イタリアに残るタイムカプセル2冊の『記念帖』
歴史
ダンヌンツィオ、貞明皇后、田中一村、吉村順三
貞明皇后(1884–1951)、画家 田中一村(1908–1977)、建築家 吉村順三(1908–1997)、イタリアの国民的詩人ガブリエーレ・ダンヌンツィオ(1863–1938)。
一見、何の関係もないように見えるこの4人は、実は一つの歴史的偉業で繋がっていた。
その偉業とは、1920年(大正9年)に敢行された、イタリアと日本を空路で繋いだ史上初の国際親善フライト「ローマ・東京間飛行」である。
ライト兄弟の世界初の有人飛行成功からわずか16年と数カ月後、まだ見たことのない極東の日本を目指して、22人の若きイタリア人パイロット達がローマから次々に飛び立った。
木と布と金属で出来た二人乗りズヴァ式複葉機を操り、3カ月半に及ぶ命がけの大冒険を経て約18,000kmの完全飛行を成功させたのは、飛行士アルトゥーロ・フェラリン中尉(1895–1941)と機関士ジーノ・カッパンニーニ(1900–1940)だった。5月31日に東京の代々木練兵場に到着したもう一機の飛行士グイド・マジエーロ中尉(1895–1942)と機関士ロベルト・マレット(1892–1942)と合わせて4人の飛行家達は、日本で約一ヵ月半にもわたり大歓迎を受けた。
無謀とも思える訪日飛行を発案したのは、三島由紀夫(1925–1970)の芸術と人生にも大きな影響を与えたガブリエーレ・ダンヌンツィオだった(図1)。「芸術作品の様な人生を!」をモットーにした唯美主義者のダンディーな詩人は、親日家で、当時、世に出たばかりの未来的でダイナミックな自動車や飛行機を愛した。第一次世界大戦中の1918年8月9日には、「ウイーン上空飛行」の大胆な軍事プロパガンダ作戦を成功させた。
「ローマ・東京間飛行」計画
大戦後の1919年3月、パドヴァのサン・ペラージョ飛行場で、その7カ月前に「ウイーン上空飛行」を成功させた第87航空部隊セレニッシマの若いパイロット達に向かって、ダンヌンツィオは初めて東京への飛行計画を披露した。
…小雨の降るメランコリックな夕暮れ時、室内にこもる葉巻の煙を振り払いながら私は腹心のナターレ・パッリに言った。
“10日か12日の行程で我々は東京に行かなければならない”
その瞬間、鳥の群れがリーダーに従って一斉に方向を変えるように、それまで虚ろだった彼らの目が輝き、視線は開け放された窓の地平線の遥か彼方に向かった。
全員が立ち上がって叫んだ。“行こう!”
それから我々はファンタジー溢れる飛行計画を語り合った。
“3日目の夕刻にはペルシア湾のバスラに着陸。星空に揺れる世界一美味しい 棗椰子 を探しに行こう。
6日目の昼にはムガール帝国のアラディンの門に着陸。カブール山で熟れ、葉を編んで作った籠に入れたマスカットで喉の渇きを癒そう。群がってやって来る猿たちから機体を護るために我々は苦労するに違いない”…。
“月夜にはジュムナの川辺の静寂に包まれたムガール帝国の白大理石の宮殿の広い回廊の上に着陸。むき出しになった謁見の間には黒大理石の玉座がある。金や銀、 縞瑪瑙 やトルコ石や 斑岩 で施された細密な装飾は月に照らされ、はっきりと見分けられるに違いない”…。
( “Aviatori italiani da Roma a Tokyo nel 1920”,Domenico Ludovico著,1970年,Edizione Etas Kompassよりp.12–13筆者訳)
それは飛行計画と言うより、詩人が、まだ顔に幼さが残る若いパイロットたちに向かって語った異国情緒とロマンにあふれたお伽話だった。
当時の日本の新聞にも「ローマ・東京間飛行」はダンヌンツィオの「夢想」から生まれたと紹介されたが、もちろん現実はこのように甘くはなく、過酷で命の危険に満ちていたが、他人に夢を見させ、他人を 誑 かす事が得意だった天才プロモーターとしての彼の面目躍如たるものがあった。
