飛行艇パイロットの回想
-横浜から南太平洋へ- (14) ダバオ救出大作戦

1. 古賀司令長官の殉職

 マーシャル群島の北西のパラオは南洋庁の所在地であり、内地と変わらない小都市が拓かれていた。しかも西向かいがフィリピンへの最短距離に位置し、南の生命線として要に位置していた。

 昭和19年2月中旬、トラック島に来襲した米機動部隊の艦載機の猛攻により、わが艦船は壊滅的損害を被った。日本艦隊機能が完全に麻痺し、日本海軍の反抗作戦として、トラック島に布陣する第四艦隊とスマトラの第三艦隊との合同作戦司令部をフィリピンの陸上基地に移すことになった。古賀峯一連合艦隊令長官以下、司令部高級参謀将校や参謀の大部分がトラック島からパラオ島を経由してフイリピンのダバオ基地への移動が極秘裏に開始された。3月31日、経由地パラオで、海軍の二式大艇2機に乗り換えた。パラオでの飛行前の整備と燃料補給作業は深夜に及んだ。

 パラオ島一帯の米艦上爆撃機による昼間から数時間におよんだ大空襲は、島全体を恐怖におとしいれていた。夜間になっても赤々と燃え上がる無気味な雰囲気の中、出発寸前になっても誤報をふくめ何回もの空襲警報が発令された。当然、深夜の空襲警報発令中の混乱によって基地機能は低下した。

 十分な給油作業も思うように進まず、2機とも予定の七割位の燃料搭載で打ち切って大急ぎで悪天候の夜空へ、ダバオに向けて飛び立った。どんな緊急かつ重要な作戦計画といえども、暗夜で、しかも悪天候の洋上を目視のみによる飛行では、当時の最優秀の乗員が飛行したとしても、10%の成功率も期待できない。

 迅速かつ確実を要する司令長官ら海軍中枢の移動に対する輸送飛行業務は、責任重大であることに変わりはない。それだけに、絶対安全であることを第一とする慎重な飛行が要求されていたはずである。

 時には急がば回れ、もありうるだろう。あの時の長官一行の行動は、冷静さを欠いた無鉄砲としかいいようがなく、まさに暴挙といってもよい。奇跡を信ずる神頼みで、天運あるのみであったが、天はやはり、この一行に味方しなかった。
 
 途中の天候は予想通りの悪天であった。台風が発生する初期の熱帯性低気圧にぶつかり、夜間の豪雨のなかを突破するのに予想外の燃料を消費してしまったのか、長官の乗機である一番機はついに行方不明となってしまった。二番機はようやくフィリピンに到着したものの、位置確認もできないまま燃料不足が重なってセブ島付近の海上に不時着して大破した。

 二番機に搭乗していた福留参謀長以下の9名は近くの島へ命からがら上陸したものの連合軍ゲリラの捕虜となってしまった。後日、ゲリラと取引して一行は救出されるが、捕虜になったうえ作戦計画書や暗号書を奪われた大失態にも拘わらず、一般の将兵と異なり責を受けなかった。この一連の遭難がいわゆる “乙事件”である。

 私の経験から一番機の遭難を推定すると、深夜でほとんど視界が遮られている悪天候の状況では超低空で突発的に不時着水した場合、この機体の特徴であるポーポイズ運動(後述)を起こし、回避操作空しく海中に突っ込んだのではなかろうかと判断する。古賀長官はじめ、同乗の高級将校全員は海の藻屑となってしまった。

 翌朝、4時間後にダバオからパラオへ同じコースを逆に飛行した他機からの報告によると、天候は次第に回復してきているという。結果論であるが、ダバオ到着の際、天候回復と薄暗く目視出来る早朝まで待って、4時間ぐらい遅れて飛行することができなかったのかと、悔やまれてならない。要人の移動ならば、なおさら慎重に慎重を期すべきだった。何故にこのように起こるべくして起こったような、無茶苦茶な飛行を強行したのか理解に苦しむ。

 洋上に墜落した2機を担当した塔乗員たちとは飛行艇の操縦を学ぶべく、海軍での委託訓練で同じ釜の飯を食った仲だった。身近で兄弟の様な仲間のパイロットが死んでいくほど辛いことはない。悪夢だったとしか思えない悲惨な飛行結果に、ただただ切歯扼腕するだけだった。

