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10数年前に米国シアトルのボーイング社の航空博物館(Museum of Flight)で“THE SPIRIT OF ST.LOUIS”と題した本を買った。これは1927年に大西洋(ニューヨーク→パリ)単独無着陸飛行に成功したチャールズ・リンドバーグの自叙伝で、一読して大変感動した。今年(2007年)はその80周年に当たるが、再度読んで感動を新たにした。そこでこの前人未踏の偉業を、彼が他の競争者が失敗している中で最初に成功したのは何故かを、この彼の自叙伝に基づいて私の見解として紹介したい。
なおこの自叙伝は彼が郵便飛行を飛んでいるときに、大西洋横断飛行を思いついてからパリのル・ブルジェ飛行場に着陸するまでの経過を書いたもので、途中大西洋上の飛行の間に彼の生い立ちの話を織り交ぜた名著である。 この本はリンドバーグが正確を期すため長い間かかって書き、何度も書き直して完成し、1953年即ち1927年の飛行成功から26年後に出版された自叙伝で、たちまち一年で数十万部も売れ、翌年の1954年春にピューリッツア賞を贈られたものである。周知のことであるが、ここでこの飛行を振り返ると以下のとおりである。
リンドバーグは1926年、郵便飛行のパイロットとして飛行中、ニューヨーク・パリ無着陸飛行に挑戦することを思い立った。 ニューヨーク市のレイモンド オルテグによって1919年に設けられた「パリまたはフランスの海岸からニューヨークへ、またはニューヨークからパリまたはフランスの海岸に、最初に無着陸で飛んだ陸上機または水上機の飛行家に25,000ドルが与えられる」という「オルテグ賞」を目指して、当時既に欧州と米国で何人かの飛行家達が飛行の準備を始めている状況にあった。 リンドバーグは先ず必要資金を集めることから始めねばならなかった。本人が所持金2,000ドルを出すことから始まり、セントルイスのランバート飛行場での郵便飛行の仲間を始め、飛行会社、セントルイスの実業家、銀行の幹部により資金を支援するグループが出来た。そして支援グループは資金のことは引き受けるからリンドバーグは具体的な飛行計画に専心することとした。 リンドバーグは具体的な計画を立てたが、三つの点で他の飛行家グループと異なっていた。このことが他に先立って、ニューヨーク・パリ単独無着陸飛行の偉業を成し遂げた大きな要因であったと,私は考えている。
第一の要因 単発機で飛ぶと決めたことについて リンドバーグがニューヨーク・パリ 無着陸飛行を計画しセントルイスの支援者に資金面の支援を求めた時、支持者は皆当然双発又は当時使われていた三発機(フォッカー・トライモーター又はフォード・トライモーター)を使うものと考えそれを薦めた。しかし彼は違った。当時の双発機も三発機も一つのエンジンが停止したら残りのエンジンで飛行を継続することは出来ない(特にプロペラは固定ピッチで、フェザー不可能)。そして同じ信頼性のエンジンでは一つのエンジンが故障する確率は単発機のほうが低いからであると説明し納得させた。これは理論的に正しい考えであるが、当時の一般常識とは違っていた。また郵便飛行を飛んでいた彼は単発機で単独で昼夜を問わず飛んでいた経験があったことも、この決心の基になっていると思う。 彼は当時の最も優れたエンジンであるライト・ホワール・ウィンド空冷星型エンジンについて、ライト社を訪ねてその信頼性について質問し、故障率は9,000時間に1回との回答を得ており、このエンジンの使用を考えた。 当時単発で性能の優れた機体としてはジュセッピ・ベランカ(Giuseppe Bellanca)が設計し製作した機体が1機あった。この機体(ベランカ)は高翼単葉でライト・ホワールウィンド・エンジンを搭載し、最高時速130マイルであった。