歴史の証言 40年を迎えた滑空機耐空検査員制度
歴史
運用開始から40年
昭和27年、航空が再開された時施行された航空法の「航空機は、有効な耐空証明を受けているものでなければ、航空の用に供してはならない」の条文は今でも変わらない。これにより滑空機を含む全ての航空機は、当時の検査制度に基づいて航空局によって直接、耐空検査が実施されていた。昭和40年代に入り、耐空検査件数の大幅な増加に伴い昭和43年4月から滑空機が他の航空機と異なった制度で耐空検査が実施されている事は航空界にも、滑空界にも正確に知られていないまま早くも40年が過ぎ去ってしまった。この制度の構築経緯と実績について、記録に留めておく必要を感じ、耐空検査員制度再開時の一期生として、また滑空機検査事務局を長期にわたり担当した者として記してみたいと思う。
耐空検査員制度を活かすために
昭和42年、私は(財)日本航空協会(以下「航空協会」と略す)訓練課に勤務していた。当時、わが国の登録航空機数は増加の一途をたどり、それに伴い航空局の検査件数も増加したが検査官が増員されているとは感じられなかった。耐空検査は各種輸入機のほかに、国産の飛行機、滑空機や型式証明申請機ありで検査官は本当に多忙であった。滑空機のみを見ても新造機、オーバーホール機、大修理機、定期耐空検査機、新規輸入機と検査の種類は飛行機と変わることはなかった。この頃、航空局は昭和29年4月の航空法改訂で耐空検査員制度を活し認定された3名の耐空検査員(故佐藤博九州大学名誉教授他2名の学識経験者)が検査実績をあげていない事に気がついた。そこで、昭和42年中ごろ航空局は航空法の中に眠っている耐空検査員制度を生かす検討に入り、10月に民間側の受け皿として航空協会に新たな検査員の推薦依頼があった。当時、航空協会の常任理事は朝日・毎日・読売各新聞社の航空部長が勤めていて、各社共に滑空団体を支援していたため理解は早く作業は順調に運んだ。直ちに候補者選びに入り、航空法に基づく候補者の経歴等の資料集めを行い、年末には航空局とのすり合わせも進んだ。
翌年に入り航空協会長の推薦状を付けて滑空界から選出した候補者民間人21名の資料を局に提出した。人選については全国の受検地を想定し北海道から九州まで各地に配置されるよう考慮した。航空経歴の関係で明治生まれの先輩が多く選ばれていたが、昭和生まれの私も経歴と資格、経験が認められ最年少で選ばれた。人選に当たり当時の航空局方針として滑空機の製造、修理、販売に携る者は航空経歴が有っても選ばれなかった。
資料提出後、いつ認定されるのか待機状態の中で、航空局と航空協会の間で細かい作業が続いた。航空協会側の担当は故渡辺敏久課長と私である。航空局との連絡や推薦した21名との連絡に明け暮れしているうちに自然の成り行きで仮の検査事務局が出来上がっていった。昭和43年4月8日付で候補者全員が認定され、官報告示ならびに航空機検査業務サーキュラーに掲載、検査員制度による実質的な耐空検査が開始された。航空局による実務についての説明がやや不足していたため各地の検査員から問い合わせが仮検査事務局に集中した。まるで航空局検査課のデスクが協会に出向して来た様相であった。
昭和29年当時認定されていた検査員3名の業務範囲は滑空機第3種Ⅲ初級機のみであったのに対して、この度の業務範囲は動力滑空機を除く全ての滑空機を受け持つという画期的なものになった。新造機、新型式輸入機、大修理大改造を含む1種Iから3種Ⅲまで全ての検査である。大変な任務であったが滑空界も望んだ事でもあり、奉仕の精神をもって懸命に任務に励み、官の検査から民間の検査へ1年で完全に移行された。ちなみに初年43年暦年の検査実績は56件(後記の表参照)であった。
この検査制度を安定して円滑に進行させるために一番大切な事は法に忠実であることはいうまでもないが、検査の標準化であった。そのため、検査員と仮検査事務局、検査課の担当官とが連絡を密にし、細かいことでも修正を確実に、速やかにを目標に調整が続いた。
43年の秋頃、運輸省において第一回全体会議が企画され、航空局から技術部長、検査課長、滑空機担当検査官他、民からは21名の耐空検査員、航空協会に置かれた仮検査事務局担当理事という顔ぶれで行われた。関係者が一堂に会した結果、検査業務は順調に推移した。その後は年一回、所を変えて検査員調整会議がもたれている。
型式証明申請機の検査は2号機から
