ノール262の領収とあの頃のパリ
歴史
フランス・ノールアヴィアシオン社製ノール(Nord)262という小型(29席)双発ターボプロップ旅客機をご存知でしょうか。昭和40(1965)年8月から僅か3年間だけ、日本国内航空が大阪を中心に旧日東航空の短距離路線を運航した機体です。購入したのは3機、短期リースが1機でした。当時28歳の整備部技術課係長だった私は購入1号機の製造工程検査から3年後の売却までを手掛ける機会に恵まれました。世界の旅客機の歴史にも登場しないような機体でしたが、49年経った今でも鮮明に記憶に残る仕事でした。苦労した工程検査、現在では想像も出来ないような良き時代のパリなど、3ヶ月の滞在中の思い出を綴らせていただきます。
ノール262
1960年7月29日、フランスのマックスオルスト・シュペールブルッサールという986軸馬力双発、高翼、キャビン与圧なしの小型旅客機が初飛行をおこなったが、すぐに経営が行き詰まった。ノール社が製造を引き継ぎ、四角い胴体を円形にして与圧キャビンとし、エンジンをターボメカ・バスタンⅥ(1065軸馬力)に強化して29席、巡航速度370キロ、航続距離870~1100キロのノール262となった。1962年12月24日初飛行。技術水準、性能的にはこれといった特徴もない平凡な機体であるが、エンジン・カウリングの上部、プロペラの直後にツノのように突き出したピトー管が異様な外観だ。これは、プロペラ後流の動圧を感知し、設定値以下になると自動的にエンジンが停止してオートフェザーに入る、という仕掛けである。エンジン始動は、スタートボタンを押すだけで自動的に始動してアイドリングで安定するという優れものだった。座席はさすがにフランス・センスで、簡単・軽量のキャンバス・シートだったが,座り心地は満点だった。
しかし製造されたのは僅かに20機程度の失敗作だった。注文はエアーインター(仏)が4機、レークセントラル(米)が21機、当社が3機だけだった。レーク社では運航開始早々にエンジンの重大なトラブルが発生して運航停止処分を受け、訴訟問題にまでなった。数機のみで解約となったと記憶する。当社では目立った故障はなかったが、その後の発注は無く、消滅してしまった。
なぜ購入したのか
ノール262の導入はYS-11と同時期である。では、なぜ購入したのかというと・・・ 富士航空、北日本航空、日東航空の3社が合併して日本国内航空が誕生したのは昭和39(1964)年4月15日だが、合併前の日東航空がすでに発注していたのである。新会社としてどうするか、ということになり、発注者の藤本直専務(元日東航空社長、通称 ヒゲさん)を団長として富士航空、北日本航空の部長クラスをメンバーとする調査団を派遣して判断することになった。合併直後の7月17日に出発した。結果は(当然のことながら?)、新会社は購入契約を引き継ぐ、ということである。10月に確定2機、オプション1機(後に確定)の契約を行った。しかし、これに先立つ8月にはYS-11の購入契約(15機)を行っているので、ノール262の購入は全く無意味であったが、旧社の顔を立てたのであろう。1号機(製造8号機)は昭和40年3月、2号機が11月受領ということであったが、11月、41年2月に延期された。リース機(試作2号機)は6月に到着し、乗員、整備士の訓練を行った後、昭和40年8月1日に大阪~徳島線に就航した。
日本国内航空における運航
購入機の受領が遅れた理由は2つある。まず、ノール社の体制が整っていなかった。レーク社の問題もあり、全体に遅れていた。私が領収を中断して帰国した8月になっても、メンテナンスマニュアルさえも完成していなかった。また、合併直後から新会社の経営不振は深刻で金策が付かず、支払い時期を遅らせたいということが本音だったようだ。
