ボーイング747セクション41展示物語(前編) 

 2011年8月、成田航空博物館にボーイング747セクション41の展示物がお披露目された。計画から約3年半の時が経過していた。

突然、話が飛び込んできた

写真2 アメリカのスミソニアン博物館に展示されている747の機首

写真2 アメリカのスミソニアン博物館に展示されている747の機首

 今から3年半前に、突然、JAL時代からの友人であるJALエアロ・コンサルティング(以下JALコン)の小林哲也氏から電話がかかってきた。現在は私もこの会社で働いているが、当時、私は(財)日本航空協会にお世話になっていた。「航空科学博物館(成田航空博物館)がボーイング747(以下747)の機首部(通称セクション41)の組み立て展示を計画しているけど、(小林)忍さんやってくれないか」という話が飛び込んできた。
 話を聞くと、「米国の砂漠に寝ている747のセクション41を分解、切り取り、海上輸送して成田航空博物館まで運び、これを組み立てる」というものであった。
 私はJAL勤務時代に長く機体構造技術に携わったが、747を切り刻んで、これを原形に復元するほどの大作業は経験がない。客室、操縦室の展示も考えているとのことであった。大きさも概算で、ざっと幅6メートル、前後、高さは10メートルくらいにはなる。大変な作業であることはすぐに分かった。断りたいと思った。
 ただ、技術屋というのは、不思議なもので断ろうと思いつつ、一体どうやって組み立てるのか興味がわいてきた。
 お昼休みに、日本航空協会遺産継承基金の長島、苅田両氏に何げなくこの話をしたところ、似たものが米国ワシントンのスミソニアン航空博物館に展示してあるという。ほどなく、最近流行のユーチューブでその組み立て作業のビデオを苅田氏が見つけてくれた。
 大雑把であるが、およそどこを切断して再度組み立てているか分かった。長島氏は、夏の休暇を利用してスミソニアン博物館を見学した際に、この展示物の詳細な写真を撮ってきてくれた。

 ユーチューブでは分からなかったが、室内展示ということだろうか、詳細に写真を見ると結構荒っぽい組み立てをしていることも分かった。長島氏が撮ってきてくれた写真は、展示するとしたら、セクション41の重量の大半を支えると思われるノーズギア(前主脚)の支え方を考える上で、その後の設計で大いに参考となった。成田航空博物館は屋外展示を考えているということであるので、この程度では雨漏りがするはずであり、何よりも日本人の緻密さは満たせないと思った。
 いろいろ調べたが、やはり大変な作業になることだけは確かであり、中途半端では受けられないと思い、小林哲也氏に「興味があるが、やったことがない大作業なので受けられない」と断った。
 彼は、執拗に食い下がり、「いずれ日本から747が消えてなくなる。かって世界で一番747を所有していたのは日本の航空会社である。なんとしても、形だけでも残したい」と言う。考えてみると、我々団塊の世代は、この747に大変お世話になった。いろいろなトラブルも起こしたが、日本の経済成長を支えた歴史上燦然と輝く名機である。それが日本から消えてなくなるというのは、個人的にも寂しい話である。