彼はこの機体の所有者であったライト・ベランカ会社と購入について交渉し、価格は15,000ドルで合意し、代金も用意したがベランカ側の代表チャールス・レヴァイン(ベランカ機の新しい所有会社コロンビア・エアクラフトの会長)がベランカ機の評判を守るため、操縦者はベランカ側が指定する者でなくてはならないとの条件をつけたため決裂した。 リンドバーグは当時郵便飛行用の機体を製作していたサンディエゴにあるライアン エアライン(Ryan Airline)にライアン社が製作していた機体Ryan M-2をベースに新しい機体の製作を打診し、同意を得た。リンドバーグは直ちにサンディエゴに飛び、ライアン社のチーフエンジニアのドナルド・ホールと設計について打ち合わせを開始した。時は既に1927年2月になっていた。同様にニューヨーク・パリ飛行を準備中の競争者に負けないため納期を二ヶ月とするよう要請し同意を得た。 機体の仕様の概略はRyan M-2の主翼の翼幅を大きくし、胴体では二つある操縦席のうち主翼下にある前方席を取り外してそこに胴体燃料タンクを着ける、其の後ろの操縦席からは前方は見えないが、もともと尾輪つき機体では離陸滑走の初期では前方は見えないので、操縦者の横に窓を設ければ良しとし、操縦席は突出させず主翼より後方の胴体内に納めて空気抵抗を減らすこととした。水平尾翼は変更しなかった。結果として縦安定が悪くなったがこれは逆に大西洋上で睡魔と闘って飛んでいるとき緊張感を維持するのに役立ったと、この自叙伝の中で述べている。 1927年4月末近くに“THE SPIRIT OF ST.LOUIS号”の組み立てが終わり4月28日にリンドバーグによるテストに入った。テストの結果確認された最大飛行速度は設計最大重量時毎時120マイル、飛行の終わりの軽量時毎時124.5マイルで、計算による飛行可能距離は無風で425ガロンの燃料の場合、理想的な経済速度の場合は4,110マイルで、実用的経済速度の場合では4,040マイルであった。ニューヨーク・パリ間の距離は大圏コースで3,600マイルであるので、悪条件下でも飛べる燃料を積んだことになる。リンドバーグによる大西洋横断飛行の成功により、後にサンディエゴ飛行場はリンドバーグ・フィールドと名づけられた。 第二の要因、単独で飛行する決心をしたことについて リンドバーグの支持者たちは、搭乗者は当然二人以上と思ったが彼は単独で飛行すると決めていた。郵便飛行の経験から単独で飛ぶ自信があったためと思われるが同じオルテグ賞を狙って1926年9月に離陸に失敗したルネ・フォンクの例をあげ、複数の乗組員では機体も大きく重くなり、乗員相互の意見の調整に時間がかかり早く事が運ばないので、単独が良いと述べている。 ちなみにルネ・フォンクは、第一次大戦でのフランスの撃墜王で、渡米してオルテグ賞獲得のためアメリカ企業グループが集めたメンバーに合流した。いろいろ論議の後に乗組員はフォンクの他に副操縦士、航法士兼航空技師、無線係りの三人と決まり、使用機は3発のシコルスキーS-35で内装も贅沢で無線機はじめ搭載品も多かった。9月15日朝ルーズベルト飛行場で離陸滑走を始めたが浮揚出来ず、滑走路の先にある窪地に消え爆発、フォンクとあと一名は助かったが他の二名は焼死した。 リンドバーグはもう一人の乗組員を乗せずに、その座席スペースに燃料タンクをつけ、一人の重量分だけ燃料を積んだほうが良いとした。また十分な燃料を積むため不要なものは極力排除した。“THE SPIRIT OF ST.LOUIS号”は胴体は羽布張りで内装は何も無く、胴体側面が操縦席に座った操縦者の肘が触れるほど断面が小さくなっていて、空気抵抗を減らした。 航法については機体製作のためサンディエゴに滞在している間に、近くの海軍基地に行き海軍士官に、セクスタント(六分儀)の使用と無線機の装備について質問したが、単独飛行では操縦しながらの天測は難しいと言われ、無線も器材が重く、しかも必要なときに役立たないと言われて、セクスタントと無線機は搭載せずその重量分も燃料を積むこととした。