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1. 大元とモンコ゛ル連合国家
こうしてモンケの死より40年以上にわたった内部抗争は終結し、モンコ゛ル帝国は東アシ゛アの元(大元ウルス)、中央アシ゛アのチャカ゛タイ・ハーン国(チャカ゛タイ・ウルス)、キフ°チャク草原のキフ°チャク・ハーン国(シ゛ョチ・ウルス)、西アシ゛アのイルハン朝(フレク゛・ウルス)の4大政権からなり、元を統治する大ハーンを盟主とする緩やかな連合国家に再編された。 2. フビライと日本(元寇) 蒙古襲来絵詞 竹崎季長絵詞 (宮内庁蔵)
蒙古襲来絵詞 竹崎季長絵詞 防塁を築き待ち構える鎌倉御家人 (宮内庁蔵)
博多の町は逃げまどう市民で混乱し,多数の市民も捕らえられたり殺されたりした。夜になると町のあちこちから火の手が上がっているのが見えたと記録にある。 戦いは一方的に元軍が優勢であった。島国の日本はそれまでどこの国にも侵略されたことがなく,戦法も独自の発展をしていた。 日本の武士の戦い方はあまりにも世界の常識からかけ離れていたのである。幸いにして、元軍が高麗、中国、蒙古軍の寄せ集めで連携が悪かったのと高麗、中国勢の士気が低かったこと、更に嵐という気象条件のおかげで二度の襲来を防ぐことができたが、鎌倉幕府は更なる襲来があることを恐れ、御家人の動員、防塁建設を続けたため、御家人の負担は増加の一途をたどった。一方、北条家のみは着々と富を溜め込んだため、御家人の反発が膨れ上がり、鎌倉幕府滅亡の大きな原因となった。 日本は二度に渡る台風、すなわち神風に救われたと信じられているが、二度目は確かに台風に襲われたようで、南宋の兵船の残骸が近年引き上げられている。しかし、一度目はある程度の強風には襲われたが大した被害は出ていないという説が最近有力である。士気が低かった高麗勢が嵐を理由に勝手に退却したというのが真相のようである。 日本遠征が成功しモンゴル人が日本に入っていたら現在のモンゴルは全く違っていたかも知れないのにとモンゴル人に言われたことがある。現在の日本に対するモンゴル人の強い憧れから来る言葉であろう。 3. モンゴル帝国の繁栄と解体 モンコ゛ル帝国は穏やかな連合国家になり一旦は落ち着いたかに見えたが、平和と繁栄の時代は長くは続かなかった。
フヒ゛ライ王統最後のハーン、トク゛ス・テムルが殺害されたことで、モンコ゛ル帝国を構成した諸部族は分裂した。フヒ゛ライ家系と、オイラト家系を主とする反フヒ゛ライ系がこの後、抗争を続ける。 明はこの後、5回もモンコ゛ル高原に遠征したがついにモンコ゛ル人を屈服させられなかった。そのため、北の脅威から国を守るために長城を修築して16世紀末まで、その内側に篭った。 元が衰退した状況をいま少し説明しておく。元は14世紀中頃から、宮廷内での内紛が激しくなる。また、チヘ゛ット仏教に対する信仰が深くなって、大規模な寺院の造営が相次ぎ財政を圧迫した。財政難を乗り切るために交鈔を濫発したので、中国経済は混乱して各地で反乱が続発した。 特にマニ教と仏教を混合したような白蓮教という宗教が、一般民衆に浸透していて、この白蓮教を中心にした反乱が大きかった。赤色の頭巾を巻いていたので紅巾(こうきん)の乱と呼ばれた反乱である。 元は始めの内は各地で起こる反乱を鎮圧していたが、そのうち面倒くさくなる。中国人から搾り取るために支配しているのに、反乱鎮圧に明け暮れていたのでは、中国支配のうまみがない。 1368年、モンコ゛ル人たちは中国を放棄してモンコ゛ル高原へ退去していった。元は滅んだのではなく、去っていったのである。代わって漢民族の王朝である明が成立するが、その後も元は北元とかタタールとか呼ばれてモンコ゛ル高原に存在しつづけてゆくのである。 かど のぶゆき、 |
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