それでも購入1号機は40年11月、2号機は翌年2月、3号機は8月に到着した。運航した路線は、大阪~徳島、~宇部、~新潟、~富山~新潟、新潟~佐渡などである。特に大きな問題も無く、普通に飛んだが、YS-11との路線の兼ね合いは難しかったようである。就航翌年の昭和41(1966)年9月5日、経営不振の責任をとって役員全員が退任し、経営陣が総入れ替えとなった。11月にはCV-240とノール262を売却してYS-11に統一するという決定がなされた。翌42年にFOA(フィリピナス・オリエント・エアウエイズ)社に売却が決定し、整備士3名とパイロット2名が導入準備支援のために派遣された。実際の売却契約は43年7月である。あっけない3年間であった。
売却に当たってFOAから改修の要求があった。オートブレーキを装備すること、不整地滑走路を使用するため、胴体下面全体にステンレス板を張ること、胴体下面の衝突防止灯に頑丈な保護金網を取り付けること、VHFアンテナを1個増設すること、である。この改修は私が担当したが、ステンレス板についてはいろいろと理由をつけてご遠慮願った。
FOAにおける第二の人生もパッとしなかったようだ。あまり飛べなかったらしい。その上、タイヤが頻繁に盗まれたそうだ。低い胴体を材木で支えてタイヤの下を掘って外すのだそうだ。
出張準備
さっそく製造工程検査、領収検査のために技術者を派遣することになり、嬉しいことに私に命が下った。昭和40年といえば海外旅行など夢のまた夢、持ち出しドルの制限が500ドル。羽田空港には歓送部隊の幟り旗が立つ、という時代である。2月に内示され、出発は5月1日。さっそく真夜中のNHKラジオのフランス語講座に連夜しがみつく。フランス語の文法、会話の本を買って勉強を始めた。3ヶ月近い自主特訓のおかげで、フランスに到着したときには日常会話はなんとかこなせるようになっていた。
とはいっても、当時の会社には工程検査要領や領収検査要領など全くなく、経験者も皆無。その上、機体の座学さえも準備段階で、どんな飛行機かも判らない。YS-11と似たようなものだろう、と想像するほか無い。しかも、ノール社は工程検査というものを全く知らず、何しに来るのか、といってくる始末。上司から言われたのは、工程検査とは何かを説明して理解させろ、拒否されても帰ってくるな、現場の検査基準を入手して勉強しろ、という無茶苦茶な指示だった。工程検査とは何かという説明も無い。しかし考えようによっては、上司も周囲も何も知らないのだから気は楽である。マイペースでやればよい。何といっても夢のようなフランス行きなのである。
いよいよ出発
28歳の係長(富士航空)、整備部長(北日本航空)、大阪整備課長(日東航空)というバランスを配慮した3名に、輸入代理店である野崎産業の加藤松二課長が同行する。5月1日出発、3名は10日ほどで帰国し、私1人が残る(帰着は結果的に8月7日となった)。
羽田空港に幟り旗こそ立たなかったが、役員以下40名ほどが見送ってくれた。私と妻の、東京近辺に住んでいる親族全員(30名もいたか?)が羽田空港に集結して盛大な歓送の宴を張ってくれた。
ノール社で
ノール社の本社はパリ市内にあるが、購入1号機(製造8号機)の最終組み立てはパリから南東にクルマで1時間ほどのビラローシュという村にある国立航空研究センターで行われていた。ここには、ダッソー、ブレゲー、シュド、ノールなど、大手航空機メーカーが試作工場や研究・開発施設を展開している。
ノール棟の隣の建物では独仏共同開発による空軍輸送機トランザールのドイツ向け1号機の最終テストが行われていた。
本社の担当窓口はエスカータンという課長と部下1名、責任者はゴンタールという副社長級の重役で、ポリテクニーク卒業の超・超エリートである。この3名だけは英語を話した。秘書嬢はダメ。後日、ビラローシュから掛けた緊急の電話が通じず泣きたくなったことがあった。我々仲間内ではスカタン、ゴンタローと呼んだ。さっそく、何しに来たのか説明し、3日ほどもかかって了解された。検査要領はビラローシュで渡すが、英訳は出来ない、要領の変更は一切受け入れない、ということである。1週間ほどで当面必要なセッティングを終えてビラローシュに行く。文字通りの農村地帯であるが、3000m級の滑走路を備えた立派な施設だ。