この結果燃料は合計425ガロンとなり、その分胴体燃料タンクを大きくした。 しかし単独飛行であるがゆえに一睡も出来ず、大西洋上の夜間飛行とそれに続く昼間飛行では睡魔と闘うのが如何に大変であったかが自叙伝でリアリスティクに語られている。 リンドバーグがサンディエゴで“THE SPIRIT OF ST.LOUIS号”の製作に立ち会っている間に、大西洋横断飛行を計画している競争者の動向が報道されつつあった。 4月16日 リチャード・バード海軍中佐ほか3名は大西洋横断に使う3発のフォッカー単葉機の最初の試飛行ののち、着陸の際にひっくり返り大破、修理に時間を要する。 4月19日 コロンビア・エアクラフト会社はベランカ機の航空士にロイド・バートーを選んだこと、操縦者はクラレンス・チェンバレン又はバート・アコスタが飛行直前に籤で選ばれることを発表した。 4月22日 ベランカ側は機体作業を急いでいる。秘密裏の離陸は数日以内と推定される。 4月24日 ベランカ機は命名式の後の飛行で離陸滑走中に脚の部品が飛散したが操縦者チェンバレンの熟練により片側の脚で巧く着陸し損傷は軽微。 4月26日 数日後に大西洋横断飛行を行う予定の海軍少佐 ノエル・デイビスと海軍中尉 スタントン・ウースターはライト・ホワール・エンジン3基をつけた大型機キーストーン・パスファインダー複葉機に大西洋横断飛行時と同等の荷重を積んだ飛行で、沼地に墜落して死亡した。 5月8日 第一次大戦のフランスのエース シャルル・ヌンジェセールと名航空士のフランソア・コリは特注の単発のルヴァッスール複葉機でル・ブルジェ飛行場を早朝に離陸し、西方に飛び去った。そして消息を絶った。 リンドバーグにとって、事は急を要する事態であった。まだベランカ・チームとバード・チームは準備を続けており、他にも名乗りをあげている人たちがいた。 5月10日 リンドバーグはセントルイスまでの無着陸飛行に必要な燃料を積んでサンデエゴのノース・アイランドを午後4時に離陸。一路セントルイスに向かった。途中山脈を越えるため8,000フィートより高く上がったところでエンジンが激しく振動し、息をついた。スロットルとミクスチャー・コントロールを調整しながら、状況を改善してロッキー山脈を越えた。トラブルの原因は高度と低温による気化器のトラブルと推定された。そのため、ニューヨークで気化器にヒーターを着けることにした。結果、大西洋横断中エンジンは何の問題も起こらず順調に働いた。 5月11日 午前セントルイスに着陸。当日支持者達による壮行会がいろいろ提案されたが、一日も早くニューヨークへ行く必要があるとしてそれらを断り、翌12日朝セントルイスのランバート飛行場を立ち7時間後にニューヨークのミッチェル飛行場に着陸した。 早速機体の整備、特にエンジンの整備がライト航空会社の整備士によってスタートした。リンドバーグは協力会社の助力を得て飛行準備を行い、滑走路の調査の結果、滑走路が一番長いルーズベルト飛行場から出発と決定、ミッチェル飛行場が近いので機体は陸路で運んで出発する事になった。しかし大西洋上の天候が悪く、回復するまで待機せざるを得なかった。 第三の要因 飛行計画について 飛行計画は結果としてその通りに実行されたが、途中、夜の大西洋で悪天候と結氷を避けるため計画ルート(大圏コース)より南に迂回を余儀なくされ、また一時的に磁気嵐によると思われるコンパスの異常表示に混乱させられ、更に猛烈な睡魔と戦わねばならなかった。 5月19日まで飛行ルート上の天候は、回復しなかった。19日の夜は助力者に誘われて観劇に行く予定であった。劇場に行く途中で念のため電話で気象局に予報を聞いたところ、天候は急激に快方に向かっているとの返事を得た。そこで急遽、翌20日朝出発と決め、観劇は中止した。19日の夜は殆ど眠る時間は無かった。 