1. 航空会社の気象室
今、見てきたようなウソを平気で言える気象庁の予報官、戦前戦中の民間航空に派遣されていた気象官は、いわゆる官僚主義の職域を絶対に守る、お役人出身独特の振るまいがあった。一見、紳士風で学者タイプ、個人的には多少異なるものの、全般的にいえることは、理論で押さえこみながら、責任逃れの護身術に優れていて、決して自分では結論をださない。戦後はそんなことはないと望みたいが、はたして変っただろうか。
天気図を示して、もっともらしく難しく説明し、乗員の反応をみながら、いつの間にか反対側の無責任な立場にもっていくテクニックは素晴らしい。権威に弱い海軍出身の機長さんたちは、簡単に手の平のなかで踊らされ、まんまと彼らのペースにはまってしまう。しかも、彼らが働いているオフィスは、どこでも、多分、乗員が外地から運んできたと思われるコーヒーの香りが漂っていた。
花瓶に生け花が飾ってあるテーブルには、若くて綺麗な女性秘書を会社から派遣させ、航路上の天候が見えるわけでもないのに、ターミナル最上階の一番見晴らしのいい場所を確保し、冷暖房完備のパラダイスであり、高等官待遇を満悦していた。ウソをいって平気で高給を食んでいるのは、気象屋さんか、大本営の高級将校か、それとも戦後の政治家かも・・・・
それはさておき、秋も深まり,内地は西風が吹き荒ぶ寒い日々が訪れていた。今回はサイパンから横浜に帰還する乗客ナシの臨時便に乗務していた。機長は中野バッツン、操縦士は越田、根本航空士、機関士2名、通信士2名。計7名は、それぞれ、いつもの重いクルーバックと、所帯道具一式(主に着替えの下着)の入ったトランクをもって階段を昇り、サイパン海軍航空隊基地内の大日航気象室に出向いた。
バッツンとは、なんとなく虫がすかない上司をいう。つまり因業な頑固さで部下の意見を、いつも疑いと侮辱と軽蔑の眼でみるだけ、決してその意見をとりいれない。そのうえ意地悪でけちん坊、男には無論、女性にも決してもてないタイプ。海軍の下士官兵あがりの模範的な軍人であり、下には強く、上には特別弱い、階級意識過剰の典型的根性の持ち主である。まぁ一言でいうなら、木っ端役人のタイプを全部兼ね備えた人がバッツンと呼ばれる名誉に浴している。
要領をえた呼び名だと今さらながら感心するが、語源は海軍からきているらしい。まさか現代社会にはそんなご立派な御仁は姿を消したとは思うのですが、皆さん如何かな?
「俺は絶対にバッツンにならないぞ」JAL時代の筆者
「お早うございます。よろしくお願いします。お天気はどうですか?」「オス・・・ご苦労さん。今資料を全部用意して説明しますから、それまで全般の天気図を見ていて下さい」われわれに目もくれず、やおら立ちあがり、忙しそうに書類をかき集めはじめた。飲み残しのコーヒーからは、ほのかに湯気はあがっており、テーブルの端には、見るからに難しそうな本や書類やらが、無造作に積み重ねてある。<一日一回だけの運航なんだから、用意万端整えていて欲しいもんだよ、まったく>が本心で、とても口にだせない。待たせることには無関心になっている。どうせ、今までのんびりとコーヒーでも味わっていたのだろう。
「やぁ、是非、皆さんには今入ったばかりのデータでご説明したいとおもいましてね、では始めますよ」「お願いします」「まず目的地の横浜地方ですが、曇りがちですが雨の心配はありません。視界は良好で、つまり西高東低の冬型になる前兆ですね。航路の後半からの上空は西風がやや強くなりますよ。雲高はせいぜい2500~3000mですから、航路上は殆ど雲上飛行が予想されます。八丈島くらいまでは、雲高はそんなに高くなるはずがないですよ。それに一面のべた雲でなく、隙間がところどころあるので、心配ありません。機長さんの名判断で、適当なところで雲の下にでると、向かい風も弱まり、まぁまぁ快適な飛行が期待できますね。」