ビラローシュのノールには70名ほどの現場・管理部門の職員がいるが、英語が分かるのは所長と電気の検査員の2名だけだという。予想していたとはいえ不吉な予感が走る。パリ本社との間を行ったりきたりしたが、5月24日からビラローシュに定住する。センターの正門の真向かい、畑の道を5分ほどのところにある、家族経営の10部屋ほどの小さな民宿ホテル、その名も「オテル・エッセイ・オ・ヴォル(試験飛行)」である。ここに7月29日までの2ヶ月余滞在することになる。現場には個室をもらった。
ビラローシュの生活
フランス語との格闘が始まる。仏和・和仏中辞典2冊は常時携帯である。分厚い検査要領、記録用紙を入手したが分かるわけが無い。なまじフランス語で聞いて、ペラペラと返ってきたら分からない。日常会話はできる、などというレベルでは歯が立たない。片言・手まね・筆談(といっても絵だが)の世界。機体構造の任意検査で不具合を見つけても、英語で書いても通じない。フランス語では書けない。不具合カードを用意して、その場所につれて行き、説明して書かせる。何を書いたのか分からないが、修理が出来ていればOKだ。
検査要領の和訳が始まる。明日の項目はここからここまで、と確認して、ホテルで夕食が終われば作業開始。持っている辞書は普通の辞書であって技術用語辞典ではない。でも、感心した事もある。プロペラの機能試験の項目に「ドラポー・オトマティク」とある。ドラポーとは辞書によれば「旗」だ。そうか・・オートフェザーじゃないか。飛行方向に平行に停止したブレードはフランス人にとっては風にはためく旗なのだ。納得。
睡眠時間2~3時間のこともしょっちゅうだった。ホテルの3人の子供の長女、妙齢のマドモアゼルが夜中にそっとコーヒーを差し入れてくれる・・まだやってるの?・・10日ごとのホテル代の清算では、マドモアゼルにチップを弾んだ。言葉では苦労したが、作業そのものは何とか進んだ。現場では理解しようと協力してくれる。私の辞書は大人気だった。「見せろ、見せろ」とうるさい。
6月、7月ともなると暑い。狭いコクピットに寿司詰めの、上半身裸の男どもにまじって記録をとる。強烈な体臭で鼻が曲がりそうだ。フランス語は数の勘定も出来ないと言った有名人がいたが同感だ。計器の指示を読み上げる。98は「キャトラヴァン・ディズ・ユイット(4・20・10・8)」。キャトラヴァン・・80と書く・・ディズ・・あわてて90に修正・・ユイット・・もっと早く読め。
7月22日に目出度く初飛行成功。現場にテーブルを並べて全員が集まる。ワイン、チーズ、そのほか珍しいツマミがずらり。日本でもよくある光景である。
仕事以外にも嬉しい出会いがあった。ほとんど全員が昼食には家に帰る。会社のバスが送って行き、集めて帰る。私はホテルか、バスで途中のレストランで降ろしてもらう。ある日昼食に招待された。喜んでついてゆくと、立派な農家の大きな部屋に40名ほどの村人が集まっており、ワイン、料理が山ほど用意されている。ジャポネなんか見たこともないし、世界地図の右端から滑り落ちそうな極東の神秘の国からこの村にやって来た貴重なサンプルなのだ。どうやって座るのかやってみてョ、ジャポネはポアッソン・エ・リ(魚とコメ)というが肉は食べないのか、箸はどうやって持つのか、万里の長城を知ってるョ(???、それはシノだ)、漢字を書いて見せて・・・ワイン攻めと質問攻めは尽きず、3時間以上も付き合って、足元はフラフラ。現場の自分の部屋に帰ったらバタンキュー。こんな経験は絶対できないでしょうね。
モンセさんという検査員が家に招待してくれた。シャトー・デ・グロスボア(大きな森の城)という、ナポレオンが狩猟に使ったという城の管理人をやっている。城を隅々まで案内してくれてから家族と夕食。そのあと、なんと近所の結婚式に招待してくれて、夜通しの宴会に付き合った。ここでもジャポネは注目の的。気が付いたときは、ホテルのベッドにいた(本当のこと)。つれて帰ってくれたのだ。
6月半ばにドイツ空軍の技術者6名がビラローシュにきた。仏独共同開発の軍用輸送機トランザールの領収である。陽気な連中で夕食後はギターを弾いて歌う。私にも何か歌え、というので「野ばら」をシューベルトで唄う。「ザー・アイン・クナーベ・アイン・ルーシュライン・シュテーン・・」ヤンヤの拍手。もうひとつというので、今度はウエルナー曲。次は「菩提樹」。毎晩は無理だったが、楽しかった。