ビジネスというより男のロマンに

 そう思うとまったく自信はないが、やってみる価値はあるのかと思うようになってきた。ただ、この作業の指揮は、私には無理であった。当時、私は日本航空協会にお世話になっている以上、手伝いくらいはできるが、この仕事は片手間ではできない。どうしても、全体を仕切れる人物が必要である。それを可能にできるのは、一人しか思い浮かばなかった。私のJAL時代の同僚で機体構造技術のプロ中のプロである中村章夫氏である。彼がこの話に乗らなければ、断ろうと考えた。
 彼とは自宅が近い関係で、いつも連絡を取り合っていた。早速口頭であるが、週末に彼に会って、この話を持ちかけた。
 予想したとおり、彼の回答は、「大変な作業で、あまり気が乗らない」であった。お互い長年機体構造技術にかかわっていたので、この作業がどれほど困難であるかすぐに理解できていたのである。
 そうは言っても彼も技術屋である。断りつつも、その一方でいろいろな資料を調べ始めていた。毎週末、自宅近くの喫茶店で、もしこの作業を受けるとするとどんな問題点をクリヤーしておく必要があるのか、ヘビースモーカーである彼の煙を我慢しながら話し合いを重ねた。最初に、一番気になったのは、果たして、米国でセクション41を分解して、日本の港まで運ぶことができても、東京あるいは横浜の港から日本の狭い道路を通って成田航空博物館まで、陸送できるのか。分解するといっても機体の構造で一番がっちりしているコックピット(操縦室)、ノーズランディングギアホイールウェル(前脚収納室)は、切断したくない。後で組み立てるときにずれが生じるとその修正が難しいからである。
 次は切り刻んだ、セクション41をどうやって元の形に復元するのかであった。
 日本の道路は、どれくらいの幅まで輸送が許されるのか。このような大型特殊貨物輸送を専門に行っている(株)浅井さんに知り合いを通して確認してもらった。
 それぞれの道路を所轄している警察に申請する必要があるが、一番すいている土曜日の深夜から日曜日の早朝で前後に先導車を配置して幅4.8メートルの運送実績があるとの回答があった。
 輸送は当然木箱に入ってくるので、その余裕を見て、幅4.6メートルが限度と考え、中村さんに調べてもらうと、繋ぎしろを考えると幅4.65メートルはほしいが、少し工夫すれば、4.55メートルに抑えることができるとのことであった。何とか陸送できそうだということまでは分かった。
 この時点で、作業を引き受けるかどうか決めていなかったが、依頼主である成田航空博物館の関係者とお会いしてお話を伺うことになった。
実際お会いしてみると、「これは10年来暖めてきたプロジェクト」であるという彼らの熱意もひしひしと伝わってきた。いよいよ断りづらくなってきた。
 私も正直に話した。「こんな大規模な作業は、まったく経験がない。正直、完璧に元の形に復元できるかどうかわからない。屋外展示作業となると整地や地盤の補強も必要となり、がんばって組み立てても多少凸凹するかもしれない。ただやりがいのある仕事と思っている」
 ここまでくると引き受けるも引き受けないも、ビジネスというより男のロマンに近くなってきた。これまで培ってきた技術力を、自信はなかったが社会に恩返しする感覚であった。
 引き受けるかどうか、どれくらい費用がかかるのか分からないが、一度砂漠に寝ているという747型機がどのような機体なのか、傷んでないのか現物を確認したいことを申し出た。
 2009年12月に、JALコンの小林哲也氏と私で、ロサンゼルス経由アリゾナ州ツーソン空港から北へ車で約1時間に位置するマラナ砂漠に向かった。
 マラナは、米国にいくつかある飛行機の墓場の一つと思っていたが、実際訪れてみると、飛行機は整然と並んでいた。

 お目当ての機体は、元ノースウェストの747である。外部塗装は、だいぶ傷んでいるが、腐食等の致命的な欠陥は内装をいくつか剥いで直接アルミ板を確認したが、見当たらなかった。
 客席、操縦室も古びているが、クリーニングすれば再使用可能と思われた。機体そのものは使えそうである。ここまでくると逃げるわけにいかなくなった。
 帰国後、成田航空博物館さん側と話し合いに入った。具体的なJALコンと成田航空博物館の契約等の詳細は、これから両者でつめるとしても技術的な検討は、進めていただきたいというお話をいただいた。

 

8つに切断して、再び組み立てる

 これが中村氏と私で最初に考えた組み立てポンチ絵図である(図1)。セクション41を8つに切断して、再び組み立てるという発想である。航空機は組み立てることが出来るとしても、セクション41を支え、見学者用の階段のある躯体は、専門業者に任さざるを得ない。躯体とセクション41は、1階と2階の床ビーム(フロアービーム)、左右4箇所を使ってビームで結合するアイデアを考えた。
 次に大雑把な設計、強度計算をするためにも、セクション41の総重量、重心位置を推定する必要がある。概算では、重量はどんなに重くても26トンくらい、重心位置は、ノーズギア(前主脚)の少し前方ということが分かった。
 役割分担として、地面の整地や補強、躯体の設計は、空港施設の設計で実績のある(株)梓設計さんにお願いした。中村氏と私は、セクション41の分解組立の設計、いわゆる能書きは言えても実際に組み立てるのは、航空機の構造や客室の整備士の力を借りなければならない。これは古巣のJALにお願いするしかない。機体構造は何とか組み立てるとしても、操縦室を初めとした内部に見学者を受け入れるので、内部の内装もキチッと仕上げる必要がある。成田航空博物館の担当者からは、細かな指示はなかったが、単なる見学ではなく、普段は見れない内部機体構造も見えるようにしていただきたいとのことであった。
 そこで、大体であるが右側は、普段の客室仕様にして、左側は、内装をすべて取り払い機体構造や配管、ケーブル等をむき出しにして展示することにした。床板も少しくり貫いて、下部の構造やブラックボックスが覗けるように透明のアクリル板を取り付けることにした。
 その後、梓設計さんと打ち合わせに入ったが、面白いやり取りがあった。航空機構造の組み立て誤差は、通常1ミリ未満である。いくらなんでも一般の建築物の組み立て誤差1ミリは厳しいだろうということで、2ミリまで許容しようと話したところ、「とんでもない、建築物の組み立て誤差は、2階建てくらいになると2センチが当たりまえ」といわれてしまった。はじめて、航空機の組み立て誤差と地上建築物の組み立て誤差には桁違いの差があることを思い知らされた。
 そうは言っても、ぶつかってばかりいられないので、セクション41と躯体の取り合いのところでは、組み立て誤差を5ミリまで許容するということで、折り合いがついた。梓さんのほうでは、できるだけ寸法精度を上げるため、すこし値段の高い鋼材を使用することになった。こちらでは、組み上げ時、ぶつかってはいけないので、隙間をシムで調整する方向で、5ミリの誤差を考慮して設計に入った。
 セクション41のほとんどの荷重は、ノーズギアで受け持つことになり、通常の航空機のようにクッションのようになってはならないので、どのように固定して且つ荷重を受け持つことができるのかについても検討した。中村氏は図面を詳細に調べ上げて、ノーズギアの内部に中空の金属(ブッシング)を取り付けることで固定できることが分かった。
 当然地震、風等に対する備えのために安全率をかなりとることも考える必要があった。航空機は、地震の震度に対する強度要件などはないので、機体重量に対して、上下左右、前後に荷重倍数を十分に取りそれに耐えるようなつなぎにすることにした。

