飛行艇パイロットの回想
-横浜から南太平洋へ- (13) 九七式大艇還らず
歴史
1. 古賀司令長官一行の搭乗
「重要任務遂行のため、九七式大艇一機の完全整備を実施、乗員厳選のうえ明早朝、出発の準備を完了せよ」昭和18年4月23日、横須賀海軍鎮守府(軍港の統括機関)から突然の指令が大日本航空横浜支所にくだった。早速、整備を完了。乗員は大堀機長に越田操縦士のグループ。朝3時に起床し、定刻30分前には滑走台前にスタンバイして出発を待っていた。しかし一向に搭乗者が現れない。
「一体どんな連中が急遽サイパン経由トラック島に向かうのかなぁ。あれほど厳しい命令をくだしておきながら、あと15分くらいで予定時刻になるぞ」
語り合っているうちに数台の高級車が艇体の搭乗口わきに整然と並び、瞬く間に海軍の高級将校たちが乗り込んできた。「パターン」とドアが閉められ、 実に見事な定刻出発となった。海軍が誇る『5分前の5分前の5分前』だ。水平飛行に移ったあと、客室を覗いた通信士が驚いて帰ってきた。
「全員、ベタ金ばかりで相当な高官連中ですよ」彼らの任務については乗員にも極秘であった。後日、古賀峯一司令長官と参謀の一行がトラック島艦隊基地の連合艦隊旗艦武蔵へ赴任したことが判明した。大日本航空海洋部の運航実績が高く評価されての利用だったと思う。我が連合艦隊司令長官は同年4月18日に戦死した山本五十六長官の後任に、4月21日付けで古賀大将が極秘のうちに新補されていたのである。
米軍の攻撃は激化する一方であり、中部太平洋の島々は次々に占領され、ソロモン方面でも東南方面から島伝いに米軍の攻めの布石がうたれていた。それでも我が連合艦隊は、空母中心の機動部隊と基地航空隊で必死に反撃していた。
一方、内地では消耗の激しい搭乗員と飛行機の補給のため、海軍士官の制服に身を包んだ予備学生と、七ッボタンで華やかに着飾った少年航空兵、いわゆる予科練の速成がはじまった。同時に、飛行機の増産につぐ増産の要求は、勤労奉仕として女子学生まで動員され、一億総動員体制がしかれていた。彼女等は学業に代えて、精巧であるべき航空機部品を馴れない旋盤を回して生産に協力していた。
しかし、南洋諸島の制海権と制空権を奪われてしまった日本軍は打つ手がなかったといってもよかった。その結果としてとられた戦術が人間の精神力と肉体の犠牲によって補おうとする、絶望的な『特攻隊』作戦だった。員数合わせに集めた要員のほとんどは、17~18歳の予科練と、20歳を出たばかりの予備学生たちであった。彼らは貴い生と死の相克に、未熟な若さで直面しなければならなかった。
2. グリニッチ環礁の惨状
この極秘飛行の前年、昭和17年の初期、すなわち日米が開戦した数ヶ月後、連合艦隊の南方拠点であるトラック島の南方で赤道に近いグリニッチ環礁には、新前線基地建設のために大勢の徴用民間人が送られていた。程なく「頻繁な敵空襲で新基地建設不可能、瀕死者多数あり」との報があり、彼らを救出する指令をトラック島の第四艦隊から受け、大堀機長が指揮する九七式大艇がグリニッチ環礁内に着水を敢行した。無事に着水して海岸を見ると大勢の人々が一列横隊に並んでいて動かない。不思議に思って上陸したが、そこで初めて彼らが累々たる屍であったことがわかった。
しかも指揮所の司令官は、声が震えてよく聞きとれないくらいの恐怖状態に陥っていた。大日航の九七式大艇が着水する直前にも空襲を受けたとのことだ。この世の地獄絵だった。大急ぎで生存者を救出、離水に成功し、上昇しはじめると機内は負傷者大勢の苦しそうなうめき声であふれ、胸が締めつけられる思いであった。このときは水上戦闘機2機に護衛されて救出作戦を敢行し、やっと無事トラック島へ帰還出来たのであった。トラック島は南洋における連合艦隊の一大基地で丁度、米海軍基地パールハーバーに位置、役割とも匹敵した。
