初めて海外から日本に飛来したイタリア人飛行士たち

初めて海外から日本に飛来したイタリア人飛行士たち

大航海時代から、大飛行時代へ

 “海の向こうには何があるのだろう?”
 15世紀から17世紀の中頃にかけてヨーロッパ諸国では、その好奇心と冒険心に突き動かされた男たちが船に乗り、まだ見ぬ大陸を目指し出帆した。難破や遭難、そして疫病など危険なことが続くが、富と名声を求め海に乗り出した。その結果、インド航路の開拓、アメリカ大陸の発見などがあり、新しい資源の物流、交易が始まり大陸と大陸を結びつけていった。
 しかし1919年に第一次世界大戦が終わると世界は大きく変わった。大戦を通して発達した飛行機が、兵器としてではなく交通手段として利用範囲の可能性を無限に広げたのだ。航空先進国は国力を世界に誇示する意図も含めて、冒険飛行や記録飛行を競い始めた。大飛行時代の始まりである。

イタリアから日本への飛行計画

 イタリアにガブリエーレ・ダンヌンツィオという男がいた。軍人でもあり、詩人のダンヌンツィオは「ローマ・東京間飛行」計画を発表した。この計画には、ある日本人が関わっていた。イタリア文学を学びにイタリアに渡り、イタリア文化人と交流を深めた 下位しもい 春吉。彼はダンヌンツィオに会い、日本の航空界の遅れている現状を話した。そして、もしイタリアから日本に親善飛行をしてくれたなら日本の航空界にとって最高の刺激にもなるし、イタリアの国威を示す、いい機会になるのでは、と熱く語った。
 ダンヌンツィオの飛行計画に基づき、イタリア空軍はズヴァ機11機(S.V.A.9:そのうち4機は予備)とカプロニ機4機(Ca.33、Ca.44それぞれ2機)の航空隊を編成。飛行ルートはシベリア経由、シルクロード経由も考えたが燃料補給などに難点があるので、中東から東南アジアを経由して日本へ飛ぶルートに決定。未開拓の長距離飛行のため予備機や燃料などを着陸予定地に用意した。
 1920(大正9)年1月8日から3月11日にかけて、各機がローマを出発したが、ほとんどの機体がエンジントラブルや、不時着して現地の盗賊団に襲われるなどで断念せざるを得なかった。残ったのは2月14日に出発したフェラリン機とマジエーロ機の2機のみ。ローマ出発の時、ダンヌンツィオは「最後まで飛べ!」と熱く語ったという。

中東、東南アジアを越え日本へ

 両機はイタリアからトルコ、ギリシャ、イラン、イラクを経由、東南アジアを越え日本に向けて飛び続けた。4月22日ハノイから中国の広東に向かう途中、大雨や濃霧に遭遇するが、どうにか広東に着陸した。しかしマジエーロ機は着陸のとき機体を損傷してしまった。先を急ぐため修理はあきらめ、機体を残し予備機のある上海まで船で移動した。北京でフェラリンたちと合流した。翼を並べ5月30日に朝鮮海峡を横断、ついに待望の日本上空へ。そして大阪の城東練兵場に無事着陸、大歓迎を受けた。翌5月31日、両機は軍楽隊の行進曲に送られ東京に向けて離陸した。大阪上空を飛ぶとき、朝日新聞が用意したイタリア国旗の3色をあしらったビラを撒き、感謝を示す。

いよいよ東京へ

 日本で最初の飛行が行われた代々木練兵場。1910(明治43)年12月14日に日野熊蔵大尉、19日には徳川好敏大尉が成功し、日本の航空史に新たなページが加わった場所である。
 それから、わずか10年後の1920(大正9)年5月31日、同じ代々木練兵場に遥か遠いローマから小さな複葉機が飛んで来るという。20万人近い群衆が、その飛行機見たさに来場した。
 その中に民間航空のパイオニア伊藤音次郎もいた。日本航空協会は千葉市が所蔵するの「伊藤音次郎日記」を日本の航空史の貴重な資料として調査し、その内容を後世に残すため、日記のデータをホームページでアーカイブとして公開している。その日記の大正9(1920)年31日を見ると、伊藤音次郎も仲間と一緒に代々木練兵場に飛んでくるズヴァ機を見に来ていたのがわかる。
 「天気 晴後雨(中略)代々木ニ行ク スバ(注:ズヴァ機のこと)ヲ見タ 大ニ参考ニナル。三機(注:出迎えの陸軍機)ノ歓迎飛行ハ大ニヨカッタ 一時十分 マシエル(注:マジエーロ)中尉ノ機影見エ着陸後何ダカ涙グマレタ 皆ソウラシカッタ」
 イタリアから飛んで来た機影を目にした音次郎、さぞかし感動したに違いない。そうしているうちにフェラリン機も代々木練兵場に飛来。
 「フラリン(注:フェラリン)君一時間遅レテ着ク(中略)着陸モ皆ウマカッタ。エライモノダ」
 フェラリン機の記録は、飛行日数109日、飛行時間112時間、飛行距離17,920km。ローマから約30カ所を経由してきた。これでダンヌンツィオの夢が実現した(タイトル写真及び写真1)。

