『伊藤音次郎日記』にみるスペインかぜ ―航空パイオニアのみた100年前のパンデミック―
歴史
1.はじめに
新型コロナウイルスの世界的な流行に伴い感染症に対する関心が高まるなか、にわかに歴史のかなたから引き戻された感のあるものが、100年前のインフルエンザによるパンデミック、いわゆる「スペインかぜ」である。今次のパンデミックと同様に、このスペインかぜも日本を襲っているが、今やその記憶を持つ人は皆無といってよく、その状況を知ることは困難である。小稿では『伊藤音次郎日記』を資料とし、市井の人の視線を通して当時のパンデミックを概観していくことを試みる。
『伊藤音次郎日記』について
伊藤音次郎 (1891~1971)[*1]は、少年期にみたライトフライヤーの活動写真をきっかけとして、当時国産の飛行機製作に挑戦していた奈良原三次の知遇を得て航空の道に進んだ。奈良原のもとで飛行機の操縦技術を習得した音次郎であるが、本人は自らを「アビエーター」ではなく「コンストラクター」であるとし、安全な飛行機の製作とパイロットの養成を目指して、千葉県の稲毛海岸に伊藤飛行機研究所を設立した(写真1)。音次郎のもとにはパイロットを志す若者が集まり、あるものはパイロットとして、あるものは飛行学校経営者・技術者としてそれぞれ後に国内外の航空界に影響を与えるまでに成長していった。音次郎本人は前述の言葉が示すように、あくまで飛行機製作者・工場経営者として裏方に徹していたが、日本の民間航空史におけるパイオニアの一人として位置付けられることに疑いはない。
その音次郎は、開始時期こそ不明なものの、少年期から継続的に日記を書いていた。日記帳は基本的に博文館の当用日記が用いられ、ペンあるいは鉛筆によって記入されている。日記帳の多くは音次郎の没後、遺族から千葉市に寄贈された。日本航空協会では千葉市から日記帳36冊[*2]を借用し、順次その複写と翻刻を行なっており、2020年現在、1909年から1943年に至るまでの30冊分をウェブ上で公開している [*3]。
この『伊藤音次郎日記』[*4]について、作家の平木國夫は、日本の民間航空の歴史がつまっていると評している。『音次郎日記』は業務日誌ではなく、あくまで私的なものであるが、航空黎明期における民間の飛行機製作者たちによる、機体の製作やエンジンの確保、操縦訓練の様子など、その試行錯誤のあり様が詳細に記録されており、日本の民間航空史の歩みを知るうえで資料的価値の高いものである。『音次郎日記』の資料的価値を見出したのは平木であり、おそらく音次郎以外で彼の日記に目を通したのも、平木がはじめてであろう。その経験は『空気の階段を登れ』(朝日新聞社 1971年)として結実し、音次郎の前半生と航空黎明期における民間航空家たちの貢献を世に問うこととなった。しかしながら、同書は『音次郎日記』を小説として再構成したものであり、あくまで民間航空史に主眼を置いて『音次郎日記』を読んだものである。また、紙幅の都合からか1928年以降の日記は等閑視されており、航空産業が軍部の主導で大企業を中心に担われるものへと変容していく状況下における、中小規模の飛行機製作者たちによる生き残り戦略の模索などには触れられていない。
日本の民間航空史に対する資料的価値はいうまでもないが、この『音次郎日記』は明治末期から高度経済成長期という、時代の大転換期を生きた一人の人間による生活の記録としての価値をもあわせ持っているといってよい。30冊を超える日記帳には、関東大震災、二・二六事件、日米開戦といった、航空産業とは直接的なかかわりを持たない事件への言及も残っている。今回小稿で取り上げるスペインかぜもその内のひとつであり、民間航空史の視点からではバラバラにみられる事象が、スペインかぜというフィルターを通すとひとつのまとまりを形成するようになるのである。