言葉は丁寧だが、ド近眼らしく、厚いレンズの眼鏡の奥には、自分は気象の最高の権威者である。きみたちは、ただ言われたとおりに飛びさえすれば、間違いないんだと言わんばかりの、いんぎん無礼な態度と目付きである。どうも虫が好かん。「いかがいたしますか?」と、ときどきジロッと見渡して、乗員の反応を監視しながら、責任だけはちゃんと逃れている。「うん成る程、よぉーく解かりました。どうも有難う。私の判断で降下時期を選びましょう」
わが愛するべきバッツンは、平身低頭しながら笑顔までつくっている。「どうだ越田君、内地は冬型の雲で上空は晴天のようだから、鳥島ぐらいから下へもぐれば、北西の風も弱くなり、横浜も視界良好ってわけだ。今日のコースは、君が選び好きなように飛びたまえ」と鷹揚なものである。「はい、ありがとうございます」ところがここで私は、一回目の大失敗をやらかしたのである。通常のコースは、
(1) 硫黄島経由、 一旦西側に飛ぶ
(2) ウラカス島、父島経由(島伝い)、航法が容易である
(3) ダイレクト(横浜まで直行で、殆ど洋上を飛ぶ航法が困難)
この3つのコースで、通常は西風の強い季節には、西風の弱いうちに西側にでて硫黄島を確認してから進路を決めている。しかし、今回の航空士はピカピカ新米である根本君だった。少しでも島伝いのウラカス島、父島経由のほうが航法がやさしく確実で安全であろう。
「コースは(1)か(2)でいきたいとおもいます」と即座に答えた。「なにっ、こんな日は(3)で飛ぶぞっ」片手をあげて、真っ直ぐ、真っ直ぐと身振り、いや、手振りたっぷりで、気象屋のオッサンまでが、首を大きく上下したのには参った。大きな態度で、君に任せるといった舌の根も乾かぬうちに、まるで考えてもみなかった最悪のコースを指して飛ぶというのだ。鶴の一声には従わざるをえない。
あとで根本君が小さな声で曰く、「バッツンは、右に行きますかときくと、必ず左だから、右にしたいときには左にしますといえばいいんですよ」とアドバイスしてくれた。そういわれて過去を振り返ってみると、ウンウンわかるぞ、なるほど、反省あるのみ。
岡目8目とはよくいったものだ。航空士はよく見ているなぁ、と感心した次第。ただ今回のフライトだけは、このような始末になってしまつた。コースにやや不安をもちながら、新米の天測航法の成功を祈りながら、北へ北へと飛行をつづけていた。
2. 完全盲目飛行
高度3000mで巡航にはいり、順調に雲上飛行を続けていた。快適な飛行のあまりウトウトしていると、前方の雲がどんどん広まり、高く、そして厚く、いつの間にやらすきまどころかベッタリの雲の壁が立ちはだかった。これ以上進んだら雲に突入してしまう。悲しいかな、防氷装置がない戦時中の飛行機では、たちまち飛行艇全体が凍結してしまい、墜落あるのみだ。
雲の壁が迫って、雲中飛行が予想された
いやな予感が不思議と頭からではなく、胸の方から頭をかすめた。(よしいまのうちに雲の隙間があれば、下へ出るぞっ)と、注意深く下方を眺めまわした。幸運にも前方に雲海の隙間を発見、(しめたっ)「中野さん、降下します」「上だっ!」中野機長の無情な一言、(しまったっ)と思ったが、遅かりし由良の助。
先程の根本くんの教訓をすっかり忘れていた。上ですかと言えば、下だったのにと反省するが、もう遅い。左席に悠然と座っている機長を恨めしく思いながら、降下する訳もいかず飛びつづけた。しかし、自然はそんなに甘くはない。いよいよ雲が迫ってきて、徐々に高度をあげていき、ようやく雲上すれすれを保持するのに4000m以上の飛行艇飛行限界高度まで上昇せざるをえない。
この高度で無酸素で飛行するのは極めて危険である。酸素不足のために呼吸は弱くなり、まだ二十代の元気一杯のはずの私ですら、頭が朦朧と霞んできた。バッツンはとみると、目がトローンとしているではないか。機関士も航空士も通信士も、皆、机の上で頭を両手でかかえながら、しかし、力ない目がこちらを向いている。
