飛行艇パイロットの回想
-横浜から南太平洋へ- (9) ウェーキ島一番乗り
歴史
1. ウェーキ島への飛行計画
昭和17年2月には、大日本帝国の南の生命線といわれた、日本委託統治下にあったマリアナ諸島の中央に位置するトラック島に、第四航空艦隊基地が設けられた。海軍総司令部の作戦計画の敏速な対応を目的としたものだった。
当然、大日本航空横浜支所の九七式大艇は、海軍徴用輸送機として数機配置され、いわゆるウエット・チャ―ター(機体と乗員を借り受けて飛行する方式)として、海軍の特命を受けて、最前線基地の運航に従事していた。主な任務は、大きく広がった最前線の進攻作戦遂行のための高級将校や参謀、司令官の視察、部隊指揮担当将校の配置転換のための移動、軍需物資の輸送飛行等々であった。
昭和18年4月18日に、悲劇の最後をとげた山本五十六司令長官が、ソロモン諸島のガタルカナ最前線視察のため、運航には絶大の信頼があった大日本航空海洋部横浜支所の九七式輸送機に搭乗し、極秘裡にトラック島から南太平洋のラバウル基地に移動し無事大任を果たした時であった。
さて昭和17年にはいって、太平洋の制海空権争奪の火花は、日米ともに一歩も譲らなかった。米機動部隊は進撃、また進撃と、日本本土攻撃の最短距離としてサイパン、硫黄島、沖縄を結ぶ、日本の生命線を叩く作戦であり、日米の激戦が予想されるのは、すでに時間の問題だった。これからの作戦上、太平洋の孤島ウェーキ島は、制海権及び制空権拡大のための要衡として、注目するところであった。ウェーキ島には、米軍はミッドウェー海戦をはるかに上回る規模の機動部隊を配備していた。
日本海軍は虎視たんたんとウェーキ島攻略作戦をすすめ、泣く子も黙る海軍の精鋭<上海陸戦隊>を投入、必死の攻防戦の末、ついに上陸し占領することに成功していた。またしても日本国民は、軍艦マーチが鳴り響くなかでの、大本営海軍総司令部発表の大戦果の朗報に接した。
日本海軍は、急遽、トラック島第四航空艦隊のウェーキ島を担当する指揮官一行を、現地に派遣することになり、大日本航空海洋部の徴用飛行隊に輸送の指令がくだり、宮田機長、操縦士越田の組が、占領直後のウェーキ島に一番乗りすることになった。トラック島~ポナペ~クェゼリン(ビキニ環礁の南)~ウェーキ島へと結ぶ新しい航路が選定された。
ウェーキ島は、目標となる山や、隣接する他の珊瑚環礁など全くない。太平洋の一点のような孤島であり、とくに最後のクェゼリンからウェーキまでのコースは、九七式大艇では、燃料を満タンにしても、往復は無理である。片道分がやっとで、しかも代替空港がないため、万一島が見つからない場合は、それこそ死を覚悟で洋上に不時着水するしかなかった。
当時の洋上推測航法では、果たして太平洋上のシミのような一点への飛行が可能であるかどうか分からない。飛行計画のときから、厳しい悪条件による難飛行が予想された.慎重で正確無比といわれた洋上推測航法を誇る、大日本航空の腕の見せ所となった。 しかも米海軍機動部隊の動静が全くつかめておらず、最前線の情報も不正確なため、敵に遭遇するかも知れないのだ。この進出移動作戦命令は敏速な対応と絶対に失敗が許されないという無理難題が、大きなストレスとなって、わが身にのしかかってきた。
この一番乗りの飛行が成功すれば、ウェーキ島への飛行ルートの短縮をはかるべく、すばやくクェゼリン環礁群最北端に、前線基地の陸上飛行場を新設し、出来るだけ多くの陸上攻撃機や戦闘機をウェーキ島に集結させる計画であった。これによって、制空権を確保し、日本海軍機動部隊の行動範囲をひろげ、同時に日本本土攻撃を狙っている、米機動部隊の進出を封じこめるためにも、きわめて任務の重い処女コースでの試験飛行を兼ねた運航であった。
2. 処女航空路