なお、以下では『音次郎日記』の文章を基礎的資料として参考にするが、異体字以外は原文のまま引用する。
*1 以下、音次郎と略記。
*2 後に平木國夫氏の遺族より寄贈された資料群に、1909年分の1冊が含まれていた。
*3 http://www.aero.or.jp/isan/archive/Ito_Otojiro_diary/
1911~13年、1922年、1924年、1944~61年、1963年、1964年、1971年の日記は、現在その存在が確認されていない。しかしながら、日記上の記述から、音次郎の生前にはすべて存在していたことは明らかである。
*4 以下、『音次郎日記』と略記。
1918年
スペインかぜとして知られるインフルエンザの大流行は、1918年に北アメリカないし西ヨーロッパにおいて最初に起こった。日本への伝播は、内務省衛生局の『流行性感冒』によると同年8月下旬に端を発し、「九月上旬ニハ漸ク其ノ勢ヲ増シ、十月上旬病勢頓(とみ)ニ熾烈」 になったとあるように[*5]、1918年の秋頃から本格化したことがわかる。
この時期の、音次郎の動向をみてみよう。稲毛海岸に伊藤飛行機研究所を設立し、飛行機の製作やパイロットの育成を進めていた音次郎であるが、前年9月30日に発生した高潮により、格納庫や家屋に甚大な被害を受けている。音次郎は妻子を連れていったん故郷の大阪に帰り、高潮の被害を免れた飛行機を用いて巡回飛行などをして糊口をしのぐ日々が続く。その後再起をはかり、1918年4月末、津田沼の地に新たな住居と工場兼格納庫[*6]を設けて再スタートした。
『音次郎日記』では音次郎の日常だけでなく、航空界の出来事や世情を騒がせた事件などについてコメントした箇所もある。だが、この年の夏以降日本で始まったスペインかぜの流行に対しては、特に注目すべき言及はしていない。とはいえ、パンデミックの発生を示唆する一文が、11月17日の日記の末尾にあらわれている。そこには「大坂風流行ニツキ父ヲ預ッテ呉レトノ手紙が來タ」と簡潔に記されている。「風」とあるのは「風邪」のことであり、大阪で風邪が流行しているため父を預かってくれとの内容である。翌日の日記には「朝喜代市兄ヘ返出ス」とあり、上記の手紙は義兄の喜代市[*7]から送られてきたものであるとみて間違いない。結論からいえば、父の「疎開」は実現しなかった。喜代市への返書の内容は明らかではないが、これ以降の日記に音次郎の父は登場していないことがそれを物語っている。
日本におけるスペインかぜの流行は、西日本から東漸するように拡大していった。当時はまだ、現在のように航空網が張り巡らされていたわけではない。諸外国と日本との限られた窓口となったのは海港であり、それらの多くは西日本に位置していたことがこうした感染の拡大傾向に影響している[*8]。音次郎の父岩吉は弘化4(1847)年の生まれであり、この時すでに70歳を超えている。「風」の流行に危機感を抱いた姉夫妻が、高齢の父だけでも関東へ避難させるべく音次郎にその保護を依頼したのである。音次郎は日常的に新聞をよく読んでおり、スペインかぜの流行に無知だったとは考えにくい[*9]。だが、流行の前線に位置する関西の姉夫妻と、関東の音次郎は、この「風」に対する危機感を共有してはおらず、父は大阪に留まることになったのである。
ところが、父の疎開依頼から約1ヶ月後の12月12日の日記には次のような記述がある。「女中鳥二三日ガアブナイトノコトデアッタ上ニお母サンガハイエン、妻君モ風引キ皆寝テ居ルノデ妻君ノ非(ママ)觀此上ナク充分ナグサメテ帰ル」。これは前後の文章から白戸栄之助[*10] の家のことと考えられる。女中が危篤、母が肺炎を発症し妻も風邪症状で病臥しており、明らかに通常の風邪と様子が異なることが、白戸の妻の悲嘆からもうかがい知れる。関東においても、スペインかぜの流行はもはや他人事ではなかったのである。