2. 二式飛行艇の泣き所

 九七式大艇に代わって、大量輸送が可能な二式大艇の輸送任務は日に日につのる一方となったが、ここで飛行艇の操縦テクニックを説明させていただく。
 この機体の操縦上で一番の泣き所は、なんといっても離着水時に前述したポーポイズ運動が起こることである。飛行艇が離着水時の水上滑走中に波とともに機首がもちあげられて、跳ねるように跳びあがり、あがりきったところから、今度は逆に機首をガクンとさげて水中に突っ込む様がイルカの跳躍に似ているところから、この名がつけられた。

 これを修正する操作は非常に難しく、かすかな初期のポーポイズをおこす傾向がでる直前を素早くキャッチして、特殊のテクニックで征することが可能であるが、寸秒の差で遅れると操縦不能になってしまう。ひどくなるとこのポーポイズの振幅がだんだん短くなり、ついには機首から海中へ突っ込んで大破沈没、最悪の場合は機体もろとも人命を失う危険があるのだ。
 原因の一ッは、機体の重心位置が極端に後方に移動していて前後の安定を欠いたときが要注意だった。大日航も、このポーポイズによって台湾の東港とボルネオのタラカンで2機を失った。

3. ダバオ一帯の戦況と兵たちの嘆き

 ダバオ一帯は、米海軍機動部隊が西へ西へと勢力を増強してフィリピン奪還作戦を着々と進めていた。最南端に位置するミンダナオ島駐在の我が軍の基地を孤立させるために、米艦隊は大量の兵力を投入してこれを制圧し、制海権、制空権をほぼ完全に掌握していた。我が軍の各航空基地は連日の空襲によって、ほとんどの飛行機は破壊され、飛行場は作戦機能を失っていた。我が軍の南方の戦力は日に日に制約され、補給線は断たれ、反撃のチャンスはもはや不可能の状態になっていた。不安が加速され、玉砕への道はもはや時間の問題だったのである。そしてついに19年10月、我が残存の連合艦隊がレイテ沖に集結して米艦隊との大海戦、いわゆるレイテ沖海戦を展開し壊滅的打撃を被った。

それより少しさかのぼるが、内地では酷暑がつづいていた19年8月上旬、宮田機長と操縦士の私、越田、航空士功刀、機関士2名、通信士2名が二式大艇に乗り込み、海軍実戦部隊士官や軍需物資輸送の指令を受けて横浜を離水した。一路南へ機首を向け東港経由してマニラのキャビテ海軍基地に停留した。

 そこでは召集された年輩の下士官たちが日本に残している家族を心配して、我々の宿舎に集まり、内地の話に花が咲いた。私事だが、家内の父親も18年にこのキャビテ海軍基地からボルネオへ燃料補給船に乗りこみ敵潜水艦に撃沈されて命を落としている。
 「内地は食糧も緊迫して、さぞ困っているでしょうね。どんなことでも結構ですから内地の話を聞かせてください。お願いします」
 「敵機B-29の空襲が激しくなり、食糧は配給制になりましたが、まだまだ田舎へいけばイモやカボチャ類などの買いだしができます。心配ないですよ」と慰めるしかなかった。

 「安心しました。私たちも、まさかこの年で充員応召を受けて再度、海軍生活を送るとは思いませんでした。私どもには、子供達も成長し年頃の娘もおります。急遽、マニラにきてしまったので、いろいろと整理をする暇もなく、出てきてしまいました。それにしても、貴方たちはいいですね。明後日は台湾の東港経由で内地ですか。本当に羨ましいなぁ」
 「そうですか、どうもご苦労さまです。我々ははまだ若いので、お気持を十分お察しできなくて残念です。多分、明後日は内地ですので、できるだけ機会をつくって、留守宅にお元気な様子を連絡しますからご安心ください」と答えるのが精一杯であった。

 そのまま先輩下士官たちと談笑していると、馬鹿丁寧な連絡が入った。
 「是非、司令がご相談したいことがあるそうです。司令室にご足労願います」
 「よっしゃ、きっと司令も内地の話でも聞きたいのだろう」と気楽な気持で司令室へ出向いた。ニコニコと穏やかな司令が座っていて、テーブルの上には太く赤い矢印がしてあるフィリピン全土の地図が広げてある。すぐに冷たいジュースや小さいのでダットサン・ビールと呼んでいた小ビンのビールが、運びこまれた。