当日の早朝、乗員は勿論、トラック島海軍航空隊基地全体に緊張がみなぎり、第四航空艦隊将兵全員からの期待を、からだ全体に感じながら、トラック島からポナペへ向けて飛び立った。
ポナペに着いて驚いたのは、島の女性はスペイン人とミクロネシア人とのハーフが多いことだった。長い黒髪をそよ風になびかせ、目元パッチリの潤んだ瞳が魅力的な、南洋特有の小柄で明るい笑顔の美人たちから大歓迎をうけた。住宅の屋根は、始めて見る赤や緑のカラフルな瓦が使われ、南方の強い陽光に輝いていた。日本本土と同じような風情の山や川に、鮒やメダカが泳いでいるのが不思議でならない。その光景は、とても南洋とは思えず、故郷を思いだすほどである。
島の東端は、高くそびえ立つ断崖絶壁があり、かつてスペイン人が上陸した際、島民との間で激戦が展開され、虐殺が行われたと伝えられている。こんな天国のような島にも「光」と「陰」の部分があることを、感ぜずにはいられない。島の中央には、キリスト教会があり、東洋と西洋の文化が混在した、エギゾチックな街のただずまいである。夕食は魚料理で、新鮮な刺身に下鼓をうち、満腹の幸福感にひたった。
ポナペは、太古の時代にはムー大陸が存在し、ギリシャ文明の発祥の地だったと伝えられていたらしい。その時代の王朝が所有していたという埋蔵されている膨大な金銀財宝を目当てに、たびたび捜索隊が上陸してきたが、いつも、そのグループごと行方不明になったという。ミステリーのような話が島民の間で語り伝えられていた。古代からの防人が、時代をこえて財宝を守っているのか、それとも巨大なエイの尻尾ではねられたのか、この奇妙で興味津々の話は、今でも私の脳裏から離れない。
2日目は、ポナペからクェゼリン島に到着した。珊瑚礁特有の真っ白い砂浜は、海底まで透き通っており、エメラルド色の海との、見事なコントラストが美しい。真っ青な空の下に点在する、浮かんでいるように見える数十の孤島は、関東地方全域を合わせた以上の広大な環礁群を構成しており、大自然の偉大さに胸をうたれた。
クェゼリン環礁北東に隣接している、ビキニ環礁も素晴らしいという。戦後、水爆実験で放射能に汚染された悲劇は、まだ皆さんの脳裏にあることだろう。残念な行為このうえなく、悪夢のような出来事である。大自然が、長い年月をへて醸し出した自然の美を、人間どものエゴで、無残にも一瞬で破壊してしまう。地球の汚染と破壊行為が簡単に行われることが、残念でならない。
標高はせいぜい2メートル以下で、点々と椰子の木が生い茂り、島の幅は100メートルくらい、横は200メートルくらいの小島で、基地の士官室といっても、一般の家庭程度の大きさの家屋に同居しており、家庭的な雰囲気に溢れていた。燦々と輝く太陽、サワサワと微風になびく椰子の葉っぱ、サラサラと海浜に押寄せる波の音が小気味よい。まるで琴を奏でる優雅なメロディーのようなリズムが耳に響いてくる。
<さぁ、いよいよウェーキ島だぞ、頑張ろう>と、心に言い聞かせ、燃料満タンにして、早朝にクェゼリン島を後にした。機首を北北東へ向けて飛びつづけること約6時間、太平洋のほんの一点しかない、小さな孤島を見つけるのは、道に落としたダイアを見つけるより難しい。
3. 三角航法
是が非でもウェーキ島をみつけなければ、大変なことになる。とにかく全員、汗だくだくになりながら、目を真っ赤にして前後左右を睨むようにしている。偏流、速度、現在位置等を真剣に航空図にプロットしていた最前方席で忙しそうにしていた高野航空士が、操縦席へ息せき切って飛び込んできた。「あと30分でウェーキ島です。もう見えてきても好いはずですから、皆でよく見張ってください」「よーし、絶対に見つけるぞ、みんな、しっかり頼むぜ」機長の大声が操縦席に響く。