昭和51年から53年にかけて、スイスの型式証明を取得している耐空類別1種1の全金属製単座機ピラタスB-4型が7機ほど輸入され、運航されていた。この機体を日本飛行機㈱(以下「日飛」と略す)で製造することになり、昭和53年11月1日、日飛はピラタスB-4型の製造と型式証明取得を航空局へ申請した。型式証明の審査全ては航空局の守備範囲で行われた。航空再開時に制定されていた耐空性基準の滑空機編は英国の基準BCAR(British Civil Airworthiness Requirements)に準拠していたが、今回の型式証明の審査に当たり、欧州で使われている西ドイツの基準LFSM(Lufttüchtigkeitsforderungen für Segelflugzeuge und Motorsegler)に変更することになり、日飛と航空局との間で改訂作業が進められた。その間に1号機の製造も並行して進められたため製造工程での審査も行われ、昭和55年5月13日付けで日飛は滑空機でわが国初の型式証明を取得、6月には1号機がロールアウトし航空局での耐空検査が実施された。その後、2号機から製造最終号機までの検査は耐空検査員が担当し、全機無事世に送り出した。
国産機の製造終了と輸入機の増加
耐空検査制度は順調に運用されたが、昭和50年代に入ると国産機の新規製造が激減し、代わって輸入機が増加した。輸入機の多くが新型式のため検査に大変手間が掛かる事になった。欧州からの輸入機は急速にFRP(強化プラスチック)化され、製造技術の急激な進歩と飛行性能の凄さを感じながら検査が続いた。そして昭和59年5月に登録された機体を最後に、戦前から苦労を重ねて続けられていた国産機の製造は残念ながら終止符が打たれた。しかしその後も検査件数は毎年増加の一途をたどった。
昭和52年、航空協会は活動の源泉である「飛行館」の建替えを前にして理事全員が、新聞社の航空部長から定期航空会社出身の方々に代わり協会事務局の体制もかなり変わっていった。53年11月「飛行館」が「航空会館」に生まれ変わった際に、仮検査事務局は航空協会の寄付行為(企業でいう定款)に適合していないとの指摘があり、耐空検査員でもあった私が辞令のないまま続けていた仮検査事務局は収入もなく肩身の狭い日々が続いた。ちょうどそのころ航空局検査課OBの故中村義雄氏が航空協会理事に就任され、それまでに10年の実績を積みあげ軌道に乗っている仮検査事務局の苦境に気がつき、検査事務局の正式認知に向けて航空局と航空協会の調整に入ってくださった。
検査件数増加に伴い、検査の標準化に必要な書式等は通常の航空機検査業務サーキュラー集を使用していたが、滑空機専用マニュアルの必要性を航空局も検査員側も感じていた。そこで「滑空機耐空検査員ハンドブック」を作成することになり、仮検査事務局が素案を作成、航空局が監修・制作して昭和57年4月1日付けで初版が検査員に配布された。ここで初めて滑空機検査事務局を航空協会に置くと認知され、業務範囲とともに明記された。検査員のバイブルとなったハンドブックは航空局において3度改訂され、平成16年1月には最新の航空法及び航空法施行規則、及びサーキュラー等の改正を踏まえて全面改訂版が発行・配布されている。その間航空局技術部検査課は平成4年に航空機安全課へと名称が変更された。検査事務局の守備範囲も明確になり支援してくれる航空協会職員も決まって業務は円滑におこなわれた。
検査員の希望で主翼の静荷重破壊試験
毎年開催される検査員会議において議題に上る要望があった。老朽の進む機体や離着陸回数が極端に多い機体の耐空性の有無を、単なる外部からの目視検査や簡易振動試験で判断することは困難を極めるため、せめて主翼の強度試験を行ってみたいとの要望である。検査事務局は、これ等の事情を踏まえ昭和57年度の事業として「スポーツ航空の安全指導のための滑空機の耐空性試験」を企画した。(財)日本船舶振興会に補助金を申請し、試験は日本大学理工学部理工学研究所「習志野キャンパス」に委託した。
輸入機を含む三機種の供試機を大学及び製造会社より提供していただき、関係各方面の協力も得て昭和57年12月から翌年3月にかけて延べ5機の主翼の静荷重破壊試験(写真)を5回に分けて実施した。当日は検査員はもとより希望する関係者全ての見学を受け入れた。試験結果は59年3月に航空協会からの報告書にまとめ、耐空検査資料として大変に役立つ事となった。
動力滑空機の増加に伴う検査体制の変更
昭和43年、わが国初の動力滑空機(モーターグライダー)が欧州より輸入されていた。その初号機は全木製単座機であったため、乗員の資格問題や運航形態について航空局との間で話し合いが持たれた。機体の検査については当時の耐空性基準に合致していたため航空局での耐空検査に合格し従来の体制で運航する事ができた。輸入2号機からは複座機で国内において人気が出始めたが、製造国側で新しい欧州基準の機体に変わりつつあり、機体性能は目を見張るばかりですぐにでも輸入を希望する者がいたが、わが国の耐空性基準と新欧州基準が重要な箇所で大きく異なるという問題があった。それは機体重量制限と発動機の出力制限の違いであり、輸入しても耐空類別が特殊動力滑空機X類となり運用について大きな不安があった。性能だけを見た滑空界の購入希望者や輸入商社からは検査事務局にそれとなく圧力がかかり始めていた。
