針も当時の国策をより強く反映したものとなっています。模型航空教育は、1年生から高等2年生までの、8年がかりの長期計画で、グライダー操縦の予備活動・「手段」になりました。そして、ホビー/スポーツ的な面は捨象されました。
当時の学年別教材と製作所要時間は次のとおりです。
*小学1年:ヒコウキ(中・厚紙製の小型滑空機。1時間)
*小学2年;ひこうき(胴体はキビガラ、翼は厚紙の小型滑空機。2時間)
*小学3年:グライダー(胴体は細木、翼は竹ひごと紙の小型滑空機。2時間)
*小学4年(前期):グライダー(同上構造の中型滑空機。6時間)
*小学4年(後期):飛行機(同上構造、既製プロペラの小型飛行機。6時間)
*小学5年:飛行機(同上構造、自作プロペラの創作飛行機。8時間)
*小学5年(補助):滑空機(胴体はキビガラ、翼は厚紙の異型滑空機。2時間)
*小学6年:滑空機(胴体は細木、翼はリブに薄紙張りの大型滑空機。8時間)
*高等1年:飛行機(四角胴、創作プロペラ、実物似の飛行機。8時間)
*高等2年:滑空機(三角胴、高性能を出せる大型滑空機。12時間)
3. 当時日本の模型飛行機教育の現実状況
模型航空は複雑システムであり、航空学者・航空機設計者・航空機製作者・「模型飛行機の専門家」・児童教育心理学者・軍の航空教育関係者・手工科の先生など多方面の専門家が参画したので、具体的な各論としては当初より議論がまとまらなかったようです。
紙の上の案を作るに当たっては各位の専門知識が役立ちますが、飛行現場での指導に当たっては「模型飛行機の専門家」(モデラー)がキーマンにならざるを得なかったわけです。
前述のドイツのシステムのような、国が音頭を取り、公的組織を使い、国費によって青少年全員に模型航空の場を与え教育する方法を「ドイツ式模型航空」と称していました。
これに対置されるのが、「アメリカ式模型航空」でした。当時(昭和16年、1941年)すでにAMA(アカデミー・オブ・モデル・エアロノティックス:アメリカ模型航空協会)が存在し、会費には損害保険料が含まれ、会員による全国規模の競技会も開催されていました。つまり、組織や競技に関しては会員個人の自己責任であり、選挙などによって最適化をはかる、現在とあまり変わらないシステムが出来ていたわけです。自分で会費・保険料を払って、個人的な栄譽と楽しみのために競技を行い、競技性能を目標として機体を作ると言う、個人的競争原理は「ドイツ式」と対照的です。
結果として「ドイツ式」と「アメリカ式」の模型航空のねじれ現象が生じたようです。
文部省としては模型航空教育を、当時のドイツを手本にして実施しようとしましたが、現場指導の中核となる「模型飛行機の専門家」は、英米流の模型航空を身に着けていたようです。当時参画した模型飛行機の専門家(著名人のトップモデラー)は三島通隆・北村小松両氏で、今日的には知米派です。
当時の模型航空雑誌や参考書を見ると、両派のものが発行されており、両論併記状態です。。「模型航空」誌(毎日新聞社)では、日米開戦後もアメリカの模型雑誌の記事が、そのまま翻訳掲載され、正当に評価されています。トップが文部省の「国家的目標」であるのに、現場の直接的指導者は自由人で、実情はねじれ状態であったわけです。
加えて、模型機を供給して模型飛行機教育を支える模型業界には、別の事情がありました。昭和13年(1938)に国家総動員法は発令され、販売統制品や、玩具の内地向け製造禁止素材品目(ゴム、鉛、ほか十数品目)が定められた結果、模型・玩具業界は、木製の模型機に活路を求め、上記の模型飛行機を媒体とした航空思想の普及を目的とする、官民一体の模型機の学校工作運動を積極的に推進したのです。教材の模型機は一千万機と推定され、戦中には国民学校・航空団体・大新聞社・模型業界など官民一体が参画した模型飛行機ブームを作りました。
<図4>日本の国民学校教材「6年生用滑空機」