プロジェクトが始動する

 3月くらいになり、JALに正式にセクション41の組立作業に参加してもらえないか、同じくJALエアーテックに、機材等を運搬する器材、クレーン車、作業用の大型テント等の依頼を行った。幸い、両社とも快く引き受けてくれた。5月くらいになると具体的に作業に参加するメンバーも決まり始めた。機体構造組み立て関係者は、ベテランの袖岡宏氏をヘッドに、佐伯信義さん、堀越耕太さん、小柳貴博さん、客室内装は、佐藤貴志さん、近藤剛之さん、ノーズギア取り付けは渡邊忠さんが指名された。
 実際の作業は、2010年の暮れを予定していたが、ヘッドの袖岡氏は、6月くらいから、中村氏と詳細な打ち合わせに入った。
 外板のつなぎ方やフレームのつなぎ方、ストリンガーのつなぎ方をどうするかは当然であるが、初めに工夫を要するのは、どうすれば原形に復元することができるかである。たぶんアリゾナの現地では、チェーン・ソーでかなり荒っぽく1センチくらいの幅で削り切断されるので、そのままでは、原形に復することはできない。
 相談の結果、外板、フレーム、ストリンガーをマラナで切り取る前に切断位置の上下、左右に何箇所かあらかじめ作成した位置あわせのためのジグ・プレート(Jig Plate)を取り付けて組み立て時の位置を確保しておく。胴体左右の外板(図1の③、④)については、左右に変位する可能性があるので、床板との間にジグ・バー(Jig Bar)を数本作り、切り取り前に、位置決めをしておくことを決めた。袖岡氏は、構造技術者らしく次から次と、整備工場でジグ・プレート、ジグ・バーの製作に取り掛かった。作業効率を上げるために、標準的なスプライス・アングル(結合用アルミ材)等を事前に製作しておくという工夫もした。
 本来であれば、今回のような大掛かりな作業は、きちんと図面を作成して作業指示する必要があるが、そこはお互い旧知の間柄である。口頭ですべての技術指示が伝わったこともその後の作業がスムーズに進んだ要因であった。通常では許されない作業の進め方であった。
 8月になり、成田航空博物館とJALコン間で正式契約を結んだ。その後、躯体は梓設計、施工は地元の建設業者である(株)ナリコーさんにお願いすることとなった。ようやく秋になり、関係者が具体化した。成田博物館では、当初セクション41の完成は、2011年9月ごろを予定していたが、子供の夏休みに見学してもらいたいとの強い希望で、7月末の完成を希望してきた。なにぶんにもこれまで経験のない作業であるので確約はできないがこれを努力目標とすることにした。
 9月なり、マラナ現地の作業をするエバグリーン社との具体的な打ち合わせ、現物確認のため、中村氏をリーダーに袖岡氏、佐藤氏が現地に赴き、どこを切断するか、切断前に、組み立ての位置決めのためのジグ・プレートを取付位置を取ること等の打合せに向かった。
 打合せが終わりいよいよ本格的な切り出しが11月から始まり、やはり中村、袖岡、佐藤の3氏が約3週間現地に滞在して、先方の技術者と一緒になって働いた。

 

 こうして、現地マラナから陸送してロサンゼルスの港から横浜大黒埠頭にセクション41が到着したのは12月の末であった。

つづく

執筆

小林 忍

(株)JALエアロ・コンサルティング

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