20日朝のルーズベルト飛行場ではベランカ・チームの格納庫に明かりはついているが、直ぐ離陸に入る気配はなく、バード・チームはまだテストが必要とのはなしである。これら競争相手に先んずることが出来たのは、単独飛行で総てをリンドバーグ一人で即座に決定できる第二の利点の結果であった。 午前7時52分リンドバーグは燃料満載の“THE SPIRIT OF ST.LOUIS号”で、雨続きで所々水溜りのあるルーズベルト飛行場の滑走路で、離陸を開始した。バウンドしながら速度を上げ滑走路いっぱいを使って、末端にある電線を20フィートの差でクリヤーして離陸に成功、一路東に向かった。幸い天候は回復して地上が良く見えた。 8時間後にノバスコシア上空を通過、12時間後の夕暮れにニューファウンドランドのセント・ジョーンズ上空を通過し、予定通りの飛行を確認し、夜の大西洋に向かった。 夜に入って霧が出てきたので、リンドバーグは星を頼りに飛ぼうとして高度を5,000フィートまで上げ、薄い霧を透して星を眺めながら飛んだ。ニューヨークを出発後14時間目に入った時には高度9,300フィートまで上がっていたが、周りはそれより高い雲の連続であった。機体としても肉体的にも15,000フィートまでは上がれると思ったが、雲の上には到底出られそうに無くしかも操縦室内がひどく冷えてきた。高度計は10,500フィートを指していた。 リンドバーグは革の手袋を急きょはずして腕を外に突き出してみた。とたんに、冷たい雨が針のように手のひらを刺した。懐中電灯を取り出して翼の支柱を照らした。前縁が不規則に光っている。氷だ! 氷結の危険性は十分に分かっていた。 また今飛んでいるのが北の果てのニューファウンドランドとほぼ同じ緯度で、しかも夜の冷気の中であることを考えれば、おそらく海面までどの高度を飛んでも着氷は避けられないであろうと考えた。しかも、もし高度を下げて計器や操縦装置が着氷で動かなくなったら二度と上昇出来なくなる。 リンドバーグはそう考えて針路を変更して南に向かい、荒天の空を迂回することとした。それは予定コースから外れ燃料を余計消費することになるが、氷は直ぐ薄くなっていった。ところが、頭上の磁気誘導コンパスと液体コンパスを見ると、両方とも異常をきたしていた。磁気嵐に入ったと推定されたが、暫くは勘に頼って飛ばざるを得なかった。 16時間目に近づくころ、雲の切れ目が広がり月の光がさし込んだ。漆黒の闇の中の飛行は終わった。 飛行が17時間目に入ると40時間近く眠っていないことになるので、抗しがたい睡魔に襲われ、朦朧とした状態で飛び続けて行った。 18時間目に入った。明け方だ。あと1時間で太陽が水平線に顔を出す。太陽が出て明るくなれば眠気が覚める筈。しかし今度ばかりは確かではない。これまでこんなに眠りたいと思ったことは無い。“THE SPIRIT OF ST.LOUIS号”を安定な機体に作らなかったことに感謝する。今夢を見ているような状態の中で、機首の方向の変化が、私の鈍い感覚を刺激する。一寸操縦桿や方向舵への圧力をゆるめると、機は上昇や機首下げを始めて私を眠りの世界から引き戻す。そして私はコンパスに目を据えて方向を維持する。 19時間目に入った。朝の明るさが強くなってゆく。雲は緑色から灰色に変わり、そして赤から金色になった。もう夜ではない。雲の中を飛ぶ。時々雲が切れる。 20時間目に入った。高度8,800フィート。朝になった。降下して海を見て飛ぶ時だ。しかし余り急激に降下するのを止めて、8,000フィートで水平に戻る。雲の切れ目から海が見えた。その表面は白く汚れ、皺で覆われている。8,000フィートから見て皺が見える。海は荒れている。波の方向から判断して、風は北西より吹いていて、ニューファウンドランドの海岸を夕方飛んだときと同じ方向であるが、強さはもっと強くなっている。強い追い風だ。機首を下げて1,000-500-50フィートと降下。海全体が白く、泡の縞で覆われている。