全長57センチ、全幅83センチ
4. 育成された学童モデラーの数とその消滅
数年間(昭和16年~19年?)に、国民学校で模型機に触れ、育成された学童数は不詳であるが、数百万人~1千万人超と考えられます。いずれにしても、現在の模型航空人口よりも2桁くらい多い人員です。
学童の工作能力は、現在よりも大幅に高かったといえます。鉛筆が削れず、刃物ナシの模型飛行機教室を開かざるを得ない現代に比べて、当時の小学生高学年は、ホウ材のブロックからライトプレーンのプロペラを削りだすことができました。
<図5>「模型」誌(昭和19年)表紙。模型飛行機の学校教育を対象として発行されていた
2005年頃のレジャー白書に拠れば、現在の「模型人口」が全部で400万人であり、その中には自動車・船・鉄道なども含まれ、プラモデルなど観賞用の形態模型も含まれています。
当時の模型航空界は文部省の国策に便乗して、「模型飛行機教育」を行なった結果、1000万人のモデラー育成という大膨張(大バブル)を達成したことになります。
この大膨張が生じた1930~40年代は、戦時であり、プロペラ式飛行機の近代化・熟成・完成の時期に一致します。頻繁に新型機の発表があり、航空界は活性化していました。科学少年たちの大部分が航空界を注目しており、模型飛行機を指向する予備軍層は豊富で、特に勧誘しなくても模型航空界に参入する環境にありました。
現在は、「科学少年」そのものが品薄であり、車・パソコン・ロボット・バイオなど興味の先は多く、相対的に航空指向は低下しています。
1000万人の学童モデラーが養成されましたが、彼らが模型飛行機教育を受けた年齢は低く、継続期間も短かった(昭和17~19年の3年間?)ので自習能力は低く、指導者の居ない状態では独力の継続は困難であったと思われます。結局、終戦によって学校で教えなくなると、ほとんどが「モデラー」でなくなります。
加えて、占領軍による、いわゆる「模型飛行機禁止令」が発令されました。後年の分析に拠れば、米軍が意味する「模型飛行機」は、風洞実験模型のような実機の開発を目的とする「模型」であって、ホビー/スポーツとしてのものは指していなかったのです。まさに「顔さまざま」の取り違えの悲劇です。
その結果、昭和23年(1948)くらいまでは模型機を飛ばすことは非合法活動になってしまいました。この数年間のブランクによって、模型業界は休眠状態になり、法令下にある教員指導者と学童の模型航空活動は消滅しました。
5. 日本の模型航空の戦後復興と教育方針の転換
前述の「模型飛行機禁止令」などによる数年間の空白の後、昭和23(1948)ころ、模型飛行機は解禁されて、競技会などの活動も再開されました。模型航空の内容は、「アメリカ式」のホビー/スポーツに変わりました。米軍占領下で、基地内で開かれた模型競技会での交流もあり、文献や資料もアメリカの模型雑誌などは流入したためです。
学童に与えられた教材の主力であったライトプレーンに関しては、セメダイン社の全国大会(昭和30年~)や、小売商組合などが主催する模型業者の競技会(昭和25年~)には、それなりに多くの参加者がありました。東京都科学模型教材協同組合指定機のA級ライトプレーンの年間生産機数は、昭和34年(1959)がピークの50万機で、B級3万機、D級20万機、R級1万機など他機種も多かったのですが、前述の「教材機1000万機出荷(昭和17年)」に比べると比較になりません。1960年代後半にはさらに減少し、昭和44年(1969)にはA級15万機、B級2万機、D級4千機、R級2千機です。
理由は、戦中に教育を受けた年齢層(1930~35年生まれ)の高齢化と、少年の興味を引く科学技術テーマの拡散と言えます。模型航空界は社会的な追い風を失い、国(文部省)の手を離れたので、予算・指導人員・設備など、ほとんどゼロからの再出発でした。