「ローマ・東京間飛行」は、イタリア機の性能を世界に知らしめるという航空産業界の要望とも合致し、平和時の競技的フライトとして、政府と軍部の支援を受け敢行された。
「ローマ東京ハンガーミュージアム」
私はフィレンツェに在住する画家である。100年前に若き飛行士達がイタリアから命がけで日本に飛んで来たという史実に惹かれ、ズヴァ式複葉機の魅力にすっかりハマってしまった(図2)。
「日伊友好条約締結150周年」にあたる2016年5月、フェラリン中尉の生家があるヴィチェンツァ県ティエーネ市において、複葉機再現プロジェクトを行うジョルジョ・ボナート氏の「ローマ東京ハンガーミュージアム」のオープニングセレモニーが開催された(図3、4)。
そこで私はフェラリン中尉の長男、航空工学博士カルロ氏に会った(図5)。彼は1929年にミラノのモンダドーリ社から出版された父親の回想録『世界への飛行』(原題 “Voli per il Mondo”)を読むように勧めてくれ、「ローマ・東京間飛行」に関する章のコピーを下さった(図6)。
『世界への飛行』
アルトゥーロ・フェラリン中尉は、1895年2月13日、ティエーネ市に、19世紀半ばに創業された毛織物工場を受け継いだ家族の7人兄弟の6番目として生まれた。
明るく陽気でいたずら好きで、兄弟たちが家業に就く中、彼だけが飛行機の道を選んだ。
『世界への飛行』は、1928年に「ローマ・ブラジル間飛行」を共に成功させ、世界記録を樹立したにもかかわらず、ブラジルでの飛行機事故で命を落とし、イタリアに凱旋帰国出来なかった親友の飛行士カルロ・デル・プレーテ少佐(1897–1928)に捧げられた本である。この本の第3章から第10章は、1920年の「ローマ・東京間飛行」にあてられている。
命の危険と飛行機が大破してしまうかもしれない困難な状況の数々を、不屈の精神とたぐいまれな飛行技術で乗り越え、幸運の女神に助けられながら、飛行を続けていく大冒険の様子が詳しく記されている。
この本は、フェラリン中尉の情報をもとに、ロドルフォ・プロッティという人物が代筆したと言われているが、パイロットの視点からの風景や状況の描写が臨場感にあふれ、ロードムービーを見るような面白さがある。
私はそれを読みすすめたが、回想録の常として主観的で不正確な記述もあるので、史実や日本側の対応を知るために、友人の協力を得て国立公文書館、宮内庁書陵部、外務省外交史料館、国立国会図書館、航空図書館、靖国偕行文庫などを訪問して調査した。イタリアの研究書籍も参照した。
その過程で、宮内庁書陵部で貞明皇后の調査をしておられた産経新聞論説委員の川瀬弘至氏と偶然お会いすることができ、拙訳のフェラリン回想録の一節を氏『孤高の国母貞明皇后』(産経NF文庫)にご提供することもできた。
貞明皇后と二冊の『記念帖』
1920年6月3日フェラリンとマジエーロ中尉は皇居で貞明皇后と一般外国人としては異例の謁見を許された(図7)。
回想録で特に印象に残り、私が2冊の『記念帖』を再発見したきっかけとなった重要なエピソードなので、『世界への飛行』第10章の謁見場面の前後の部分(筆者訳)を以下に引用したい。
皇后は、イタリア王国も貴方達の飛行機のように高く飛ぶことを願う。と言われ、女官は一語一句区切って通訳した。我々が世界で初めて空路を通ってヨーロッパから日本までやって来たことをお喜び下さり、我々の国と国王を大いに讃えられた。そして、 青島で日本の高官が私に告げたこと、すなわち、私の飛行機は博物館に保管され展示されるということを改めてお話しになった。女官は漆の机から下賜品を取り皇后に渡し、皇后はそれを直接私達に手渡すことを望まれた。