雲が低く垂れ込め、視界悪く気流も悪い。1,000フィートまで上昇。霧は一向に晴れない。まだ半分眠りながら飛んでいる。1,500フィートまで上昇。 21時間目に入った。相変わらず霧の中の盲目飛行が続く。あと1時間盲目飛行を続ける。 22時間目に入った。苦しい飛行を続けている時、背後の胴体部に沢山の幽霊(Ghost)が集まりだした。ぼんやりとした輪郭の、透明な、重さの無い人影がうごめいていて、私と一緒に機内にいた。 雲が薄くなり、輝く日の光の中に入った。青い空。海はそれほど荒れておらず、風も弱まり、方向が変わり、機の後方に廻った。明るい光、広い空、はっきり見える波に勇気づけられる。多分大きな嵐の地域は通り過ぎたようだ。 23時間目に入った。雲がいろいろな高度に浮いている。雲の上を飛んだり、下を飛んだり、雲の層の間を飛んだりして行く。風は弱まりつつある。高度500フィートで霧の層の上を飛んでいるが、時々短時間霧の中に入る。 一時、左翼下5-6マイルのところにコースと平行した海岸線が見えた。もやのかかった丘、木立、岩の断崖。しかしこんな大西洋の真中に陸地がある筈がない。蜃気楼か霧の島に違いない。1時間程で見えなくなった。太陽が高く上がるにつれ、雲が切れ、水平線がはっきり見える。 24時間目に入った。太陽の光が操縦室にきらきら光る。速く動く雲の影の合間に波が光る。海は水平線まで続いている。太陽は真上に来ている。しかしまだ眠気が覚めない。このままでは死ぬぞ。命が危ないとの死の恐れが眠気を払うのに最も効果的であった。 頭を窓から外気の流れにさらし、大きく呼吸し、やっと目がはっきりし、遂に眠気を吹き飛ばした。すっかり目が覚めた。燃料は十分残っており、機体にもエンジンにも悪い兆候はない。今、ニューヨーク時間 7時52分。出発から、ちょうど丸一日経った。 25時間目に入った。正常になった頭で、風の影響でコースからどの程度南又は北にずれてしまっているか、いろいろ計算して考えた。結論として、おそらくコースから大きくずれてはいないと思われるので、方向を大きく変えることなく、そのまま飛ぶこととする。 26時間目に入った。これまでの25時間で300ガロンの燃料を使った。機体は軽くなっているので、エンジンを少し絞って経済速度で飛ぶことが出来る。しかしエンジンの回転を少し上げて機速を上げ、明るいうちにアイルランドか欧州の海岸に到着した方が、この飛行の成功する率を高くする。スロットルを少し進めて、機速を7マイル/時上げた。日没までに50マイル余分に飛べる計算になる。海面に1匹のイルカを見た。幻影でなく本物だ。 27時間目に入った。海面近くまで降りる。鴎が見えた。陸地が近いのか、船について来たのか? 南西2-3マイル先の海上に黒い粒が見える。よく見ると船だ! 数隻の船が海面に散らばっている。漁船だ。ヨーロッパの海岸は近い。一番近い船の上50フィートまで下り、エンジンを絞り、叫んだ、「アイルランドはどっちだ」。船の窓から人の頭は見えるが、動かない、何の反応もない。 28時間目に入った。スコールの間から水平線をあちこち見る。陸地らしきものが見える。もしアイルランドなら予定より2時間半早い。フィヨルド海岸が現れた。内側には瘤のある山に向かって緑色の斜面が見える。 これはアイルランドに違いない。持参のチャートと比べて、場所を確かめる。これはヴァレンシアとディングル・ベイ、アイルランドの南西海岸だ。信じ難いが、殆ど正確に計画したルート上にいる。太陽はまだ空の高い所にいる。天候はよくなっている。人々が道路に飛び出して、見上げて手を振っている。大西洋上の追い風のお陰で2時間半早くアイルランドの海岸に到着した。 29時間目に入った。追い風が強くなった。所々にスコールがあり、薄い靄がかかり、上空は晴れている。後2時間弱前方に英国のコーンウォール海岸がある。私の飛行は終わりに近づいている。困難な飛行の部分は過ぎ去った。