3. トラック基地も大空襲を受け大打撃
だがそのトラック基地も、空襲の危機がひしひしと迫る勢いだった。昭和19年2月17日、予想通り米機動部隊の艦載機による大空襲を受け、多数の軍艦や輸送船団に大損害をだし基地機能の殆どを失う大打撃を被った。
その直後に、甲高機長(後にパラオ~ニューギニアのマヌカリ間を飛行中、敵機に撃墜され殉職)と筆者越田操縦士の九七式大艇組は、サイパンから米軍の哨戒網をくぐって、やっとの思いでトラック島上空に到着した。下界には破壊され航行不能になった船舶があちらこちらに散在しており、もはや栄光ある海軍聯合艦隊の勇姿はなかった。激しい戦闘のあとの静寂のなかに、撃沈された幾多の艦艇があちこちに無造作に横たわり、大艇が着水するための滑走帯を探すのが困難なほどだった。
米駆逐艦の湾内進入を、日本海軍の駆逐艦が体当たりして撃退し、この勇敢な攻撃のおかげで、トラック島を死守できたと、生き残りの整備員から聞かされた。何回も空襲警報で薄暗く湿っぽい横穴の防空壕に退避し、翌早朝サイパン経由で横浜に帰還した。しかし、遂にサイパン島も、米機動部隊による大空襲と艦砲射撃、そして上陸と、大激戦が展開され玉砕へと敗戦の布石となった。
前回掲載の『地獄極楽紙一重』に記したが、昭和19年6月にはいって早々、我々の九七式大艇は米艦載機の空襲を受けて修羅場のサイパンを超低空飛行で脱出し、横浜に無事帰還した。しかしその翌朝、別の飛行艇2機が特別指令を受けてサイパンへ向け相次いで磯子沖を飛び立っていった。両機は長島機長に村地操縦士の九七式大艇と、宮田機長が指揮する二式大艇で、海軍士官や軍属、軍需物資等を満載し、ほぼ同時刻にサイパンに到着する飛行計画だった。
以下に記すのは両飛行艇の顛末で、勇躍奮闘したものの、九死に一生をえて生還した服部氏が涙ながらに語ってくれた。同氏はサイパン経由でジャワ島のスラバヤに転勤のため、宮田機/二式大艇に横浜~サイパン間の臨時搭乗事務員(パーサー)として乗務についていた。
4. 九七式大艇、応答なし
父島から硫黄島の東方までは、絶好の飛行日和に恵まれて、あと約1時間半で「さぁ、サイパンだ」と、米軍機の見張り態勢を厳重にしていた矢先、サイパンから緊急通信がとびこんできた。
「目下サイパンに向けて敵艦載機大挙来襲中、空襲警報が発令されたため詳細あるまで進入を回避し、現在位置で待機せよ」通信士はレシーバーにしがみつきながらスタンバイしている。乗員一同、一瞬ためらったが待機すべく2機は大きく旋回をはじめた。その間、雑音に悩まされながらも何回もサイパンを呼びつづけた。
「ようし、駄目ならいますぐモウグ諸島郡内に不時着水すれば二式大艇はサイパンへの燃料は十分ある。万が一引き返す場合でも、なんとか父島に滑り込む燃料が確保できるかも知れない。しかし、九七式大艇では父島へはかなり厳しいぞ」僚機を心配しながら空襲警報解除の朗報を神に祈る思いで待っていた。やがて無情な通信がとびこんできた。
「サイパン目下空襲中、被害甚大、警報解除の連絡あるまでモウグ島で待機せよ。ガーガーピーピー・・・」
雑音のなかから、ようやく内容を理解した乗員は無念の臍をかんだ。やむをえん。決断して飛行艇ではまだ誰も
着水をしたことがない処女地モウグ島に向かわざるをえなかった。
「我、モウグ島へ向かう」
二式大艇と九七式大艇は同じ発信をしながらモウグ島へ機首を向けた。