ところがどっこい、点々と低く浮いている雲の影が、どれもこれも島影のように見えるばかりで、どこにも本物の島が見つからない。まるで白いタンポポが群生している中で、ゴルフボールを捜すようなものだ。「高野の航法は、いつも眉唾もんだからなぁ、できるだけ遠方まで、よく見てくれよ」機長の声にも、やや焦りがでてきた。当時のこととて、われわれも決して航空士だけを全面的に信頼してはいない。とにかく島探しに、キョロキョロと広範囲にわたって、目を皿のようにしていた。無情にも時間はどんどん過ぎていく。
「ちょうど、真下が予定地点ですが、やっぱり駄目ですか?」不安げで自信のなさそうな航空士は、自分でも窓に額を擦りつけんばかりにして、海上を見渡していた。航空士を信用していない面々、真下など本気で見るヤツはいない。できるだけ遠方を見渡して無言。
「やっぱり駄目か、おい、通信士、地上にクルシー電波の発信を依頼してみてくれ」クルシー電波航法とは、目的地の手前なのか、すでに通過しているかの判断はわからないが、その電波をキャッチし「ツー」という連続音を補足しながら飛行すると、目的地上空に到着する仕組みである。もっとも逆に既に通過している場合は目的地から離れてしまう欠点もある。
クルシー電波航法は戦時中の唯一の文明の利器ともいえた無線航法であった。これは後に米軍で改良されてADF(自動方向探知器)になり、戦後、世界中で利用され、着陸時の(アプローチ)最終降下操作にも利用されるようになった。 敵の潜水艦や航空機に逆探知されることを恐れて、めったに発信されず、緊急時のみに使用していた。苦しい時のクルシーなんて、冗談をいっていたが、大日本航空では、一度だけトラック島をミスポジションしたときに、発信をリクエストしたことがあった。通信士は必死になってクルシー電波発信をリクエストする打電をしたが、「只今、当地は戦闘警戒中のため電波発射禁止中」と、つれない返事が飛びこんできた。
「駄目なら直ちに、三角航法に移るぞ」ついに宮田機長の決断が下った。三角航法とは、予想目的地点を中心に、最初は一辺が20マイル(32km)の正三角形を描きながら、目的地を探す方法で、これが駄目なら、次は30マイル(48km)にする方法で、視界範囲を拡大していくのである。ただし、この方法の泣き所は、残量燃料の問題と、風の影響を正確に把握し、偏流角や実速を修正しながら、予定目的地点を中心とした正確な正三角形の航跡を飛行する必要があり、常時正確に中心地点を確保していなければならない航空士と操縦士の呼吸があってなくては難しい。爆弾投下時の要領と同じ緊張と細心な操作が必要である。優れた飛行能力が要求された。
最初の20マイルの三角航法では、期待に外れて、全然島らしい影を発見することができなかった。「残量燃料は、2時間30分、あと1回はトライする余裕があります」機関士の空しい叫び声が操縦席に響いた。「よし、30マイルに移るぞ、高野、風に流されないように、正確に正三角形の航跡をチェックしろっ!」機長も必死である。神にも祈る思いとは、このことだ。私は正確な航跡を飛行するのに、懸命になってコースの保針に神経を集中していた。心身共に疲れが襲い、額から脂汗が流れてくるのがわかる。こんなことで負けてたまるか!<オレが絶対に見つけてやる>、肝に銘じたものの、無惨にも最後の期待もはずれて、最終地点の頂点にさしかかってしまった。
「こうなったら最後の手段だ。上からが駄目なら下から見上げようじゃないか。最初にプロットしたウェーキ島の予想地点に戻って、高度を徐々に下げて、海上すれすれの低空飛行で見つけよう。燃料がなくなったら不時着水しかない。高野っ、今度こそ正確に最初のスタートポイントにもどれよ」機長は悲愴な覚悟で指令をだした。
