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1.モンゴルの登場 唐の太宗を自分たち遊牧騎馬民のカガンと認めた北アジアの遊牧民は唐の家来となった訳で、使者を直接唐の宮殿に派遣するようになった。その中に中国黒龍江省西部、大興安嶺山脈あたりを中心に住んでいた「室韋(しつい)」と呼ばれる民族がいた。中国正史「旧唐書」には「蒙兀(もうごつ)室韋」と伝えられ、「新唐書」では「蒙瓦(もうが)」という漢字が使われている。どちらも「モンゴル」という音を漢字で表したものである この室韋、モンゴル族がやがてモンゴル高原を制覇し、13世紀に巨大なモンゴル帝国を築くのだが、それまでの500年もの間、モンゴル族について記された史料は殆どない。チンギス・ハーンの子や孫の時代、13世紀末から14世紀になってそれまで口頭で伝えられてきた伝承や、様々な言語の記録を元にその間の歴史がようやく書き留められたが正確なものではない。チンギス・ハーンが成人するまではモンゴル人には記録をつける習慣がなかったのである。また、その間のモンゴル族の活躍は目立ったものがない。従ってモンゴル登場と書いたものの、モンゴル族の詳しい歴史はチンギス・ハーンが台頭してくるまで、まだ数世紀待たなくてはならない。 室韋は後で述べる契丹(キタイ)族の別種と言われている。室韋は大興安嶺山脈を中心として東は黒竜江、西は突厥、南は契丹、北はバイカル湖までの地域に住んでいた。千戸(家族) から数千戸の部落に分かれており、全室韋を統率する君主はなくバガトルと呼ばれる酋長達が各々の部落を管轄して突厥に付随していた。室韋は7世紀始めに唐に使者を派遣して以来8世紀まで入貢した。このため「蒙兀(もうごつ)、蒙瓦(もうが)」の名が中国の記録に残ったのである。 突厥第二帝国時代に初めて古代トルコ(チュルク)語、古代トルコ文字で書かれた碑文が現れる。突厥帝国の聖地ウチュケンの地は現モンゴルの中心部のオルホン河畔で、前回触れたように後のモンゴル帝国首都カラコルム近辺であった。この地に沢山の突厥の墓跡が残っていると書いたが、突厥碑文石も沢山残っている。 特に8世紀に刻まれたキョル・テギン碑(右写真)が名高い。テギンとは突厥第二帝国を再建したイルテリシュ・カガンの息子で731年の死去に際し功績を記念して建てられたものである。 その碑文中に「バイカル湖の東岸方面のクリカンとシラムレン河辺のキタニ(契丹)の間に、三十姓タタルがいた」と書かれているがこの三十姓という多数のタタル部族が中国語では室韋と書かれた部族である。 さらに8世紀の突厥ビルゲ・カガン碑と、突厥を滅ぼしたウイグル帝国のシネウス碑には「九姓タタル」が突厥やウイグルと激戦したと書かれている。9世紀後半に他部族を追い出して漠北中心に入り、モンゴル部が強力になる13世紀までモンゴル高原を支配した部族ケレイト家がこの九姓タタルの後身だと考えられている。 2.突厥の遺跡
3.ウイグル帝国 745年、トクズ・オズグ (九姓鉄勒) の一部族だったウイグル族が突厥第二帝国を攻め滅ぼしてウイグル帝国を建国し、突厥帝国に代わりモンゴル高原全域を支配した。 ウイグル帝国第二代と第三代カガンの時代にモンゴル高原に五ヶ所の町が建設され、ソグド人やマニ教僧侶のための家屋が建てられている。この時代にウイグル人はマニ教を信奉するようになったらしい。町を作ったものの、カガンは草原を移動しながら居住しており、この風習がモンゴル帝国まで引き継がれた。 ソグド人というのはサマルカンドを中心とする地域に住んでいた部族で、この地方は紀元5世紀頃アケメネス朝ペルシャ時代からソグドと呼ばれていた。このソグド人は中央オアシス都市を拠点として中国まで貿易に従事し、突厥やウイグルなどの遊牧帝国との商業活動を活発に行っていた。ソグド人は宗教だけでなく、文字についても遊牧民に大きな影響を与え、突厥やウイグルはこのソグド文字を借用して自分達の言葉を書き留めるようになり、後のモンゴル人はそのウイグル文字を借用してモンゴル語を書くようになる。