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1. モンコ゛ルの再興 14世紀末から中国の明国と対立を続けたモンコ゛ルの史料は17世紀まで途絶え、その間は断片的な記録しか残っていない。
2. 清朝の建国と明の滅亡 モンコ゛ル高原で北元が衰退して混乱してゆく中、満州では新たな動きが起こっていた。
3. ロシアの台頭 モンコ゛ルの影響力が急速に薄れるこの時期に西方でロシアが台頭してくる。 ロシアの起源はルーシと言われているが、このルーシとはスカンテ゛ィナヒ゛アのノルマン人を指す。9世紀にルーシのリュサクシ兄弟がノウ゛コ゛ロト゛、キエフを支配したのがロシアの起こりである。現在のロシア人の大多数を占める東スラフ゛人は森林を切り開く農耕の民であった。 ロシア各都市はヒ゛サ゛ンツ商人やイスラム商人との毛皮や奴隷を交易する拠点として発展する。 モンコ゛ル帝国の侵入時はリューリク家の内部抗争中で統一がなく、ロシア各都市とロシア正教会はモンコ゛ル人支配を完全に受け入れた。ロシア語のタタル(複数形がタタール)はモンコ゛ルと同意語だったが、やがてロシアを支配したチンキ゛ス・ハーンの長子シ゛ョチ家子孫だけをタタール人と呼ぶようになり、シ゛ョチ家の支配した地域は「黄金のオルト゛」と呼ばれた。
4. ロシアのの南下と清との衝突
5. 最後の遊牧帝国シ゛ュ-ンカ゛ル モンコ゛ルに話を戻す。モンコ゛ル語で左翼という意味のシ゛ュ-ンカ゛ル部族は17世紀後半に突然歴史の表舞台に登場し中央ユ-ラシア草原に一大遊牧帝国を築いたが18世紀半ばには過去の遊牧帝国と同じく相続争いで内部崩壊し清朝に亡ぼされた。 その後ユ-ラシアには二度と遊牧帝国は生まれなかった。なお、カサ゛フスタン人がロシアに従属したのはシ゛ュ-ンカ゛ルの圧迫から逃れたためである。 シ゛ュ-ンカ゛ルは元々13世紀始めオイラト四部族連合を構成する一大部族であったが、元朝が中国からモンコ゛ル高原に退いたフヒ゛ライ家のハ-ンに圧迫されていたものである。 この後、モンコ゛ル高原遊牧民はモンコ゛ル40部族連合とオイラト4部族連合の二大陣営に分かれ対立する。 オイラト部族連合は元のオイラト部族にモンコ゛ル高原西北部の部族が加わった反フヒ゛ライ連合だった。 シ゛ュ-ンカ゛ル帝国の本拠地は今の中国新疆北部のシ゛ュ-ンカ゛ル盆地を中心にした天山山脈の北方一帯であった。1620年頃、シ゛ュ-ンカ゛ル部族長ハラフラがアルタイ・ハ-ンに立ち向かったが打ち負かされ、オイラト諸部族はアルタイ・ハ-ンと西のシ゛ョチ後裔の遊牧集団カサ゛フの両方から攻められシヘ゛リアに避難。 しかし、1623年に南下してモンコ゛ルとの戦争に乗り出し3万6千の兵で8万のモンコ゛ル軍を破りハルハのアルタイ・ハ-ンを殺してオイラトがモンコ゛ル従属から初めて自由になった。 しかし、わずか2年後の1625年に遺産争いを起こし、その一部のトルク゛-ト部族長は5万家族を連れて西に向かい1630年にまだロシア領ではなかったヴォルカ゛河畔に移住した。 オイラト人はモンコ゛ルの影響で17世紀始めにはチヘ゛ット仏教徒になっていたが、チヘ゛ットは施主のモンコ゛ル領主を巻き込んで派閥抗争中で新しく領主になったオイラト諸部は青海に南下して1万の軍で3万のモンコ゛ル・ハルハ部族を殲滅した。 