耐空性基準の大巾改訂と業務範囲拡大
耐空検査員制度が開始された当時の耐空性基準のうち滑空機については、英国のBCARから、欧州において最大の生産国西ドイツの基準LFSMに準拠したものに改正したが、国産機の生産がなくなり輸入機のみになった頃、欧州では統一の耐空性基準であるJAR-22(Joint Airworthiness Requirements)が滑空機のみならず大型航空機や回転翼航空機についても適用され、その基準に基づいて製造された滑空機が販売され始めていた。それに対し、わが国と米国では滑空機の製造は低迷し、廃業する会社が続いた。
このような状況の中で、本来検査事務局の業務範囲ではないものの、滑空界の一部から背を押された形で耐空性基準の改訂について航空局に話を持ちかけた。局の反応は早く、直ちに耐空性基準に関連する戦前戦中の資料と欧州における最新のJAR-22の入手について依頼があった。検査事務局としては質・量・時間等とても手が足りないため資料集め等終始調整役に徹し、時間がかかるJAR-22全文の翻訳、および現行の基準との比較資料作成は輸入商社の一個人の助けで行われた。
すでに欧州統一基準で作られた動力滑空機数機が日本向けに船積みされたという話も風の便りで届いていた。航空法施行規則付属書の滑空機に関する部分の大幅な改訂となるため、固唾を呑んで待っていた結果、新たな類別に「動力滑空機S」が生まれ、付属書の耐空類別表において、滑空機は「最大離陸重量を600㎏以下から750㎏以下」になり、動力滑空機については「50Kw以下の動力装置を有するものが、最大離陸重量を850㎏以下の動力装置を有するもの」に改められ、動力装置の出力制限がなくなった。また耐空性審査要領も全面的に改訂された。
西ドイツから到着していた新型式のグローブ式G109B型の一号機が動力滑空機Sで初の耐空証明書が昭和60年6月17日付けで交付された。一連の省令と耐空性審査要領の改訂に前向きに取り組んでいただいた越智検査官(後に技術部長を歴任)に感謝している。これにより滑空界が希望する各機種の検査が可能となり、検査件数も増加した。
しかし耐空検査員の業務範囲から動力滑空機は除かれていたため航空局は業務範囲を動力滑空機に拡張するため、全国に分散している耐空検査員を招集し研修を行うべく、検査事務局に協力要請があった。研修は調布の航空宇宙技術研究所で各界の講師を招き、教材にする動力滑空機の調布飛行場着陸を特別に認めてもらい、三機種を使って業務範囲拡大の研修会を実施する事が出来た。そして平成2年12月航空法施行規則の改訂により動力滑空機の耐空証明に関わる全ての検査を耐空検査員の手で実施することになり、平成3年から検査件数が著しく増加した。そんな状況の平成5年11月航空会館において検査員調整会議の後、関係者を招いて、ささやかな25周年を祝う会が開催された。同年9月までの総検査件数は3971件であった。
この制度が本格的に運用開始してから延べ55名の検査員が7回に亘り増員、認定され、平成21年現在30名で全ての検査を実施し延べ9000件を超える耐空証明検査を実施してきた。その間、数件検査に関わる機材面で不具合と思われる事があったものの概ねこの制度を円滑に運用することが出来た。
昭和42年に開始した検査事務局は平成16年まで続いたが、航空協会の方針変更により36年間の業務に幕を下ろし、航空局に事務局を返納し現在に至っている。
終わりに
滑空機の耐空検査には必ず確認飛行を伴うが、滑空活動はスポーツ航空(レジャー航空)として行われているため、大勢の支援スタッフが必要となるので、この辺の事情は一般の航空機の場合と大きく異なる。また検査場所は、北海道の北見から九州の枕崎まで、沖縄を除いた全国に及ぶが、滑空場での実施が圧倒的に多く報告されている。そして年間300件以上の耐空検査を、受検者側の希望する土日祝日を問わない日程、場所で実施出来る事はこの制度を健全そして順調に維持してゆく大きな要素の一つである。
今後とも耐空検査に関わる機材面での不具合を発生させることなく、そして民間活力の活用の良きお手本として、奉仕の精神をもち、慎重にこの制度を安定継続させてゆきたいと思っている。
平成21年9月現在667機の滑空機が登録されている。その50パーセントに当たる約330機が実働機で検査の対象となるが型式はそれぞれかなり異なる。それに各検査員が適確に対応してこの検査員制度を長年に亘り何事も無く円滑に維持できた事は、航空局のご指導は言うまでもないが、全検査員、元検査事務局、この制度を理解し検査に協力して下さった受検者の皆さん、この制度を支援いただいた航空界全ての皆さんの協力の賜物と理解し深く感謝する次第です。
(おわり)