燃料も沢山ある。 (飛行の成功を確信したリンドバーグは以下の予見を述べている。) 「航空機がニューヨークとパリの間を無着陸で飛ぶことが出来るとき、航空は、なんと無限の可能性を持っていることか! 旅客と郵便がアメリカからヨーロッパに毎日飛ぶ時が必ず来る。その場合安全上、天候が一番問題だ。みぞれの中を飛び、霧の中で着陸する手段を見つけねばならない」 30時間目に入った。日没までに英国に入るため、エンジンの回転を上げ、機速を110マイル/時にした。英国上空か、イギリス海峡が霧の場合、フランスが霧の場合どうするか、いろいろ対策を考える。英国の海岸が水平線上に見えた。コーンウォール上空に霧は無い。 31時間目に入った。コーンウォールの天候は良く、地上が良く見えた。太陽がゆっくり沈みつつあるが、あと1時間は沈まないであろう。暗くなる前にフランスの海岸に到着出来るだろう。あと1時間でフランスだ。既にイギリス海峡上空に来た。 32時間目に入った。ヘーグ岬、フランスの海岸が日没の明かりの中で輝いている。この海岸上空を、13日前にヌンジェセールとコリが西に向かって大西洋に飛んだのだ。 シェルブールの町を見下ろした時、太陽は殆ど水平線に触れていた。我が機から2,000フィート下はフランスだ。もう何があってもフランスに着陸出来る。パリまで僅か200マイルだ。しかも半分は薄暮の中だ。前方の空は晴れている。ここでリンドバーグは、ル・ブルジェに着いた後のことをいろいろ考えた。 33時間目に入った。ニューヨークから殆ど3,500マイルだ。無着陸飛行距離の世界記録を破った。1時間程でパリの灯が見えるであろう。日没後の西の空はまだ赤い。地上はすっかり暗くなった。2,000フィートまで上昇。 暗闇の中で何マイルか先に明かりが光った。暫くしてまた光った。航空灯台だ。その先にさらに二つ光った。ロンドンとパリの間の航空路に違いない。“THE SPIRIT OF ST.LOUIS号”は素晴らしい飛行機だ。まるで生き物のように、順調に、幸せそうに飛んでいる。 34時間目に入った。時間は4時52分。 パリ時間で午後9時52分。ル・ブルジェを探す。左側に飛行場の大きさの黒い地面が見える。其の廻りを沢山の灯りが取り巻いている。しかしそれらは直線でなく、規則正しい間隔でもない。 また、ある物は変に集まっている。しかしここがル・ブルジェでなければ、何処か他にあるのか。しかし他に灯りは見えない。 真上に来た。飛行場のように見えるが、警報灯もなくアプローチ・ライトもないし、回転ビーコンもない。リンドバーグは低空を飛んで注意深く観察した。ル・ブルジェに違いない。上空で見た沢山の灯火は自動車の灯りと分かった。 低空で障害物が無いか確かめる。周囲の状況が良く分からないまま、慎重に操縦し、着陸した。ときに午後10時22分。この瞬間にリンドバーグにとって、なにもかもが一変した。 リンドバーグの夫人となったアン・モロー・リンドバーグは後年、次のように書いている。「飛行場で駆け寄ってきた群集と一緒に、名声、チャンス、富が、しかしそれと同時に悲劇と孤独とフラストレーションが、チャールズに押し寄せて来たのです。そして、夫は余りにも無防備で、それにはまったく気づいていなかった。」 -- 完 -- 参考文献
ひらさわ ひでお、(財)日本航空協会顧問 1931年(昭和6年)7月リンドバーグは夫人を伴いワシントンを出発、ロッキード、シリウス号水上機で北太平洋1万2,500キロを飛び、霞ヶ浦海軍飛行場に飛来しました。 リンドバーグ夫妻滞日中の8月28日帝国飛行協会(日本航空協会の前身)、橋本圭三郎副会長は、同夫妻を竣工間もない"飛行館 "に招き、白色有功章を贈呈し、その業績を讃えました。上の彩色写真は航空会館9階の航空クラブに掲げられています。 |
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