*5 内務省衛生局編『流行性感冒』内務省衛生局 1922年 p.85 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1148597 (2020.5.8)
*6 格納庫の竣工は同年5月。
*7 喜代市は音次郎の次姉きんの夫である。冊子版において「次妹つるの夫」としたのは誤り。
*8 杉浦芳夫「わが国における〝スペインかぜ〟の空間的拡散に関する一考察」『地理学評論』50-4 1977年
*9 音次郎が各新聞から航空関係記事を切り抜いて作成したスクラップは、現在日本航空協会に保存されている。
*10 白戸栄之助は音次郎に先行して奈良原三次に師事し、操縦技術を習得した。この時期は千葉市の寒川海岸に自身の飛行機練習所を構えていた。
1919年
明くる1919年は吉報に始まる。1月2日、第二子となる長女智恵子が誕生するのである。音次郎は新年早々の女児誕生に対して、「今年ハヨイ年ヨイ日ニ生レテ大ニ幸多カルベク予言サレタ様ニ嬉シカッタ」との感想を残している。
しかし、それから1ヶ月後の2月6日、いまだ産褥期にある妻の吉(きち)が39度強の熱を出す。音次郎は医師の往診を頼むが翌日も吉の熱は下がらず、長男の信太郎も体調を崩している。医師は連日伊藤家を訪れ、吉はもとより子供が心配であると、信太郎・智恵子の入院を勧める。しかしながら、8日の午前中から降り続き、夕方には「七寸」も積もった雪の影響でそれはかなわなかった。9日の日記には次のようにある。「今日醫師ニ聞ク 信太郎ハ大ニヨシ 智恵子ハ大分悪イトノコト 明日吉トチエヲ入院サセルコトニシタ」。長男信太郎は快方に向かったようだが、一方で智恵子の容態が悪化し、吉とともに入院することになった。翌10日になり、ふたりの入院は医師の「勞力」[*11]によって実現されるが、「チエハ六ツヶ敷(むつかし)カラントノコトデアッタ」とあり、智恵子の病状に対して悲観的な診断がなされている。この間、音次郎本人に体調の悪化はみられないが、明らかに家庭内感染が発生し、産褥期の妻、乳幼児の二子が連続的に発症している。工場の方でも感染が見られたようで、同じく10日には所員の平居が38度強の熱を出している。
11日、家に残った信太郎は回復したが、平居の熱は39度台に上がっている。入院中の吉と智恵子はいずれも小康状態であるが、見舞いに訪れた音次郎の顔を見た吉は「シクシク」泣きだしたという。それに対する音次郎の感想は、「ナンノ為メカワカラナカッタ。淋シカッタノダロウ」である。
ここから吉は快方に向かったようである。その一方、智恵子の容態は間欠的な状態を示している。12日の朝には熱が38度5分に上がり、「非常ニ悪シクトテモ駄目」という状態にまでなるが、「食塩注射」の後には顔色がよくなり、同夜および翌朝は小康状態を保っている。しかしその午後に音次郎が病院を訪れると、「呼吸止マルコト二回 酸素吸入ニテ漸ク保ッテ居ルトノコト」と、また悪化していたことがわかる。生後間もない智恵子の体はこの状態に耐えることはできず、13日の夜に息を引き取った。音次郎は翌14日の早朝、もしやと希望を抱きながら病院を訪れ、この事実に向き合うことになる。音次郎はその生涯において4人の実子を未成年のうちに失うこととなるが[*12]、智恵子はその一人目であり、日記の記述からは以下のように現実をすぐには受け入れらない様子が伝わってくる。
イヨヽヽダメカト這入ッテ行ッタガ顔ヲ見ノガ何ンダカ不安ニ思ワレテチユウチヨシタガ白布ヲノケテ見ルト青イガ静カニ眠ッテ居るとヨリ思ワレナカッタ 思ワズホーヲツヽイテ見タ 笑フダロートモ思ワナカッタガソンナ気持デヤッタガ手先キニ冷タク感ジタノミデアッタ