飛行士達がフランス語を話すことに気付いた皇后は、その時から通訳の女官を介さず、打ち解けた雰囲気で直接会話をお進めになる。
皇后は、我々がローマを出発した日から13歳以下の年齢のすべての学校の生徒にローマ・東京間飛行をテーマにして具象画、象徴画、寓意画など、彼らなりの解釈で絵を描くよう課題が出された。その中から学校で一番優れた作品を集めて2冊のアルバムを作り、そのアルバムをイタリア王妃に贈呈したいので、私達に託すつもりだ。とお話しされた。
約2カ月に及ぶ日本滞在の後、9月にイタリアに帰り(図8)、彼が、ローマのクィリナーレ宮殿に招待された場面にはこう記されている。
国王は私をクィリナーレ宮殿に招待して下さった。
親切にも私を勇気づける言葉を惜しみなくかけ、イタリア王冠コメンダトーレ勲章授与式に立会い、ローマ東京間飛行に関する記録フィルムが一般公開されるに先立って上映会が行われたヴッラ・サヴォイアに招待して下さった。そこには王妃や皇太子たちもおられたので、私はこの機会に日本の皇后から託されたアルバム1冊を王妃に献上した。
しかし王妃は、典雅な思し召しで、私の旅行の貴重な記念品として私の母に贈呈するようにと下賜された。
貞明皇后との謁見場面では「2冊のアルバム」と書かれているが、フェラリンがローマでイタリア王妃に会う場面では「アルバム1冊」と記されていた。私にとっては看過できない記述であった。
ロベルト・フェラリン氏の『記念帖』
私はこの回想録の記述に興味を持ち、イタリアにあるはずの「アルバム」を見たいと思い、調査を始めた。
イタリア空軍アカデミーで教鞭を取る航空史研究の第一人者グレゴリー・アレージ教授に問い合わせてみたが、アルバムに関しては知らなかった。しばらくすると彼から、ミラノに住むフェラリン中尉の次男ロベルト氏が一冊保管しているらしいと連絡があった。
私はさっそくロベルト氏に連絡し、2017年1月11日に約束を取ることが出来た。
実は、私はその年の2月1日から東京の日本橋三越特選画廊で個展「イタリアからの伝言」の予定があり、1月12日に日本に帰国するべくフライトを予約していた。まさに帰国の前日にフィレンツェからミラノにアルバムを見せてもらいに行くことになったのである。
ロベルト氏のお宅で拝見する事が出来たアルバムは、期待に違わず、いや、その何倍も素晴らしい、形容しがたく美しい代物だった(図9、10)。
本来あるべき姿そのままに、厳かな桐箱に収められ、美しい布で装丁が施された表紙には、簡単だが厳かに『記念帖』とだけ書かれていて、縦横約34×24cm、厚みが約6cmだった。
感動と緊張と幸福感から、私はなかなか開いてみることが出来なかった。
ついに意を決し最初のページをめくった時のことは今も鮮明に憶えている。その瞬間は一生忘れられないだろう。
この「記念帖」は、まず「閣下並びに諸君」と記された大正9年6月13日付の東京市小学校教員会の松下専吉幹事長の肉筆の文章が貼付してある(図11、註)。
伊国飛行士達の偉業に敬意を表し、日本とイタリアの古い交流の歴史に想いを馳せ、マルコ・ポーロの冒険と比較しつつ、困難を乗り越えた彼らの不撓不屈の精神と勇気と努力は、東京の小学生に偉大な感化を及ぼし手本となるだろうという感謝の意を表明した文章である。
ジャバラ式に拡げる事が出来る次の頁からは、学校名と氏名年齢を生徒自身の手で記した、数え年7歳から15歳までの小学生が描いた未来的な飛行機や異国に対する憧れを描いた作品、日本の伝統美を継承する様な図案画や風景画、写生画や和服姿の美人画、短歌や日伊親善や飛行成功を祝賀する書など、絵画78点と書38点の計116点の作品が綴じられている。さらに前年に始まる山本鼎の「児童自由画教育運動」の影響を受けたような絵もあり、バラエティに富んだ「大正デモクラシー」の活気が感じられる。優れた美的感覚や構成の絵、達筆の書は、とても小学生の作品とは思えないほどレベルが高い。