雲上飛行の二式飛行艇
もうこれ以上雲上飛行をつづけていると、全員が失神すること請負いだ。もう限界を超している! バッツンのいうことにしたがっていたら失神するぞっ。親指を下にして降下へ移る仕草をした。さすがのバッツンも、仕方なく首を上下にふった。ついにエンジンを絞り、厚い雲中へ突っ込む羽目になってしまった。
案の定、目の前はまるでミルクのような真っ白な雲中で、一寸先もみえない。オートパイロット(自動操縦装置)だけが、命の綱であった。高度がようやく3000mを通過したころから、やっと全員が元気になってきた。しかし、雲中飛行には変りはない。眼球だけを、むきださんばかりに前方の計器を凝視していると、(あっ、なんだこれはっ)速度計がどんどん増えているではないか。
速度計は、あたかも急降下状態で、ついには振り切ってしまった。高度計も、いつの間にやらスタックしてしまっている。前方外側にあるピトー管(外気吸入管)が凍結したにちがいない。万事休す。命の綱は盲目飛行中の機首角度の保持あるのみだ。
戦時中の航空機では機首角度指示器として信用できるのは、大工さんが使っている水平儀を縦にしたのと同じ構造と性能で、赤色に着色したアルコール不凍液の上下する移動によって角度を確認する、簡素で幼稚なシロモノだけである。
とにかく氷塊に変身してしまった飛行艇を失速させないように、エンジンのパワーレバーを固定し、必死になって機首角度と方位を一定に保つのが精一杯だった。そのうち、「ドシーン」と胴体に何かがぶっかった異常な音とショックがきた。プロペラに付着した氷塊が剥がれて、胴体に体当たりする。すごい音とショックである。
はじめのうちは5分間に一度くらいの間隔だったが、次第に短く、いよいよ激しくなってきた。4発のエンジンは凍結してしまったのか、まったく爆音が消え去り、暖房も消えた操縦席は息も苦しくなるほどの酷寒となり、窓といえば、10cm以上の氷が張り付いたと思われるほどで、真っ白になっている(カマクラの中そっくりだわい、さぞかし翼は、氷で丸くなってしまって、浮力もなくなっているだろうなぁ)と、カマクラのなかで、必死にもがいていた。
<九七式大艇は氷塊になって落下するだろう。この世ではなく、間違いなく三途の川を渡って、地獄へ突き進んでいる。南無阿弥陀仏、ナムアミダブツ>誰一人声をだす者はなく、各自、沈痛な顔で一点を見つめている。死の恐怖に声もでないのだろうか。まったく、お通夜のような無言の操縦席になってしまった。
どうしたことか、漠然と私の脳裏をかすめたのが、短かった人生にかかわった女性の顔、顔、顔・・・母親、姉、そして彼女、彼女、あたかもスライド写真を見ているかと錯覚するように、次々と女性達の心配顔がうかんでくるではないか。恋路の思い出など、全然浮かんでこない。いつの間にか、体中が無重力状態になってファーッとなり、頭の中はスーッと真っ白状態、完全に別世界を彷徨っていた。
3. 地獄からの生還
突然、「バカーン、バシーン」と、ものすごい爆発音とともに、腹にまで響くような振動が伝わってきた。「あっ、飛行艇が爆発したぞっ!」、ビックリ仰天して我にかえると同時に、目の前の風防ガラスを覆っている厚い氷の壁が、次々と剥がれ、不気味な太平洋の大波が浮かびあがってきたではないか。
九七式大艇は海面すれすれに飛んでいる。幸いに、まだ少しは高度がある。
<このまま大海に墜落してたまるかっ>、直後に、今までメチャクチャに指していた計器類が、魔法が解かれたように、動き出した。「ブゥーン、ブゥーン」と、待ちに待った快適なエンジンの音も聞こえだした。暖房も効いてきた。
(2発のエンジンだけでも正常にあってくれよっ)、藁をもつかむ思いで、ユックリと真ん中の2・3番エンジンを加速し、外側の1・4番エンジンも手応え十分、エンジン計器も正常に作動し快音が身にしみた。しめたっ、助かったぞっ!