以上の出来事に対して、『音次郎日記』中にはスペインかぜを示す語はなく、あくまで個々の症状が書かれているにすぎない。しかしながら、高熱を主とする症状や、音次郎を除く家族や周囲の知人が次々と発症していく様は、音次郎の一家もスペインかぜに見舞われたとみて間違いないだろう。この後、音次郎の周囲からパンデミックの雰囲気は消えていく。この年は5月10日の飛行競技会において、所員の山県豊太郎が2回転宙返りを成功させて「先手ノスミス[*13]以上デアルコトハ識者ノミトメル處」であったと評価され、音次郎自身も年末の反省において「今年ハ予想以上ノ成功ヲ納メ得タ」と肯定的に書き記している。
*11 この時点で医療提供態勢はひっ迫しており、入院も容易でなかったことが推測される。
*12 長男信太郎、長女智恵子、四男満、三女照子の4子。
*13 アメリカの飛行士、アート・スミスのこと。
1920年
今次の新型コロナウイルスにおいては、第二波、第三波といった流行の断続的な再燃が懸念されている。これは主としてスペインかぜの流行の傾向から予測されているものであるが、『音次郎日記』の記述からも、スペインかぜの再流行を読み取ることができる。1920年は、明けて早々音次郎のもとに訃報が届く。1月2日の日記には「井上閣下昨朝四時流行性憾冒(ママ)ニテ死去セラル」とある。ここでいう井上閣下とは、陸軍中将の井上仁郎のことを指す。井上はかつて臨時軍用気球研究会の会長を務めており、音次郎とも面識があった。日記には井上の死因が「流行性憾冒」であったと明記され、この時期再流行したスペインかぜによって倒れたことがわかる。音次郎は同月7日に営まれた井上の葬儀に列席している。
さらに同月中旬、音次郎のもとに次の電報が届く。「大坂ヨリ電アリ ミネ姉キトクスグ帰レ」とあり、大阪に住む長姉のみねが危篤に陥り、帰郷を促す内容であった。この急報に接して、音次郎は翌17日の早朝6時前に津田沼を出発し、同日午後9時に大阪にたどりついた。駅から姉の家まではタクシーを飛ばし、無事に姉との対面を果たしている。その夜、音次郎は家族に代わって、次のように姉の看病についた。
余ノ顔ヲ見ルヤ嬉(ママ)ビノ色ヲナシ三ヶ月間遊ビニ行クト云ヒタク兄ヤ姉ノ言ニ非常ニ待チ居タルト共ニ余ノ許ニ遊ビニ行クコトヲ楽ミ居タリト 今夜ハ皆ニカワリ看病ス 午前三時頃病人ハ少シク目ヲトジタレ共深ク眠ラズ(中略) 夜明ケ頃苦シキカ両手ニ出シテ余ノ手ニスガリ水ヲ求メルコトシキリナリキ アヽ今一度元シテ東京ヲ見セテヤリタク神ニ祈ル
音次郎は翌朝の7時近くまで姉の近くに控え、数時間の仮眠の後に医師へ姉の病状を聞きに行く。診断の結果は、気管が少々悪いが他は変わりないとのことに安心して姉のもとへ帰ると、「大分苦シソウニシテ声ハ一切聞キ取レズ」という具合であった。その後も姉の看病をしていたようだが、食事と仮眠のため一度実家に戻っている。そして同18日午後のことである。
三時頃病人ガ呼ブトノコトニ四時頃ヨリ行ク 苦シムコト一方ナラズ 日落ツテ後チツヒニ痛ミヲウッタエザルニ至リ引ク呼吸ヲ少ナク醫師ヲ迎ヘル 最後ノ注射モ何ノ効ナク八時四十三分ツヒニ呼吸タエル アヽ最後迄余ノ許ニ行クベク楽シミニシタリシ不幸ノ女
翌19日には通夜、20日には葬儀が営まれた。その時の様子を音次郎は、「出棺ノ際フタヲ開キ見ルニ顔色アダカモ酒ヲノンダル如ク美シキ色ヲ呈シ居タリ」と記している。みねの死は音次郎にとって衝撃の大きいものであったようで、『音次郎日記』では1月末の補遺にも「姉ノ死ハ意外ノ意外ナリキ」とある。音次郎はみねの病状を細かく記録しているが、その病気は何であったかは明示していない。だが、みねの死から3日後、21日の日記には「兄今朝ヨリ頭痛ストテ床ニツク ヤハリ流感ナリ」とあり、実兄の久太郎が流感で病臥したことがわかる。久太郎は姉と同居していなかったとみられるが、みねの最期に接していたことは想像に難くなく、両者とも流行性感冒(流感)、つまりスペインかぜに罹患したとみて間違いはないだろう。