飛行士達は、貞明皇后に謁見した際に、皇居の「坂下門」から入り、「桐の間」に導かれたが、その「坂下門」や「お堀」を描いた絵は、謁見が新聞記事になった6月4日以降に描かれたと推定できる(図12)。作品の保存状態は極めて良く、変色もほとんどしてないようだ。
この3年後の1923年には関東大震災が起こり、さらに第二次世界大戦の東京大空襲で東京が灰塵に帰したことを考えると、100年前の東京の小学生の作品がイタリアで大量に保管されていたことは奇跡的ですらある。
私は一枚一枚写真を撮り、ロベルト氏と次女カロリーナさんに書や絵の意味について説明しながら、現在の日本人にぜひ見てもらいたいと思った。
神童・田中一村の作品も発見
2017年1月18日に上野・東京文化会館4F大会議室で「複葉機の夢–アルトゥーロ・フェラリンを待ちながら–」という題で講演をして『記念帖』を紹介した(イタリア研究会主催第439回例会橋都浩平会長)。
後日、NHKの金森誠ディレクターに会い『記念帖』について話し、写真データを渡した。その後、この中に、2018年に生誕110周年を迎えた画家田中一村氏の11歳当時の絵が含まれていた事が確認された(図13)。
田中孝、米邨と署名され、枝垂れ桜からまるで飛行機を見上げる様に空を向く四十雀が描かれている。この絵はさすがに当時も高く評価されていたとみえ、巻頭頁に掲載されている。
私は、フェラリン回想録をきっかけに『記念帖』を発見し、それが田中一村氏の少年期の絵の発見につながったことを大変嬉しく思う。
この『記念帖』の中に、後に田中一村氏と東京美術学校で同級生になり、日展画家になる細谷達三氏の壺の図案画(図14)と、梁瀬商事株式会社(ヤナセ)創業者の梁瀬長次郎氏の長女文子さんの竹久夢二風の美人画(図15)もご親族により確認された。当時、梁瀬商事は「ローマ・東京間飛行」のズヴァ機に使われたエンジンオイルを扱っていて、マジエーロ中尉からの感謝状を載せた雑誌広告も見つかっている。
NHK「おはよう日本」とTBS「世界ふしぎ発見!」
2018年5月に金森ディレクターは、ローマ在住の長澤愛氏、現地カメラマン、私の計4名でイタリア取材を行った。
フィレンツェの私のアトリエを皮切りに、ティエーネ市のフェラリン中尉の生家、ジョルジョ・ボナート氏のローマ東京ハンガーミュージアムと複葉機復元製作工場、ヴィトリアーレ博物館、ヴァレーゼ県インドゥーノ・オローナ市のカルロ氏のお宅まで続いた(図16)。
その後、ミラノのロベルト氏のお宅で『記念帖』の撮影とインタビューの予定であったが、残念ながらロベルト氏の体調が悪化し、中止になった。
したがって5月31日に放送されたNHK「おはよう日本」では「ローマ・東京間飛行」の歴史と複葉機再現プロジェクトが中心となった。番組の中ではカルロ氏のお宅で『記念帖』の田中一村作品が一瞬だけ紹介された。
ロベルト氏は、その2カ月後の7月22日に80歳でお亡くなりになった。あとで聞くところによると、建築家だったロベルト氏は、この『記念帖』をとても気に入っておられ、折に触れてご覧になっていたそうである。
こうしてロベルト氏へのインタビューは永久に不可能になってしまったが、『記念帖』を大切に保存して下さっていた氏には、私は日本人の一人として、今も心から感謝している。
ジョルジョ・スタラーチェイタリア大使もインタビュー出演され、同年11月24日に放送されたTBS「世界ふしぎ発見!日本×イタリア天空浪漫飛行」(齋藤龍太ディレクター、ミステリー・ハンター依吹怜さん)のイタリア取材にも私は同行したが、その時もロベルト氏のご遺族の意向で、『記念帖』の撮影は出来なかった。
イタリア空軍航空博物館の『記念帖』