忙しい日本での日々

 彼らの忙しいスケジュールを、かいつまんで紹介する。
 6月1日、疲れた四飛行士は終日休養。
 6月2日はイタリア大使館を公式訪問の後、帝国飛行協会 総裁 久彌宮くにのみや 邸を訪ね、来日の挨拶。首相官邸、陸海軍、外務省なども訪問し大忙し。
 6月3日、フェラリンとマジエーロ両中尉は皇室から招待され、皇居の「桐の間」で貞明皇后(写真2)に謁見した。緊張する二人だったが、皇后様から慰労の優しいお言葉を受けた。午後は小石川後楽園の 涵徳亭かんとくてい で田中陸相の祝宴に出席。両中尉には日本刀が、両機関士には富士山刺繍の額が贈られた。その後、海軍大臣の歓迎宴に。

 6月6日は日比谷公園で全国学生青年団による「羅馬東京間大飛行歓迎会」が開催された。この年は大学令により慶應義塾、早稲田、明治、法政、中央、日本、国学院、同志社の8校が私立大学として認可され、新しい時代に向け学生たちも熱く燃えていた。公園には舞台が設けられ、2万人以上が参加するという大変な盛り上がり。祝辞と記念品・花輪の贈呈が行われ、午後4時30分、「ビバ!ビバ!イタリア!」「日本万歳!」を参加者全員で三唱して散会した。
 6月8日、帝国飛行協会の晩餐会が芝紅葉館で行われ、有功章が四飛行士に贈呈された。
 6月12日、所沢陸軍航空学校を視察、講演も。
 6月13日、神田一橋共立女学校で開催された東京市小学校教員会総会に両操縦士は参加。大隈重信もこの総会に出席していた。
 6月15日は夕方から東京市長主催の四飛行士歓迎の観劇会が帝国劇場で開催され、そのあと晩餐会も催された。その時に出されたメニューが日本航空協会に保存されている。表紙を開けた見開きにはローマ・東京間の飛行ルートが描かれ、満開の桜と百合と一緒に四飛行士の写真が配置されている。両操縦士のは残念ながら無いが、機関士のカッパンニーニとマレット本人のサインが書かれており、貴重な航空遺産だ(写真3)。

 6月18日には民間飛行作振会による歓迎祝賀会が行われた。多摩川べりに宴席を設け、船を浮かべ鵜飼が興じられると四飛行士は大喜び。
 6月25日、代々木練兵場から「訣別と感謝」の飛行が行われ、東京上空で感謝ビラを撒いた。
 7月初め、京都岡崎公園で開催される「平和記念航空博覧会」にフェラリン機を展示するため、京都へ。分解して運ばれてきた機体の組み立ての指導をしながら、関西観光旅行も楽しんだ。
 7月10日、「平和記念航空博覧会」の開場式でフェラリンは代表して挨拶を述べた。
 7月26日、フェラリン達はマジエーロを除き、神戸港から汽船に乗り帰国へ。イタリアのヴェネツィアには9月20日に無事舶着した。マジエーロは後日、なぜか一人で帰国したという。

機体は日本に寄贈

 フェラリンは自分の機体を自伝で語っている。
 「日本に到着した時、乗機は惨めな状態だった。主翼は腐り、胴体は歪み、金属部品は錆びていたので、もはや博物館に置くことしかなかった。私は東京を去る前、愛機の主翼の隅に別れの言葉を書くことにした。すでに機体には多くの署名や言葉が書き込まれていた。私も、そこに最後の別れを書いた。『さよなら、我が忠実な友よ!君に優しく、さよならを、言おう』と。」
 フェラリン機は日本に寄贈され、京都の「平和記念航空博覧会」に展示されたあと東京九段の靖国神社遊就館に飾られた。しかし、1923(大正12)年の関東大震災で建物が破壊、機体も損傷したが、その後も保存はされていた。しかし月日もたち破損が進んだという理由で、1933(昭和8)年12月9日付で正式に廃棄された。その後、立川の日本飛行学校に寄贈されたそうだ。

イタリア機の情熱を引き継ぎ

 「ローマ・東京間飛行」から5年後の1925(大正14)年に朝日新聞社の「初風」「東風」両機による東京からローマへの答礼飛行が行われた。10月27日にローマに両機翼を並べて着陸、翌日の午餐会ではフェラリンと再会、交流を深めた。1931(昭和6)年には日本学生航空連盟が結成され、法政大学の学生・栗村盛孝操縦の「青年日本号」が羽田からローマに向け飛行、3度の不時着にもめげずにローマに到着、学生による答礼飛行を完成させた。イタリア機から受け継いだ情熱をレガシーとして引き継いだのだ。

執筆

柳沢 光二

*本記事は『航空と文化』(No.123)2021年夏季号からの転載です。

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