しばらくは模型飛行機を飛ばすには厳しい状況で、その影響を最も強く受けたのは、国の後押しで教員などに指導を受けていた学童モデラーでした。
戦中に人為的に起こされた、若年モデラー超バブルの印象がよほど強かったのか、いまだに模型航空活動の主役を児童とする固定観念が残っています。
私見としては、国民学校(小学校)で生徒全員に施された模型飛行機教育から本物のモデラーに育つ比率は、国語の授業から育った文学者・文筆業者、理科の授業から育った科学者・技術者の比率に相当すると考えています。そういう統計があるかどうか不勉強ですが、比率はあまり高くは無いと思います。
加えて、文学者・科学者の卵たちは、以降の高等教育でもそのための学科を履修していくわけです。模型飛行機に関してはそのような高等教育コースがありませんから、国民学校の教育から本物のモデラーが育つ比率はさらに低くなると考えられます。「学童モデラー1000万人」は、以上のような篩(ふるい)にかけて評価すべきです。
6. 現在の年少者に対する模型航空教育
現在も日本模型航空連盟・クラブ・個人などが講習会を開催しています。座学と工作を主体とし、学校などの教室を利用する「教室型」と、飛行を主体とし、公園を利用する「公園型」に大別できます。前者は、校庭または体育館で飛行を行ない、後者は野外に置かれた机で簡単な機体の組み立てを行ないますが、いずれも製作と飛行のいずれかの教育効果が不足です。
年少者に対する現在の模型飛行機の講習会には、以下のような問題点があります。
保護者などに過度の安全指向があり、刃物や接着剤、塗料などの使用が制限されています。飛行の指導も野外活動のため危険要因を含んでおり、学校などに外部から教えに行く立場としては、安全を配慮する故に十分に踏み込めません。
受講者は公園や教室で1日足らずの講習を受けた後は、再び指導を受ける機会がほとんどありません。加えて、模型飛行機を飛ばす場所が手近に無くなり、受験戦争が激しくなり、パソコンやゲームのような室内型の活動の誘引が強く、自発的な継続が困難です。
上記の講習会の効果は、「模型飛行機の楽しいイメージ」を幼児体験に刷り込むだけに止まります。従って、教習を受けた年少者が、技術を向上させて一人前のモデラーに育つ歩留まりは低いのです。
模型飛行機には、多科目横断型の、総合・システム教育の教材という意識・特質はあります。理数科・工作・体育という壁を越えて、連携プレイでひとつの目的を勉強・追求するという考え方は、現在でも必要なことであり、その教材としての資質はあるのです。現在、高等教育の場で「飛行ロボコン」として採用されてはいるのですが、学生たちが若年期に模型飛行機に親しんでいない場合が多く、模型つくりの基礎的な部分に障害があります。
模型航空活動は、前節で取り上げた活動の中核になる大人の部分と、新規に参入する年少者「など」の部分と、二重構造になっています。年少者「など」と括弧つきで描いた理由は、新規参入者が子供だけに限られず、定年退職者など高年齢で諸芸の達人の場合も少なくないからです。
模型航空界トータルで考えて、年少者をどの様に位置づけ評価するか、問題は残されています。
<図6> ***** 参考 ***** |
木村秀政氏設計の{A-1ライトプレーン}とその空力特性。航空研究所の風洞で測定され、昭和16年の「航空知識」誌に学術論文扱いで(模型飛行機の空気力学的性質)発表された。A-1機は、戦中~戦後のベストセラーのライトプレーン。 |
出典
<図1~4>:「航空朝日」誌 昭和16年4月増大号(特輯 模型飛行機)
<図5>:「模型」誌 昭和19年
<図6>:「航空知識」誌 昭和16年
大村 和敏 (おおむら かずとし) 日本模型航空連盟
編集人より
大村和敏氏は元模型航空競技・ウェークフィールド級日本選手権者であり、模型航空専門誌にも寄稿されています。
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