2017年10月、ロベルト・フェラリン家所蔵の『記念帖』には収録されていないが、明らかに東京の小学生が描いた一枚の絵の写真が、グレゴリー・アレージ教授から送られてきた。その絵に署名されている日本語(小学校名、氏名、年齢)をイタリア語に訳してほしいという依頼だったが、その絵は空軍関係の本に掲載されていて、著者は数年前に亡くなっていた。これはやはり、謁見場面の記述通り、もう一冊の『記念帖』がどこかに存在している証拠だった。
ところが2019年10月、航空写真家ルイジーノ・カリアーロ氏から、私に、同じ絵について全く同じ問い合わせがあった。
彼はこの絵の写真を、ローマ近郊ヴィーニャ・ディ・ヴァッレのイタリア空軍航空歴史博物館のアーカイブから入手し、写真資料のみならず『記念帖』の実物も保管されていることを教えてくれた。
私は、11月26日、デザイナーの錦戸春海さんとフィレンツェから車で約4時間の航空歴史博物館の資料保管所に向かった。
ロベルト氏所蔵の『記念帖』には計116点の作品が収蔵されていた。私は航空歴史博物館の『記念帖』にもほぼ同数の作品が収録されていると予想していた。しかし、こちらの『記念帖』には桐箱が無く、表紙は痛みが激しく、松下専吉氏の挨拶文と絵35点と書15点の計50点が収録されていた。私は実物を手に取り見る事ができた喜びはあったが、少し違和感が残った。
この中にも、のちに歴史に名前を残す重要な方々の作品が含まれていた。
建築家・吉村順三氏の鈴虫の図案画
吉村順三氏は皇居新宮殿の基本設計やニューヨークのジャパンハウスやネルソン・ロックフェラー(第41代米国副大統領)の邸宅設計に携わった国際的に著名な建築家である。
11歳の時の作品(図17)は、東京本所にあった実家が呉服商を営んでおられたという事がうなずける、着物の柄を思わせる鈴虫をあしらったきわめて繊細で几帳面な図案画で、後の建築家吉村順三氏の作風が既にうかがわれるようだ。
貞明皇后が伊国飛行士と謁見し『記念帖』についてお話しされたという「桐の間」があった明治宮殿は1945年の空襲で焼失した。『記念帖』に絵が選ばれた当時11歳だった吉村順三少年が、やがて皇居新宮殿の基本設計に携わる事になる。『記念帖』を通じて、今まで隠されていた数奇な運命の巡り合わせが明らかになった。
吉村順三記念ギャラリー代表の御息女、隆子さんによると(図18)、順三氏の父親はその年の1月に世界中を席巻したスペイン風邪で亡くなられたそうである。しかも順三氏の実家は、3年後の関東大震災で焼失し、これが現存する最も古い絵という事もわかった。
馬術オリンピアン・稲波弘次氏の航程図
1936年のベルリンオリンピックの馬術競技に参加した稲波弘次氏の12歳の時の絵には、ローマから東京に向かうルートを示す世界地図に両国の国旗があしらわれ、イタリア出発時にはベスビオ火山を背景に7機が描かれ、日本到着時には、富士山に2機が配されている(図19)。
イタリアから飛び立ったズヴァ式複葉機は7機(先行隊2機+本隊5機)だったが、日本には先行隊の2機しか到着しなかったという経緯をよく理解したうえで描かれている非常に理知的な絵だ。
氏は、レニ・リーフェンシュタール監督の有名な映画「美の祭典」(1938年)の水濠障害の場面で出演されている。
稲波弘次氏のご子息は、東京の岩井医療財団会長の稲波弘彦氏であることが判明したが(図20)、父の弘次氏は、「ナチスは他国の選手を落馬させて自国の選手を勝たせるために、水濠に卑怯な仕掛けをしていた」と生前語っておられたそうである。
実際その場面をよく見ると、水濠中央を大胆に飛んだ選手は、極端に深く掘られていた為、ほとんど落馬しているのに対して、事前にそれを知らされていたドイツ選手は左側の浅い部分を用心深く飛び、ほとんどが成功している様だ。
映画監督仲倉重郎氏の父で、鉱物学者だった仲倉仙太郎氏の書「鵬程萬里」、平井地形模型製作所を創立された平井順吉氏の絵「東京代々木練兵場の歓迎会でのドラゴンの山車になったフィアット車」もご子息により確認された(図21~23)。