「敵の攻撃が厳しくなった。今後、交信困難、ガーガー・・・」 その後何回もサイパン通信所を呼び出してみたがこれが最後の通信になった。
父島からかなり南方へ飛行すると無気味に噴煙を上げている孤島の活火山ウラカス島がポッンと最初に現れる。さらに南下してサイパンから最短距離に位置するのがこのモウグ島であるが、3島で構成されるのでモウグ島群の方が適当である。この小島に囲まれた中心は湾のようになっている。その昔、大噴火でできたカルデラが沈んだものと思われる。したがって、小島群はあたかも荒波に対して防波堤の役目をはたしている。しかし、この馬蹄形に点在している小島群の海岸は険しい絶壁になっており、平地の砂浜がほとんどない無人島である。それでも海軍通信部隊は中継の任務のために数人の通信員を駐屯させていた。
幸いに湾内の波はおだやかで多分、高度な技量をもってすれば飛行艇の着水は可能であろう。降りるところは此処しかないのだ。どうにか無事不時着し、小島の狭い砂浜をみつけて係留までこぎつけた。僚機の九七式大艇も着水し別の小島の砂浜へ向かっていた。
早速、飛行艇に搭載されているゴム・ボートに乗り移り、島に上陸した瞬間、プーンと鼻を突く魚介類の腐敗した臭いが漂い、その臭いは砂や砂利にまでしみ込んでいた。海軍士官の話では、季節になると沖縄からカツオ漁船が立ちより、漁師たちは釣った獲物を現地でカツオ節に加工していたそうだ。
ギラギラと照っている太陽の下、吐き気をもよおす物凄い悪臭が漂う中、若い士官たちは、小山によじ登って椰子の実を集め、全員が渇きをしのいだ。いつもの南洋の素晴らしい夕日が西に沈んでいった。飛行艇のなかで、戦争の厳しさを体いっぱい感じながら、まんじりともせずサイパンからの連絡を待ったが、ついに連絡がなく、空しく一泊することになった。
次の日、東の空がやっと明るくなってきた。これから一体どうすればいいんだ。この無人島に、このまま飛行艇が停泊していたら、いずれは米軍機の格好の攻撃目標になる。攻撃されるのは時間の問題なのだ。どうすることもできず、全員にじりじりと焦りの色がでてきた。海軍の通信所が遠望できる小島を恨めしく見つめていたとき、待ちに待った紛れもない手旗信号発信用意の両腕を一杯にひろげ、上下している紅白の手旗が目にはいった。
「しめたっ、航空士は海軍偵察員の経験者だ。手旗信号のベテランだ」
早速、双眼鏡を覗きながら声をだして読みとっていた航空士から
「サイパン島の空襲は解除される見込みナシ」
同文句が繰り返して2回送信された。最後の頼みの綱であった一縷の望みが潰えたのだ。なんと無情な送信だろう。燦々と輝く太陽が真っ黒に感じられた。しかしこのままじっとしているわけにはいかない。米軍機に攻撃される前に、一刻も早く、ここから脱出する必要があった。素早く父島への退避が決定された。モウグ島群の静寂を破る爆音を残し、目の前に現れてくる岩々を回避しながら、たくみに旋回して二式と九七式の両大型飛行艇は再び洋上へと飛びあがった。
呼べども応えぬサイパン。やっと横浜通信所と交信ができた。
「我 父島に向かう 手配頼む」
「了解 現在サイパンは敵連続攻撃中のため交信不可能 明早朝までには父島も敵空襲の恐れあり。速やかに父島から横浜に帰還せよ。米軍に傍受されないように十分な警戒態勢をとり九七式飛行艇と交信を頼む」
ついに撤退命令がとびこんできた。残存燃料の少ない九七式大艇の通信を傍受していたが、胸騒ぎがして止まらなかった。どうしても長島機の位置を確認できなかったのだ。多分、「解除される見込みなし」を期待するあまり「解除される見込み」と誤解し、2度同文だったが「ナシ」を見逃してしまったのだろうか?
