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1. モンコ゛ルの独立 モンコ゛ル人民共和国は1945年のル-ス゛ヘ゛ルト、チャ-チル、スタ-リンによるヤルタ協定で国際的に独立が認められた。スタ-リンは対日参戦条件として外モンコ゛ルの現状維持、即ちモンコ゛ルを独立国として認めるもののソ連の勢力範囲であるということを認めさせたのである。モンコ゛ルに対する主権を主張していた蒋介石とソ連との間に覚書が結ばれ、モンコ゛ルでどちらの国に付くかの国民投票が行われた。この結果はソ連側に付くということに全票賛成であったため中国国民党もやむなく正式にモンコ゛ル独立を認めたのである。ソ連は内モンコ゛ルの中国主権を認めた。 この後、モンコ゛ルは独立国ではあるがソ連邦に組みこまれて1990年まで社会主義国としての歴史を歩むことになる。私の友人の知識人にソ連邦時代の感想を聞いたことがあるが、ロシア人には3等国民として支配され、米国の黒人のような扱いを受けたという。しかし、中国に支配されるよりは良かったという意外な返事が返ってきて驚いたことがある。中国に支配されてきた長い歴史から、中国に対するモンコ゛ル人の抜きがたい嫌悪感が伺われた。 1950年代からソ連、東欧の援助により道路、集中暖房付きアハ°-ト群などが整備されていった。
2.日本人捕虜 最初の前書きで触れておいたが日本人捕虜の悲惨な歴史を書いておきたい。 1945年8月10日、この直前の8日のソ連参戦に続いてモンコ゛ルも対日参戦。スタ-リンは国際条約に違反して満州から50万の日本人捕虜をソ連に移送した上で強制労働に投じた。 その内の1万2千人がモンコ゛ルに連行されて1947年の引き上げまでの2年間、強制労働に従事させられ1,600人がモンコ゛ルで死亡している。 モンコ゛ルはノモンハン事件(モンコ゛ルではハルハ河戦争)の日本侵略の賠償と見なしてこれら捕虜を首都ウランハ゛-トルの整備に投じた。日本人捕虜が建設させられた建造物はスフハ゛-トル広場周辺の政府庁舎、国立オヘ°ラ劇場、中央図書館、外務省、首相官邸、国立大学などで、全て現在も健在で使用されている。
国交樹立後に墓参が始まり、民主化後には遺骨収集も行われて何箇所かに分かれていた日本人墓地は墓地跡として整備されウランハ゛-トルの北部に慰霊碑が建てられている。 その当時のウランハ゛-トルはというと、1912年にホ゛ク゛ト・ハ-ン政権が樹立された時には建物と言えば現在のスフハ゛-トル広場付近に寺院がいくつかあっただけで、その周りは全てケ゛ル集落が囲んでいた宗教都市であった。1925年にやっと人口が6万1千人になったが約30%は僧侶であった。 その後の弾圧で1935年には人口が半減、1940年では人口3万で僧侶は1,600人であったという。 当時の絵や写真を見るとコンクリ-トの建物などは殆どなく、そこに1万2千人もの日本人捕虜が連れてこられたのであるから、その悲惨さは容易に想像できる。 彼らが建てた壮大な`ロシア風コンクリ-ト建造物は、ケ゛ル集落の真ん中に突如として現れた近代都市という感じであったろうと思われる。 かど のぶゆき、 |
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