これが現代にまで残っているモンゴル文字となった。モンゴルの文字については後述する。 話は変わるが、前回、突厥がトルコの源流と書いた。中央ユーラシアの遊牧民がトルコ系とモンゴル系に分かれて行った訳だが、トルコ系はその後、イスラム教に帰依した人々で、モンゴル系は16世紀以降にチベット仏教徒になった人々である。チンギス・ハーンの時代にはモンゴル語とトルコ語の区別はあまりなかった。トルコ系が西に移動してペルシャ語やアラビア語の語彙が入って今のモンゴル語との相違が際立つようになった。中央ユーラシアから東北アジアでは、もっと多くの言語が話されていたのだが、その中でトルコ語、モンゴル語、トゥングース語のみが現代に生き残った。 840年、西北からキルギスが襲来し、敗れた20万のウイグル人がモンゴル高原から逃亡した。カガンの直属の部族は中国に逃げたが唐政府に受け入れられず、唐の周辺で衰亡してウイグルの名を留めなかった。その他の部族は現在のカザフスタンにいた遊牧騎馬民に庇護を求め、その一部はトルファンや河西に落ち着いた。この河西に入ったウイグル人は「甘州回鶻」と呼ばれ、王国として130年続いた後、西夏に滅ぼされた。その子孫が元から明朝の黄頭回鶻 (サリ・ウイグル) であろうと言われている。 トルファンに入ったウイグル人は天山ウイグル王国を建て、領域は天山北麓の草原や西方のオアシス都市を含み、西方のカラキタイの圧迫を受けながらもチンギス・ハーンに服するまで3世紀の間独立を保った。天山地方に入った当初はマニ教徒だったがオアシス都市の先住民らの影響で、やがて仏教徒になった。この王国は草原の文化と都市・農村文化の複合体で、モンゴル帝国が中央ユーラシア全域に拡大する時の良い前例となった。 モンゴル人はウイグル人を支配下に入れたが、文字、宗教を彼等から学び、才能豊かなウイグル人は元朝時代のいわゆる色目人の中枢となって文化と帝国の統治改革や商業の面で活躍した。 ところで現代中国新疆ウイグル自治区のウイグルというのは、このウイグル人とは直接の関わりはない。現在ウイグル人と呼ばれている住民は20世紀初めまで固有の民族名はなかった。1917年の革命後のソ連で「民族的境界区分」のため、民族とその自治領土の画定が人工的に強行され、ソ連領中央アジアに住んでいた新疆出身の民族運動家が、彼らの民族名を古代からの伝統を継承するものとしてウイグルと自称した。その後、この呼び名が新疆でも広まり、1935年に新疆省の将軍が、西はカシュガルに至る定住トルコ族を正式にウイグルと呼ぶことにしたものである。従って、現在のウイグル族は、9世紀にモンゴル高原にいたウイグル帝国の遊牧騎馬民族の直接の子孫ではない。 4.遊牧民の宗教 ここで遊牧騎馬民族の宗教について簡単に触れておきたい。北アジアの遊牧騎馬民族には古くからシャーマン教というものがあった。シャーマンというのは英語で、言葉の起源は満州トゥングース語のサマン(巫)で、シャーマン教は天地万物に精霊があると信じるアニミズムを基盤とし、巫が神懸りになって天神精霊と人間との媒介者となって予言を行い、病気を治すと言われているものである。シベリア南部から朝鮮半島、そして日本にも入ったが、この地域では女巫が多く、北方では男巫が多い。 バイカル湖周辺はシャーマン教が盛んだった地域で、今もシャーマン教が生き残っている。その後、紀元前7世紀に古代イランの予言者ゾロアスターが始めたゾロアスター教が入り、3世紀後半に南バビロニアで生まれたペルシャ系宗教、マニ教が入って来る。マニ教は善悪二元教でマニは予言者。ウイグル人がソグド人に影響されてモンゴル高原にマニ教寺院が建設されたのである。 ソグド人はゾロアスター教徒だったがネストリウス派キリスト教、マニ教、仏教の信者もおり、遊牧騎馬民族に宗教を伝道する役目も果たした。しかし、8世紀にアラブ軍がサマルカンドに侵入して急速にイスラム化し、やがてソグド人自身がペルシャ語(後のタジク語)を使うようになり、ソグド゙という名前は歴史から消えて行った。 