一般財団法人 日本航空協会

航空遺産継承基金 ギャラリー 日本陸軍『航空写真帖』昭和8年5月

190/406枚目  画像ファイル名:Ka-089_p073-5.jpg

【オリジナルキャプション】
「バリラ」戦闘飛行学校ニ入校セル派遣員ト同校教官竝ニ「バリラ」駆逐機


総力戦となった第一次世界大戦中、ヨーロッパ諸国は、大量に消耗する兵力・資源に疲弊した。日本は日英同盟から、連合国側に属しており、英仏伊からヨーロッパ戦線への貢献を求められていた。様々な要請のうち、陸軍は英仏からの派兵要請は兵站を理由に断ったものの、イタリアからの航空機材料の提供と航空人材の派遣要請に応えた。当初より、イタリアからの要望には日本人の職工への飛行機製造教育と、飛行将校に対する航空教育が条件に盛り込まれており、陸軍にとってもメリットがあったのである。また、イタリアで教育を受けた将校・職工は、イタリア軍飛行隊に配属され、戦闘に参加する可能性があった。このように、日本とイタリアの両国から、航空技術を学び、発揮することを期待されたイタリア派遣日本航空団であったが、実際には大正七(1918)年十月に日本を出発した後、十一月十一日に第一次世界大戦が休戦となってしまった。このため、航空団は予定どおりイタリアで教育を受けたものの、戦場に出ることはなかった。また、休戦に伴い、当初イタリアが負担することになっていた教育費用は、日本が負担することになった。教育は大正七(1918)年十二月から大正八(1919)年六月にかけて行われた。
このイタリア派遣は、同時期に来日したフランス航空教育団に比べ、陸軍航空の発展に与えた影響は少ない。しかし、発展途上にあり、人材に乏しかった陸軍航空において、イタリア派遣が有益な影響を与えたことは確かである。
 写真は、『飛行』(帝国飛行協会、1940年10月)の記事にトリミングされたものが掲載されている。イタリア派遣団のリーダーだった玉置陸軍少将(派遣当時工兵中佐)による記事で、「伊太利派遣団(後列支柱の前はゴルテスコ大尉、その前に坐してゐるのはグラッサ准尉で共に日伊飛行に殉職、ゴルテスコ大尉の右は玉置少将、左は岡大尉)」とある。岡大尉は、玉置を補佐した岡楢之騎兵大尉のこと。ゴルテスコ大尉は、おそらくMario V.Gordisco歩兵大尉のことで、「フルバラ(Furbara)」戦闘飛行学校(Scuola Acrobazia e Tiro per la Caccia)の校長。
 同じ写真が、「イタリー・バリラ戦闘飛行学校の団員」として、『日本航空史 明治・大正編』p.401(pdf474コマ目)に掲載されている。
「バリラ」駆逐機は、Ansaldo A.1 Balillaのこと。「バリラ」戦闘飛行学校についての記録は確認できなかった。実際に操縦将校がBalillaで教育を受けた場所は、「マルペンサ(Malpensa)」飛行学校、「フルバラ(Furbara)」「チエルベテリー」空中射撃高等飛行学校(Scuola Acrobazia e Tiro per la Caccia)の3つ。
よって撮影場所は「フルバラ(Furbara)」戦闘飛行学校(Scuola Acrobazia e Tiro per la Caccia)と推定できる。
参考:
「伊太利派遣員定期報告第九號(終末報告)」「伊国航空援助に関する件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03025404800、欧受大日記 其3 3冊の内 大正13年(防衛省防衛研究所)(第257~284画像目)
「伊太利派遣員定期報告第六號」「伊国航空援助に関する件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03025404800、欧受大日記 其3 3冊の内 大正13年(防衛省防衛研究所)(第427~441画像目)
玉置美之助、1940、「伊太利派遣団当時の航空断片」『飛行』15(10)、帝国飛行協会(航空図書館所蔵
日本航空協会、1956、『日本航空史 明治・大正編』 航空遺産継承基金アーカイブ:p.401(pdf474コマ目)
松原治吉郎、2023、『陸軍航空の形成――軍事組織と新技術の受容』錦正社(航空図書館所蔵):p.146-190



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