やはり父島までの燃料が不足していたのか。その後の航跡が全くつかめなかった。途中、何度も何度も九七式大艇を呼び続けたが、雑音だけが、空しく耳朶に響いた。どうやら天運に任せて、激戦最中のサイパンへ通信不能の超低空飛行で突入していったとしか考えられなかった。
米軍機の索敵を恐れて、宮田機長の二式大艇は、超低空で父島に滑り込むことに決め、小笠原諸島に向けて北上した。幸いにして追い風を受けて飛行できたが、それでもギリギリの燃料量だった。<せめて父島まで燃料がもってくれ>と、無我夢中で神に祈ったのは、服部氏だけではなかった。
「追い風だから、この調子なら父島まで飛行できるぞ」
宮田機長からの明るい声が機内に放送された。操縦桿を握る機長の後ろ姿が、このうえなく頼もしく思えた。こんな難関を突破できたのも、乗員一同の固い絆に結ばれた頼もしい協力と、神風としか思えない追い風のお陰だった。わずか数十分の残存燃料を残して、父島の湾内に滑り込んだ瞬間、一同、ホッと安堵の胸を撫で下ろした。しかし、九七式大艇の長島組は、待てど暮らせど、ついに父島に姿を現さなかった。
5. 一難去って、また一難
父島で燃料補給を依頼したが、基地に備蓄されている燃料量は切迫しており、あたかも血の一滴の感が強く、補給が容易な情勢ではなかった。
焦る我々であったが、遺憾千万、諦めざるをえなかった。ガックリと全身の力が抜け、翼をもぎとられた情けなさと、今後の不安が一気に全員にひろがった。
一同、途方に暮れてしまったが、迎えのボートでとにかく上陸し、海岸を力なくトボトボと歩きながら海軍施設へと案内された。洋上に係留された二式大艇の翼上では、数人が忙しそうに整備にとりかかっている姿が目にはいった。それでも海軍宿舎では大歓迎を受け、なかでも極度の食糧難時代で孤立状態だった父島で虎やの羊羹がだされ、ユックリ味わったあの味はいまでも忘れられない。
天は我等を決して見捨てなかった。夜半になって基地司令から、硫黄島はじめ小笠原諸島に配置されている飛行機を、一時、内地へ退避させることが決まったという。我々の飛行艇には更に、それらの飛行機を誘導する任務が下り、急遽、横浜までの燃料補給が開始された。全員パンツ一枚でドラム缶を転がし、小船で艇側に移動し、手動ポンプをフル回転させて夢中になって燃料を給油した。
東の空がまだ薄暗いうちに準備を整え、いざ出発というとき、突如、けたたましい空襲警報が鳴り響いた。同時に、「ダンダン、ヒューヒュー」と、敵艦載機の機銃掃射の音、やっと海岸の窪地に身を伏せた瞬間、大日航の誇る二式大艇が、アッいう間に炎上し、黒煙を高くあげながら海中に没してしまった。
ようやく艦載機の攻撃が終わり、午後になって事後の処理のために司令部へ赴いた宮田機長が、慌しく帰ってきた。
「幸いにも今夜、横須賀へ帰還する船団がある。我々は三井物産の貨物船に全員便乗し、内地に帰る予定だ」
二転三転していた予定がようやく決まり、夕暮れ近くなって三井物産の貨物船「熊野丸」に乗り込んだ。貨物専用船のため、寝場所は船倉にゴザが敷いてあるだけのもので、かなりの同乗者がつめこまれていた。
船団の行動は、敵の索敵の目を紛らわすため、航路をジグザクに航海し、横須賀まで4日間の日程で父島を出港した。翌日は厳しい船酔いのために、朝から晩まで嘔吐に悩まされ、船倉と甲板を行ったり来たりしていた。ただ力なく寝転がっているだけだったが、船倉の入口から漏れてくる南海の星空は、無言で綺麗な輝きをはなっていた。
早く内地に帰りたい思いに耽っているうちに、ウトウトと寝てしまった。「ドシーン」 物凄い衝撃と轟音で、船が左右に大きく揺れ、上の棚から瀬戸物などが「ガチャン、ガチャン」と大きな音をたてて崩れおち、船内が真っ暗になって騒然となった。
「魚雷だぞっ、皆、甲板へでろっ」
激しい叫び声と同時に、全員一斉に飛び起きて、甲板への梯子を駆けのぼった。一刻も早く海に飛び込むつもりで、海面から近い場所を探していると二、三人の士官が救命ボートを降ろそうと必死にロープを解いている。
「オーイ、みんな早くきて手伝えっ!」