部族長ク゛-ンはタ゛ライ・ラマ5世から「持教法王」の称号を授かりモンコ゛ル語でク゛ーシ・ノミーン・ハ-ンと名乗りオイラトではじめてのハ-ンを称した。これはハ-ンの称号はチンキ゛ス・ハ-ンの男系子孫だけが称せられるというモンコ゛ル帝国の不文律に対するチヘ゛ット仏教からの挑戦だった。タ゛ライ・ラマ5世は自分を頂点とする仏教世界の秩序に新たな施主を組み入れる意図があった。 ク゛ーン・ハーンは遠征に同行したシ゛ュ-ンカ゛ル部族長を娘と結婚させハ゛-トル・ホンタイシ゛という称号を与えた上で故地に帰し、中央アシ゛アのオイラト諸部族の盟主とした。 1642年、ク゛ーン・ハーン自身はチヘ゛ット各地を平定しチヘ゛ット全土を統一してチヘ゛ット王の位に就いた。 タ゛タイ・ラマ5世はチヘ゛ット仏教教主に推載され、この後現在まで続くタ゛ライ・ラマ政権の始祖となった。 またク゛-ン・ハーンの子孫は青海草原で遊牧しながら名目上、代々のチヘ゛ット王となった。 1678年、ハ゛-トル・ホンタイシ゛没後に内部抗争の結果、カ゛ルタ゛ン・ハーンが継いで西方に勢力を拡大しタリム盆地のトルコ系イスラム教徒を属民とした。 1684~85年、タシュケント、サイラムを占領。 1688年、漠北のハルハに侵入し、数十万人のハルハ人はコ゛ヒ゛砂漠の南に逃れ清に保護を求めた。 このモンコ゛ル人の領主はハルハにチヘ゛ット仏教を導入し、1585年にモンコ゛ル帝国時代の旧都カラコルムに現在も残る仏教寺院エルテ゛ニ・ソ゛-を築いたアハ゛タ゛イの子孫であり清に従属を誓った。 カ゛ルタ゛ン・ハーンは清にモンコ゛ル人領主とハルハのチヘ゛ット仏教高僧の引渡しを求めたが清は拒否。 カ゛ルタ゛ンは2万の兵で南下し北京北方300kmの地で清軍と衝突したが清の増援部隊の到着で漠北に引き揚げた。 この争いでモンコ゛ルでは初めての火器が使われた。シ゛ュ-ンカ゛ル軍は1650年頃からロシアより鉄砲、大砲を提供されており、硫黄を精製して使用した。こうしてオイラト連合を除くモンコ゛ル民族全てが清朝の支配下に入った。 1696年、清は3個軍団でモンコ゛ル高原に遠征しカ゛ルタ゛ン軍は逃走。それを追って清軍は現在のウランハ゛-トル近郊で補足激戦しカ゛ルタ゛ン軍の主力を壊滅。カ゛ルタ゛ン自身は少数の部下と脱出したが、この間にカ゛ルタ゛ンの甥が本拠地で叛旗を翻して清と連合したため故地に帰れず、放浪の末に病没した。
その後、シ゛ュ-ンカ゛ルの残党が度々清軍を襲撃したが天然痘が大流行してオイラトの人口が激減。シ゛ュ-ンカ゛ルはほぼ全滅しイリ地方はほとんど無人地帯となった。ヴォルカ゛河畔のトルク゛-ト族がこの地をねらって3万3千家族の大移動を行ったが、途中でロシアのコサック、イスラム教徒のハ゛シキル人、カサ゛フ人、キルキ゛マ人などに襲われて7ヶ月の移動で10万人を失ってようやくイリの故地に帰り着き清の保護下に入った。 この年、ヴォルカ゛河が凍結しなかったため右岸から渡河できずに取り残された1万数千家族の子孫が元ソ連邦カルムイク共和国の人々である。イリに帰還した7万人のトルク゛-ト族の子孫が現在の新疆北部に住むトルク゛-ト.モンコ゛ル族である。 一部のオイラト連合とジューンガル 部族もその子孫が現在に生き残っている。 かど のぶゆき、 |
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