いま一度、高度を確かめると500m以上である。よしっ、水平飛行に移ろう。「ブワーン、ブワ―ン」とエンジンの快音が心地よい。ようやく高度と速度が安定してきた。超低空のため、ものすごいスピードで大波と洋上のうねりが後方へ去っていく。
「さーてと、ここは、どのへんだろう」「島にぶつけるなよ、絶対にもう雲の中に突っ込むなよ 、雲すれすれで飛行しろよ」「多分、西風に流されているだろう。もし、東方海上に流されていたら、北海道まで陸地はみつからんぞっ」「エンジンは大丈夫だ、燃料もまだまだ心配ない」等々、途端に全員から威勢のいい注文の言葉が次々と飛びこんできた。
人間とは業なものだ。たちまち強欲になってくる。幸運にも降下するにつれて、氷塊と化してしまっていた大艇が、外気温度の上昇とともに、突然、氷解し大音響をだして氷塊がいっぺんに剥離したのだった。「少し西に機首をひねります」
まかせてくれとばかり、機長の了解の返事も待たずに、20度程西に変針した。バッツンは、今度は決して東だとはいわなかった。15分もしないうちに、前方に懐かしい鳥島の島影が、かすかに浮かんでいる。地獄に仏とは、このことだ。全員の安堵した笑顔がまぶしい。雲底に沿って高度をあげながら、そうだ余裕を見せようと、まず一服落ち着いた態度を見せ、タバコに火をつけたときの感動に勝るものはなかった。
さて、ホッとして余裕が出来たところで、生死を彷徨っていたときに、現れてでた女性の顔が、どんな順序だったか反芻してみた。母親の次が姉、ところがその次がどうしてもすんなり順序よく直ぐ浮かんでこない。考えている内に美人で好みのハートナイス(心の優しい)タイプの顔が、それこそ自分勝手に、ばらばらに浮かんでは消えていった。中には再び思い出そうとしても、浮かんでこない顔もあった。
本当に不思議なものだ。仏様じゃなくて、凡人に戻った証拠だろう。映画では戦死する間際の兵隊が「天皇陛下万歳」と叫ぶシーンばかりだが、実際は「おかーさん」と叫ぶのが本当だと聞いたが、今回の経験からすると真実のようだ。神様でない身なので勘弁してくれとばかりに苦笑しながら。操縦桿を握りしめなおした。
それにしても人間は、助かったと思った瞬間に仏様から脱却し、とたんに我慾のかたまりになり、再び元のような社会に逆戻りってわけだ。まあいい、そんな社会を、とやかく批判してもはじまらない。
どんな職業でも能率向上のためには、せいぜい、仲間や部下とのコミュニケーションを良くして、部下連中がどんどんアドバイスしてくれるにこしたことはない。とくにわれわれ飛行機屋さんは、チョットした判断ミスが乗務員だけでなく、お客様の命まで、巻き添えにしてしまうことだってあるのだ。操縦席の個々人の能力を、上手く引っぱりだして、最大のパフォーマンスを創りだすのが機長の努めなんだと、仏様になりかけた我が輩は思う。
とにかく、今回の貴い経験を生かして、オレは絶対にバッツンにはならないぞと、心ひそかに誓いを新たにして、一路、皆が待っている大日本航空横浜支所の磯子へ飛行をつづけ、無事に翼を休めることができた。
無事根岸空港に帰還できブイに繋ぐ
その晩、命拾いをしたわれわれは、磯子の料亭で大勢の綺麗どころを呼んで特別に豪勢な料理を前にして祝杯をあげることになった。勿論、バッツン抜きであった。
戦後、横浜の繁華街ビル地下街の中にある、若者が集まる気のきいたモダンな喫茶店で中野さんに偶然に会うことができた。なんと変れば変るもの、派手なマスター服に蝶ネクタイで、楽しそうな笑顔でOLなどを相手にリボンちゃんで立ち回っておられる姿には少々驚いたものだ。
懐かしい昔話に花を咲かせ、お孫さんまで紹介していただいき、「今後、君は日航のパイロットとして、誇り高い磯子での大艇の貴重な経験を生かして、くれぐれも安全運航で頑張ってほしい」といわれ、固い握手をして別れた。いろいろな意味で、中野機長には大変お世話になった。その後、風の便りで、ガンで亡くなられたとのことである。
昭和20年正月記念写真 社員一同が九七式大艇を囲んで
越田 利成 (こしだ としなり)
元大日本航空パイロット、元日本航空パイロット
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