日本語の工程検査要領は完成した。本当に真面目にやったのである。しかし、領収を目前にして窪田常務と平田調達部長が来仏し、領収は延期となった。7月29日にホテルを引き払ってパリで合流し、後始末をすませて8月7日に帰国することとなった。最後の日、マドモアゼルがポロポロと涙を流してくれたのが目に焼きついている。
古き良き日のパリ
土、日は休みなのでパリに出る。金曜の夕方にパリ行き、月曜の朝にビラローシュ行きの会社の通勤バスが1便だけある。月曜から金曜のフランス語だけの生活を癒してくれるのはシャンゼリゼーにある日本航空パリ支店だ。日本語の新聞を読み、日本語で挨拶する。会話はできるだけ引き伸ばす。パリ市内でも英語が通じるのは例外的である。
毎晩の翻訳と検査業務の隙間を縫って連休を作り、オランダとスイスに行った。3泊2日の週末のパリでは旧城壁の外側にある安ホテルを定宿にした。ビラローシュと重複するし、土産のお金を捻出しなければならない。フロ無し。共同フロを使いたいというと、いまはダメ、それじゃ共同シャワーでいい、というと、今日はお湯がでない。3連泊しても全く使えなかった。ある日、オ(水)が欲しい、といっても全く通じない。eauと書くと「おー、デュロ」。定冠詞と、少しの、という形容副詞?を合計しないと通じない。文法の本には書いてなかった。それでも、フランス語の生活にも慣れてきたがレストランには苦労した。特に、手書きの芸術的メニューはまるで分からない。テーブルの間を歩き回り、オードブルはこれ、メインはあの人が食べてるヤツ、と現物で注文。結局、手軽なのがカルチェラタンにある中華料理だった。
パリではバスと地下鉄を駆使して隅々まで歩き回った。バスはまず終点まで行く。途中で見所をきめておいて、帰りのバスで途中下車をくりかえして歩き回る。当時のバスは後部が手摺りつきの展望台になっており、赤信号だろうと渋滞だろうと、バスが停車すれば飛び降り、飛び乗り自由。飛び乗ると車掌が「アヴァンセ、アヴァンセ(前に詰めて)」と叫ぶが、手摺りに齧り付いて離れない。地下鉄も終点まで行き、2~3駅ごとに下車して歩き回る。終点から半日かけて歩いて帰ったこともある。バスも地下鉄もカルネ(回数券)は必需品だった。バス、地下鉄の全路線を制覇した。
治安は抜群に良かった。真夜中に裏通りを歩いても全く安全だ。スリもカッパライも、寄って来る輩もいない。せいぜいオネーサンくらいだがおとなしくて礼儀正しい。リド、ムーランルージュ、クレージーホースを始め、ピガール地区の店にも結構かよった。現在では、ピガール地区では観光客をバスから降ろさず、車窓観光だそうだが、当時も客引きはいたがしつこくなく、どこに入っても安くてボラれることはなかった。もちろん、夜の一人歩きも安全だった。
ダークカラーの人たちを見た記憶が無い。アルジェリアが解放されて間もなくのときだったので、アルジェリア人はいた。ある日、バーで飲んでいたらアルジェリアの男と知り合い、毎週会った。フランスは人種差別が無いと聞いたから働きにきたが、ぜんぜん違う、とぼやいていたが、しばらくして「トマロー・アイ・ゴー」という。耐え切れなくなってアルジェリアに帰るというのだ。その夜の飲み代は私が払った。
エピローグ
昭和55(1980)年8月、A300初号機の領収業務でツールーズに居たとき、空港のはるか彼方から離陸するノール262を目撃しました。あっと思いましたがこれ1回だけでした。いま、アルバムや日記を見返してみますと当時の様子が鮮明に甦ってきますが、書き出したら1冊の本になるでしょう。何も分からずに送り出されたということではありましたが、仕事もなんとか実行し、いまでは経験することは全くできないであろう、楽しい、貴重な経験をした3ヶ月と1週間のフランス生活でした。行動を共にした会社の4名のかたがたは、すでに故人となりました。 私も78歳、あのマドモアゼルも70代でしょう。どんなおばあさんになっていることやら。
(おわり)