 「やぁご苦労さんでした。飲み物をどうぞ。皆さんにご相談申し上げたいことがございまして、わざわざお休みのところを失礼とは思いましたがご足労をおかけしてすみません」
司令自らビールを注いでくれた。当方はすっかり恐縮してしまった。
<ははーん、司令も先程の下士官達と同じ思いだな>と、勝手に解釈していた。
棚に並べてある初めて見る高価な洋酒にチラチラ目が移り 「何なりと、どうぞ。われわれでできることは何でもいたしますから」と言ってしまった。
 「本当ですか、それはそれはどうも有り難うございます。あっ、皆さん、このウイスキーの方がよかったですねぇ。話が終わりましたら、ゆっくりと一杯やりましょう」 
それで「ハァハァ」二ヤッとしながら、首を軽く上下させた。 
すると司令は「そうですか、そうですか」と繰り返しながら、やや声をひそめた。

 「この地図をご覧ください。丸く囲んであるのが、わが軍が集結している前線基地です。赤い矢印は、敵の勢力の動きを示しております。今ダバオは孤立状態であります。ダバオ海軍航空隊基地には、優秀な搭乗員、整備員、それに大日本航空の職員が数名残留しています。どんなことがあっても、一刻も早く救出したいのです。すでに総司令部とは連絡ずみであり、我が海軍基地撤退作戦を是非貴方がたのお力添いで成功させていただきたい」

 いつの間にか口調は命令形になっていた。こりゃえらいことになったぞ。思わぬ提案に腰がひけた。どうやって敵戦闘機の目をかすめて敵地へ潜りこめというのだ。たとえ着水できたとしても、どうすれば救出できるのか。敵の空襲で炎上でもしたら万事休すだ。海に飛び込んだら、たちまちサメの餌食になること請け合いだ。頭のなかで諸々のことが空転するばかりで目の前が真っ暗になった。

 「やってくれますか、いかがでしょうか?慎重で綿密な行動が出来るように救出作戦をご検討願います。当隊の水上機搭乗員でダバオの経験者のなかから2名選出して、その救出作戦会議に参加させますから」
 司令は深々と頭をさげた。そこまでいわれたのでは、われわれも日本男児、大日航海洋部乗員だ、やってみようじゃないかと相成った。

 「承知しました。やってみましょう。無事救出するよう頑張ります」
 ぐっと胸を張ったまでは良かったが、待てよ、これは大変なことになったぞ、用意周到な準備が必要だし、絶対成功させなければならない。ウイスキーの一杯にまんまと釣られてしまったが、不安部分は何かと検討をつづけた。その結果、以下の様に要点がまとまった。

一、出発時、燃料は往復分とし、満タンとする。
二、コースは東側海岸線を選び、敵戦闘機の攻撃をさけるため高度50㍍くら
  いの低空飛行で椰子の木すれすれで、できるだけ島影を選ぶ。敵と遭遇し
  た場合は、可能なかぎり雲を利用して回避する
三、ダバオへの進入は、ミンダナオ島の南端をかすめ早めに着水態勢をとって
  水面すれすれの超低空飛行で回りこむ。
四、前もって約束した白い吹流しが目印のブイに飛行艇は繋ぎ、救出される35
  ~40人とゴム艇は海岸に待機させておく。
五、帰途は万一に備えて大勢の見張りと、二式大艇に装備されている2挺の20㍉
  機銃に海軍搭乗員で射手の経験者を指名配置させる。
六、ダバオで予定残存燃料と搭乗する人数の配置と、ポーポイズを防止するた
  め重心位置が確認できる予想離水データは事前に作成しておき、調整は現
  地で行う。
これらのことを検討していたら夜明けになっていた。

 ダバオ基地へは実施内容が直に打電された。そして一睡もせずに、急いで準備にはいりマニラを飛び立った。航路上空は米空軍の哨戒が厳重なので、予定どおり東沿いに椰子の木すれすれにできるだけ超低空飛行を行い、敵の攻撃をさけながらの飛行を続けた。大型機の操縦をオートパイロットも使用せず、油断も隙もない超低空を飛行した。さすがに長時間飛行していると疲れがひどく、そのうえ冷房装置も無いので蒸し暑い。

 前方は無論、上下左右を警戒しながらの飛行である。ときどきジャングルのなかから敵か味方か判別もできない対空砲火が飛んでくる中を、防暑服を汗ビッショリにして飛行をつづけた。やっとの思いでミンダナオ島の南端をかすめて湾内に回り込もうと右旋回していると、高度800㍍ぐらいで2機の米戦闘機が南海上に向かって飛行しているのとすれ違った。敵の上空警戒をまぎらすべく、右旋回を続けダバオの湾内に潜入、高度20㍍までさげていつでも着水できる姿勢で飛び込んだ。