その後ティエーネ市の航空研究同好会からの情報で、ある日本人女性がローマの骨董品店で購入した東京の小学生の書道作品27点が存在している事が判明した。現在イタリア空軍航空歴史博物館所蔵の『記念帖』から、博物館に収蔵される前のプロセスのどこかで頁が切り離されて、流出したものと推測される。私は27点の写真データを入手しているが、今これらの作品は行方不明であり、もしかしたら他にも散逸している作品があるかも知れず、今後も調査は続く。
イタリアでは、フェラリン回想録『世界への飛行』の記述をもとに、『記念帖』は貞明皇后からイタリア王妃への贈呈品だった、と言うのが定説になっている。しかし実際の関与はどうだったのだろうか?貞明皇后と飛行士の謁見時の会話の中身は、フェラリン回想録の他に記録が見つかっていないので推測するより他にない。
まだまだ謎が多い『記念帖』であるが、今後の調査研究で謎が解明されることを期待したい。
伊国飛行士達には様々な記念品が贈呈されたが、現在から振り返ってみると小学生の作品を集めた『記念帖』を贈呈すると言うアイデアが最も秀逸だったのかも知れない。
『記念帖』の「里帰り展」開催に向けて
航空ライター阿陁光南氏のブログ「風の探検隊」の記事で、イタリア空軍航空歴史博物館で『記念帖』の特別展示が2010年に行われていた事を後から知った。
2冊の『記念帖』を再発見するまでに、私は少し遠回りし過ぎたのかも知れない。
しかしそれは取りも直さず、これまで日伊両国の航空史研究家の間で、『記念帖』の系統的な研究がなされず、情報が共有されて来なかった事の証左とも言えるだろう。
重要な事は、これから『記念帖』が日伊両国にとって貴重な共有の航空文化遺産であると認識し、尊重してゆく事ではないだろうか。
言うまでもなく、作品に署名されている氏名、年齢、学校名や、短歌や書道作品は日本語が読めない限り、本当の意味は理解できない。日本文化や東京の地理、激動の現代史の中に位置づけ、作者とご子孫のファミリー・ヒストリーを掘り起こし、初めて『記念帖』の本当の価値を理解する事ができるだろう。
『記念帖』を教材にして「出前授業」をするプランや、航空をテーマにして現代の子ども達と100年前の子ども達の絵を並べて展示する企画もとても興味深い。
日本の美術・書道教育を見直す機会にもなるだろう。
当時の東京の小学生達は、第一次世界大戦、スペイン風邪、関東大震災、第二次世界大戦、東京大空襲などの波乱に満ちた大正・昭和の時代を生きた。若くして命を落とされた方も多かっただろう。
1923年の関東大震災では、フェラリン中尉のズヴァ式複葉機が展示してあった遊就館は大きな被害を受けた。東京市の児童は約5千人亡くなったと言われている。教員会の松下専吉幹事長も関わり、墨田区横網町公園には「震災遭難児弔魂像」が建立された。
だからこそ、彼らが生きた証である『記念帖』をイタリアから「里帰り」させて展覧会を開催したいと思う。
「ローマ・東京間飛行」を調査、研究するうちに一つ痛感した事がある。
それは、膨大な予算を注ぎ込んだ大事業だったにもかかわらず、日伊双方で政治状況や世情の違いから偉業に対する受け止め方に大きな温度差があり、その後双方に残る資料や記念品等が一度も付き合わされて共同研究される機会がなかった為、「ローマ・東京間飛行」の全体像に、微妙な食い違いがあるのではないだろうか?と言う疑念である。
言葉の壁や習慣の違いによる誤解もあっただろう。
その後ファシズムや軍国主義が台頭し、時代は戦争に突き進み、世界の航空産業界も競って開発を進め、次々と世界記録が塗り替えられる中で、「ローマ・東京間飛行」もズヴァ機もあっという間に忘れ去られてしまったのではないだろうか?