呶鳴っている所へ駈け寄り、数人でボートを海面に降ろしにかかった。誰かが同期生と思われる若い1人の士官の遺体を運んできた。死亡した士官は、蒸し暑い船倉から甲板にでて寝ころんで涼風を受けていた。そこへ魚雷が命中し、爆風で空中に舞い上がった鉄板の破片を浴びてしまい、士官は即死したとのことであった。遺体とともに全員がボートに飛び乗り、ボートは驚くほどの手際よさで船体から離れていった。
早速、近くで泳ぎながら、助けを求めている人たちを次々に救い上げていった。船が沈没するときにできる渦に巻き込まれては大変だと、船体から距離を保って、ようやく一段落していると、いつの間にか東の空が、白々と明るくなってきた。
後方を振り返ってみると、夜明けの海上にポカンと浮いている熊野丸の船影が目にとまった。数分後、熊野丸は船尾の方からユックリと沈んでいったが、やがて垂直の姿で水面に立ち上がり、そのまま水中深く没していった。そのとき一帯が一瞬明るくなったと思ったら「ドカーン」という轟音が体全体に響いた。船の機関室が爆発を起したたらしい。
再び海上が静寂になり、視界の届くかぎり漂流者を捜し求めていると、護衛艦が近づいてきた。直ちに飛び移ったが、その護衛艦は、数発の爆雷を海中に打ち込んで潜水艦の威嚇射撃をしていた。ふと気がつくと、なんと貧弱な小舟だろうか。
「なんだ、こんなお粗末な小舟が護衛していたのか。船団の護衛は駆逐艦とばかり信じこんでいたが」 口のなかでもごもご呟いていると、側にいた海軍士官が教えてくれた。
「これは捕鯨船のキャッチャー・ボートだよ」
6. 奇跡の生還
無事にわれわれを収容してくれた護衛艦の中は超満員だった。
<多分、伊豆の大島付近だろうか>と、想像をしながら足を縮めて座っていると、連日連夜の空襲や潜水艦による魚雷攻撃の恐怖に晒された日夜であったため、つい寝入ってしまった。ふと目を覚ますと、夢か幻かと疑った。懐かしい横須賀の町並みや山々が、目の前に現れているではないか。護衛艦は静かに軍港へ入っていった。どの位時間が経ったのか、覚えていないくらいに熟睡していたのだ。
上陸すると、まず戦時中の粗雑なガラ紡の毛布で作ったジャンバーと、板裏草履が全員に支給された。迎えの大日航バスに乗り込んだ瞬間、安心感と悔しさが入り乱れて、目頭が潤んだ。随分長い間、留守にしたような気がする自宅へ戻れるのだと、胸が高鳴った。
一方、父島に姿を現さなかった九七式大艇は、想像したように空襲下のサイパンへ強行着水していた。乗員等は上陸はできたものの、米軍のの上陸作戦に巻き込まれた。2名の機関士は、山中を命がけで彷徨した末、自殺寸前に米軍の捕虜の身となった。そしてアメリカ本土のロサンゼルスあたりに連れていかれ、強制重労働や皿洗いなど言葉では言いつくせない苦労のすえ、終戦により米国から帰還できたと伝えられた。
一方、父島に姿を現さなかった九七式大艇は、想像したように空襲下のサイパンへ強行着水していた。乗員等は上陸はできたものの、米軍のの上陸作戦に巻き込まれた。2名の機関士は、山中を命がけで彷徨した末、自殺寸前に米軍の捕虜の身となった。そしてアメリカ本土のロサンゼルスあたりに連れていかれ、強制重労働や皿洗いなど言葉では言いつくせない苦労のすえ、終戦により米国から帰還できたと伝えられた。
しかし、機長、操縦士、航空士と2名の通信士は、玉砕したサイパンの犠牲になったという。人間の生死の分かれ目は、神のみぞ知るとしかいえない。それにしても戦争こそは、その国の国民をあげての大博打で、日本軍の緒戦の優位も、それに数倍する国力の差によって、米国に叩きのめされた。
その劣勢の危機が、明らかに到来したときこそ、戦争終結の決断と、為政者の先見による英断が重要だと、つくづく思う。ずるずると深みにはまり、苦し紛れの無謀で安易な神頼みの作戦によって、やがては一億總特攻の自爆行為へとばく進しようとした結果を、日本民族の一人として深く憂うる。
今回のサイパン行き特別指令による運航は、このような結末によって、前途有望な人材や機材を失ってしまった。
大日本航空海洋部横浜支所の大型飛行輸送艇によるサイパン航路は、素晴らしい飛行のロマン、楽しい幾多の思い出と、航空界に偉大な功績を残しながら、悲惨極まりない、悪夢のような無惨な結果となって、ついに終止符がうたれることになった。