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1. ロシア革命後のモンコ゛ル
1919年に建てられたホ゛ク゛ト゛・ハ-ンの宮殿は今もウランハ゛-トルに宮殿博物館として残っている。 この2人の英雄はモンコ゛ル建国の英雄として称えられ政庁前の広場はスフハ゛-トル広場と名付けられ彼の騎馬像が建っている。チョイハ゛ルサンの銅像もモンコ゛ル国立大学の正面に建っている。 後日談だが、チョイハ゛ルサンはモンコ゛ル人民革命党最高指導者となり、スタ-リンの血の粛清に従って3万人にも上るとも言われる反政府知識人、僧侶、軍人を粛清した。このためソ連邦崩壊のモンコ゛ル民主化後に銅像を倒せという声が上がったものの、負の業績よりもモンコ゛ルを独立させたという功績の方が大きいと銅像は残されることになったという。 このモンコ゛ルでの血の粛清の様子は大粛清博物館にその暴挙の悲惨さが展示されている。一方の独立の英雄スフハ゛-トルは軍人で人民共和国成立前の1923年に急死して独立後の政治には関わっていない。 ちなみに、ウランハ゛-トルにはスタ-リンの銅像が3基あったが全てソ連邦崩壊後に撤去されている。しかし、レ-ニンの銅像は今もウランハ゛-トル・ホテルの前の公園に建っている。 ロシアの革命、清朝滅亡とその後の中華民国の混迷の間にモンコ゛ルは1924年に人民共和国を誕生させる事が出来たと言える。モンコ゛ルはソ連に次いで世界で2番目の社会主義国となったのである。
2. 日清戦争 1931年、日本は満州事変を起こし、1万5千人の日本軍が25万の張学良軍を満州から追い払った。 満州事変とは、この年9月に奉天(現瀋陽)郊外で南満州鉄道の線路が爆破された柳条湖事件に端を発し、わずか5ヵ月で満州全土を占領し1933年に中国と塘沽協定に至るまでの日本と中国との紛争、事変である。この事変を境に関東軍と満州の抗日運動の衝突が激化してゆく。日本では軍部が発言力を強めて行き日中戦争へと突き進んで行くことになる。また中国市場に強い関心を持つアメリカ等列強との対立が深刻化してゆく元となった事変である。 柳条湖事件は関東軍が満州占拠を狙って仕組んだ罠であり、関東軍自身が爆破した事件を中国軍の帳学良ら東北軍による破壊工作と断定して占領行動に移ったものであった。爆破自体は、直後に現場を急行列車が何事もなく通過していることから極小規模に抑えていたことが伺われる。 1919年に守備隊から関東軍へと拡大していた満州駐留軍は地元の親日派である張作霖に軍事顧問団を送り取り込みを図っていた。しかし、張作霖が海外資本の提供を受けて満鉄の平行線を建設し始めて両者の関係は悪化した。関東軍は1928年、張作霖が乗る列車を秘密裏に爆破殺害するという張作霖爆破殺害事件を起こす。張作霖の後を継いだ息子、張学良は蒋介石の南京国民党への合流を決意し日本に敵対的な行動を取るようになってゆき、父が始めた新鉄道路線建設を南満州鉄道のすぐ横に敷設し安価な料金で経営競争を仕掛けた。危機感を感じた関東軍は再三恫喝するが聞き入れられず、本国に図ることなく満州の占領を策していったのである。 事変後、日本政府はこの関東軍の専横を厳しく咎めることをしなかったために、関東軍と陸軍の独走が始まるのである。
3. 内モンコ゛ル独立運動
かど のぶゆき、 |
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