北イタリアのティエーネ市で毛織物工場を経営していたフェラリン家は、実は日本の商社とも関係があった。日本に到着したフェラリン中尉に長兄から「大阪のシバカワ」に会うように指示した長い手紙が残っていた。(“Arturo Ferrarin il Moro”, Valentina Ferrarin, Egida Libreria Editrice, 2000”, p.21–23)
芝川家一族は江戸時代から続く唐物商(貿易商)で、当時の社長は芝川商店(百新)の創業者芝川栄助氏(1865–1952)だった。
千島土地株式会社は、百又芝川家の初代又右衛門氏(1823–1912)が、国際情勢に左右される不安定な唐物商を廃し不動産業にシフトして1883年に創業した。現在の代表取締役社長の芝川能一氏は航空機リース業、アーティスト支援、地域創生、社会貢献事業にも取り組んでおられる。
「ローマ・東京間飛行」100周年記念事業
この原稿を執筆中に、実は新たな発見があった。
100年前のスペイン風邪を再現するかのような Covid–19 による世界的パンデミックで、昨年は多くの記念事業が中止あるいは延期になっていたが、つい先日の2021年5月29日、イタリア共和国大統領府の後援やイタリア空軍の協力を得て、機関士マレットの出身地であるパドヴァ県カドーネゲ市で「ローマ・東京間飛行」100周年を記念するセレモニーが開催された(図24)。
この機会に初めて、マジエーロ中尉と機関士マレットが搭乗したズヴァ機の飛行の顛末を記した「マレットの日記」がまとまった形で出版された。
実はマレット家には、『記念帖』がイタリア飛行士に贈呈された時に一緒に添えられていた『目録』(和紙に墨、26×40cm)が所蔵されていた。
機関士ロベルト・マレットの実娘エルミーニアさん(現在97歳)が大切に保存されておられた。
彼女の息子ピエルアンジェロ・カンジャロージ氏が、セレモニーの当日この貴重な『目録』を持って来てくれて私に見せて下さった(図25)。
エルミーニアさんの証言によると、この『目録』はマジエーロ中尉からマレットにプレゼントされたものだったという。
この『目録』の存在と最近の新たな調査結果から私は以下の事を推測する。
東京市小学校教員会が制作した二冊の『記念帖』は、フェラリン中尉とマジエーロ中尉に贈呈されて、それぞれが一冊ずつイタリアに持ち帰った。(フェラリン家に『目録』が残っているかどうかは今のところ不明)フェラリン中尉は自分が持ち帰った『記念帖』と朝日新聞社から託された日本滞在中に撮影された記録フィルムをイタリア国王と王妃との謁見の際に持参した。国王は記録フィルムは受け取ったが、王妃は『記念帖』を受け取らずフェラリン中尉の母親に下賜したので、彼はティエーネの実家に持ち帰った。
一方マジエーロが持ち帰ったもう1冊の『記念帖』は、誰かの手により作品が切り取られて流出した後、最終的にイタリア空軍の所蔵になった。
「記念帖1920 プロジェクト」のスタート
100年前の父親の作品がまるでタイムカプセルから蘇ったかのように、イタリアで見つかった事に驚き、「この感動をぜひ他のご子孫とも分かち合いたい」と考えられた岩井医療財団会長稲波弘彦氏のご協賛により、『記念帖』作者のご子孫探しを目的とする非営利の「記念帖1920プロジェクト」が昨年10月にスタートした。Webサイト https://kinencho1920.com では、2冊の『記念帖』の全作品が公開された。私達は一人でも多くの作者のご子孫や関係者が見つかることを望んでいる。
空に夢を見て、遠い異国にあこがれた東京の少年少女達の想いが込められた『記念帖』の「里帰り展」を実現する事が、私たちの夢であり目標である。
タイムカプセルのような2冊の『記念帖』は、100年前に初めて空路で繋がれた日本とイタリアの更なる友情と国際文化交流にこれから大きな役割を果たすに違いない。
新山宏、稲波弘彦、吉村隆子、仲倉重郎、川島茂人、平井達之、梁瀬泰孝、田中祥一、谷村政次郎、辻星野、森万紀子、松岡恒太郎、柳沢光二、野田安平、桑原尚志、中村達也、苅田重賀、Carlo Ferrarin,RobertoFerrarin,Erminia Maretto,Pierangelo Cangialosi,Gino Cappannini,Marina Masiero,Valentina Ferrarin,Gregory Alegi,Luigino Caliaro
以上の方々(敬称略順不同)に心より感謝致します。
お問い合わせ・情報提供
「記念帖1920プロジェクト」WEBサイト
https://kinencho 1920.com/