 右側にダバオの日本海軍航空隊基地と白い吹流しの目印がが見えてきた。ホットしていると、なんとその3㌔ほど前方に米軍のコンソリーデットと思われる飛行艇がチャッカリとブイに繋がれているではないか。やっぱり十分気をつけるにこしたことはないと、いやでも気合がはいった。出発時に連絡して待機させていた、二式大艇の搭乗定員を超える救出者約40名を大急ぎで収容を開始した。その間、米軍飛行艇もわが方と同じような荷物の積み卸し作業中らしく、攻撃行為がなかったのは幸運だった。敵の戦闘機の空襲でも受けたら大変だ。全員、無言と緊張のなかで手際よく作業がすすめられ、瞬く間に搭乗完了の手信号が送られてきた。

 とにかくウエイト・アンド・バランス(W&Bと略称で書き、燃料をはじめ乗客、貨物等が、機体重心の範囲内にバランスよく搭載されていることを計算し確認するマニュアル作業であり大型機で必要)を計算する時間すらなかった。

 大ざっぱに水平方向に対して機首の上下が概略判る、大工用具の水平儀を縦にしたような赤インクのゲージを頼りに予想データと合わせて適当に搭乗者の配置を指示した。あわただしくエンジン始動、風に正対する間もなく離水操作に移った。占領されたダバオ湾で離水やり直しやポーポイズを起したら全滅だ。「かんざし」の御蔭で無事離水が出来、十分その効果と微妙な修正ができた。水平線と操縦士の目の位置との中間に、機種の前方に装着している速度計測器/ピトー管の中程に直交させて取り付けた横棒は俗に「かんざし」と呼ばれ、これによって機首角度の5度保持が可能になり、ポーポイズを発生しにくい事が判明した。ポーポイズの初期に機首角度の修正を正確に操縦操作で保持ができる「かんざし」の功績は貴重なものである。

 敵占領地での離水だから緊張の連続であったが無理のない条件に、機体重心位置を計算する時間すらなく、機首上下を示すゲージの目安と「かんざし」を唯一の頼りに乗客の搭乗位置を5名前方に移動し、重心位置を少し前にくるように「かんざし」で調整し離水した。すると案の定ポーポイズ初期状態で機首が少しUPするのが「かんざし」と水平線で判った。素早く操縦桿で機首を押さえ、直ぐ元にもどし+5度を保持して無事飛び上がった。

 「かんざし」がなかったらとても出来ない技だったと今でも身震いがする恐ろしい思い出であった。とにかく一発勝負でやるしかない。左席の機長の横顔もいつになく厳しさがただよっていた。2人で懸命に離水操作を行った。
 北に向かってようやく浮揚に成功、左側に着水していた米軍のコンソリーデット飛行艇は、すれ違うように南に離水していった。お互いに逃げるように離れていく。緊張のあまり、足の小刻みな震えがしばらく止まらなかった。

 離水後ただちに左旋回。上空では敵戦闘機3機が南に向かって飛行しているのが見えたので、そのまま左旋回をつづけながら南から北へと超低空飛行。とにかく一刻も早くミンダナオ島を離れたかった。来た時と同様、敵か味方かわからない地上砲火を浴びながらミンダナオ島の空域をくぐりぬけた。この一帯は、この救出飛行の2ヶ月後には日米艦隊が入り乱れ激戦となったレイテ沖海戦が展開されたのである。

 敵機の来襲を注意深く、目を皿のようにルック・アウト(風防を通して外界を見ること)しながら徐々に高度をあげ快適な巡航に移ってからの一服は何事にも代えられなかった。
 「助かったぞっ」
 「日航さんは素晴らしい。よくきてくれた」
 後ろの客席から一斉に歓声がわきあがたときの感動は、いつまでも私の体中に焼きついて離れなかった。
 無事大任を果たしてマニラのキャビテ基地に到着し、翼を休めることができた。搭乗者一人一人一人が次々と操縦席へ現れ感謝の声をかけてくれた。
 「ありがとう」、「ありがとう」
 抱きつかんばかりの微笑みを浮かべている彼等と一人ずつ固い握手をかわしながら、こちらも嬉しさがこみあげてきた。<空だ、男の征くところ、男冥利につきるわぃ>と、満足感で一杯だった。
 ふと宵闇せまる機外に目を移せば、コレヒドール湾の水平線上には真っ赤な夕日が優しく微笑んでいた。 後日、海軍省から感謝状が送られてきた。

執筆

越田 利成

元大日本航空パイロット、元日本航空パイロット

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