音次郎本人は22日朝の列車で津田沼へ帰っている。それからの数日間は事務や飛行機製作にあてられているが、26日には「安岡国元ニ感冒アリ帰国ス」と、また「感冒」の語が日記にあらわれる。所員の安岡駒好の故郷にスペインかぜの感染者が出たようで、その見舞いか看病のため、安岡は帰郷しているのである。さらにこの日は、設計者の稲垣知足が朝から39度近い高熱を発している。稲垣の症状は、翌日にはいくらか落ち着いたようだが、その一方「夕方ヨリ兵頭又少シク悪シクナル」と、今度は所員の兵頭精[*14]も体調を崩しており、津田沼の工場でも何らかの病気が連鎖的に広がっている様がわかる[*15]。
兵頭が発病した27日の日記には、「感冒予防注射ニ船橋へ行ク」とある(写真2)。1918年末から19年の感染流行を経験した内務省は、感染拡大抑制の一策として各府県に予防接種を奨励している。内務省衛生局の『流行性感冒』によると、この1920年1、2月の流行時には各地で予防接種希望者が殺到し、需要が供給量を上回ってしまった府県が少なくなかったようである 。娘と姉を亡くし、周囲でも感染者が出ている状況下にあって、音次郎も危機感を抱いて予防接種を受けたのであろう。なお、『音次郎日記』には、この日から4月までの間に5件ほどの訃報が記録されているが、そのいずれも死因は明記されてはいない。また、9月7日の日記には「村井病気尚癒エズ 西小路又本日午後ヨリ熱高ク夜醫師ヲ迎ヘ氷ニテ冷ス」とあり、所員が続けて熱を発しているようだが、それをスペインかぜの影響と判断しうる材料を日記の記述から見出すことはできない。
*14 兵頭は日本初の女性パイロットである。
*15 稲垣の病臥はこの後も続き、床上げしたのは2月4日になってからである。
おわりに
世界全体において猖獗を極めたスペインかぜは、日本にも約39万人の犠牲者をもたらした。このパンデミックの記録は、日本では内務省衛生局が『流行性感冒』としてまとめているが、小稿では公衆衛生や疫学とは無関係の、市井の飛行機製作者の日記を通してこの記録/記憶をたどってきた。この時期の音次郎は、飛行機製作者として独立・成長期にあたるため、『音次郎日記』の内容も飛行機の製作とそのための資金・材料集めなどが主となっている(写真3、4)。そのようななかで、スペインかぜは音次郎の上へも静かに覆いかぶさってくる。音次郎自身の罹患を示すような文章こそないものの、知人そして家族に感染者があらわれはじめ、最終的には娘と姉を亡くすことになる。音次郎の筆致は恬淡としたものであり、過度に装飾された文章は多くない。小稿で紹介したように、家族の容態の移り変わりも淡々と記されていて、症状のあらわれ方や対処法など、スペインかぜに対する当時の対応の一端を知ることもできる。もちろん、当時の音次郎はいわば自転車操業に近い状態にあり、感染症への対策が二の次であったことは否定できないし、日記にあらわれてはいない感染症対策が実践されていた可能性もおおいに考えられる。また、日記の記述のみに基づいて、音次郎が未知の感染症に対するパニックや偏見と無縁な人物であったと判断するのは性急に過ぎると言えるだろう。。『音次郎日記』におけるスペインかぜに関する記述は小稿で紹介したようにあくまで断片的なものであり、パンデミックにさらされた 当時の日本人全体のリアクションを総覧できるものではないことには注意しなければならない。
新型コロナウイルスの流行を受け、各地で個人の日記など、スペインかぜのパンデミックを記録した様々な歴史資料の発掘が試みられている。日本民間航空史における『音次郎日記』の資料的価値は言うまでもないだろうが、スペインかぜのパンデミックなど、近現代史研究における一資料としての可能性を有したものであるともいえよう。