キリスト教の中では紀元431年のエフェソス宗教会議で異端と宣言されたネストリウス派が東方に広まった。この宗派はアッシリア東方教会とも呼ばれ、イランや中央アジアで布教しソグド人に伝わってモンゴル高原に入り、驚くべきことにチンギス・ハーン時代にはオングト、ケレイト、ナイマン等の大遊牧部族の王達がネストリウス派キリスト教徒だった。 後代になってモンゴル帝国の後裔達が仏教とイスラム教の二大宗教信者に二分され、モンゴルではこの仏教、すなわちチベット仏教が民族形成に深く関与し、現在にまで続いている。なお、チベット仏教をラマ教と書いているものが時折見られるが英語の誤訳で、ダライ・ラマがチベット仏教の最高僧を意味するようにラマとはチベット仏教の高僧を指す呼び名で仏教名ではない。 仏教がチベットに伝わったのは8世紀、吐蕃(とばん)王国の時代でインドの厳しい仏教が正統とされたが、吐蕃王国が分裂後、性瑜伽(ヨーガ)のタントラ仏教が広まる。10世紀に戒律復興の動きになり新しい正統派仏教教団が結成された。モンゴルとの関係では1239年、第二代オゴデイ・ハーンの次男がチベット攻撃に向かい、中央チベットに入り名刹を炎上させるなど猛威を振るった。名僧クンガがモンゴルとの交渉に赴き、甥のバクバがフビライの信を得た。この後、フビライはチベット仏教を庇護するようになりモンゴル民族に浸透するが、元朝がモンゴル高原に撤退後、元朝宮廷に広まっていたチベット仏教も途絶えた。その後またモンゴルにチベット仏教が前述の通り復活する経緯は別記したい。 5.契丹(キタイ)帝国
領土は満州、モンゴル高原、沙陀トルコ人地域に及び各地に本拠地を置き、今の北京の地にも南京析津府が置かれた。遊牧民は部族に、定住民は州・県に編成して北面官が遊牧民を、南面官が定住民を管轄した。皇帝の私領を皇帝の住む大天幕とそれに従う家来の天幕群を含んで「オルド」と呼んだ。この「オルド」は言葉ごとモンゴル帝国に継承された。皇帝は都市には住まず、季節毎に決まったキャンプ地を移動していた。これはウイグル帝国の風習を受け継いだもので、モンゴル帝国にも引き継がれた。 6.金帝国 キタイが渤海を滅ぼした後、キタイの太祖の長子、突欲が渤海国を改称した東丹国の王となったが、父の死後キタイに帰り、東丹の官庁や人民を東平(遼陽)に移してここを南京としたため渤海国旧土は支配者不在となった。そこに、元々黒龍江下流にいた黒水靺鞨が南下してきて各地に住み着いた。彼らはジュシェン族と呼ばれるトゥングース系の言語を話す狩猟民で、唐代の黒水靺鞨の一部族の後裔である。中国では「女直(じょちょく)」、「女真(じょしん)」と書かれた。
金帝国はキタイの領土に華北を加えた領土を得たが、遊牧地帯は内モンゴルまでで、漠北モンゴル高原には支配が及ばなかった。これはキタイ人が遊牧民出身であったのに対し、ジュシェン人は森林の狩猟民出身だったからである。この支配が緩んだモンゴル高原で遊牧民部族間の主導権争いが起こり、やがてチンギス・ハーンが台頭できる舞台が出来上がるのである。 7.カラキタイ(西遼) 1125年、キタイ帝国が滅びる直前、キタイの皇族耶律大石は漠北に逃れ、モンゴル高原統治軍基地カトンバリクに7州のキタイ人と遊牧民18部族を集めて皇帝に就きグル・ハーンと称する。間もなく全軍を率いて西方に移動しバラサグンを本拠として中央アジアを支配した。これがカラキタイで、支配層は仏教徒だったが、10世紀以降カラハーン朝トルコ人のイスラム王朝が勢力をふるった地域であったので被支配層はイスラム教徒だった。カラキタイ最後の君主はチンギス・ハーンに追われて亡命してきたナイマン族の王子クチュルクを娘婿にしたところ彼に国を乗っ取られた。 1218年、クチュルクがモンゴル軍に殺されてカラキタイは滅んだ。
かど のぶゆき、 |
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