「あと10分で最初のポイントです」すっかり気落ちした高野航空士は、ボソボソとしょぼくれ声をだしながら、遠慮しながら報告してきた。降下が開始された。ばらばらと、たなびくような雲の下にでた途端、眼前に、微かに煙らしいものが立ち昇っている物体が見えた。近づくにつれて、その後方に、たしかに島影が見えるではないか。
「あーっ、島だっ、島だぞっ」「確かに島だっ、っていうことは、高野君がプロットした、最初の予想地点がウェーキ島のどんピッシャリ真上だったんだ。やったぞ、助かった。良かった。良かったなぁ!」何たることか、最初の位置がウェーキ島の真上にいたのだ。高野航空士の技量を全然信用せず、真下を無視して、最初から遠くばかりに目を走らせていたのだった。
近づいてみると、日本の輸送船が燃えて、煙が立ちあがり、海岸に突っ込んだ姿勢だ。一瞬、不安がよぎったが、それ以外に変ったこともなく、注意して一巡して観察してから慎重に遂にウェーキ島珊瑚礁内に着水したのである。諏訪丸が敵前上陸の際、米軍の攻撃を受けながら、強引に海岸まで突っ込んで上陸したらしい。海軍陸戦隊の兵隊さんが自慢しながら教えてくれた。終戦後、私はJALのパイロットとして、DC-6B、DC-7C(プロペラ機)で国際線に搭乗し、ウェーキ島に給油するために立ち寄る機会が多かった。そのときに、諏訪丸の残骸がそのままになっているのを目の当たりにし、感慨ふかいものを感じたものだ。
それはさておき、「高野君が、まさかこんな上手な推測航法でドンピシャリ真上にもってきたとは思わなかったよ。灯台下暗しだよ、まったく遠方ばかりに全力を入れて見ていたからなぁ、越田君も真下なんか見なかっただろう」「いやぁ、全く失敗しました。ウッヘへ、いつものようにコースから外れていると思い、全然、真下は無視し、出来るだけ遠方ばかり見ていましたょ、偶には、まぐれもありますから、もっと高野さんを信用すべきだったですね、機長」「ウッハッハハ、まったくだ」すっかり安心した自慢顔の高野航空士は、額に手をやりながら笑みをこぼしていた。
命拾いをした疑いの眼(まなこ)ばかりで懲りない乗員たちは、島を大きく一回り旋回して、着水地点をよく観察し珊瑚礁の中に無事着水し、パンナムのマーチンクリッパーが使用していた滑走台前に停止、ようやく陸地への第一歩を踏みしめて深呼吸したときの孤島の清い空気の旨かったことが、わすれられない。
4. ウェーキ島は宝の島
米軍が使っていた兵舎に案内されて、そのうちの一棟を宿舎に提供してくれた。「暗くなったら、一人での外出は避けてください。飲み物はメッツホールの貯蔵庫に一杯あるので、ご自由にどうぞ。それから、米軍が残していった物資で、欲しいものがあれば、自由に使用するなり、持っていってもかまいませんよ」
言われたとおり、早速、メッツホールへいくと、なんと大きな缶詰がズラリと並んでいるではないか。一番手前の大きな缶詰を両手で持ち上げると,『オレンジジュース』とかいてある。振ってみると《ドブン、ドブン》と確かな手応えがある。「ミカン缶だぞ、こんな大きさでは十人分はたっぷりあるなぁ」
欣喜雀躍、早速、生唾を飲み込みながら開けてみると、「なんだこりゃ」
皆が一斉に落胆の声をはっした。
黄色いドロドロした液体は、確かにミカンの香りがするものの、肝心かなめの中味が一っもない。残念がって液体を舐めてみると、ものすごく酸っぱい。これじゃ仕様がないと、隣の棚にならんでいる別の缶をとりあげてみた。『パイナップル・ジュース』と書いてある。「これこそパイン缶だぞ、然し待てよ、こんな大きなパイナップルなんてあるかなぁ」「いやぁ、ハワイのパイナップルは大きいんだょなぁ」知ったかぶりの航空士。まぁいい。早く開けてみようやと開けてみると、これまた前と同じで、香りだけはタップリだが、中味は得体の知れない汁だけである。
「畜生、アメ公の奴ら、よくも計りおったな。逃げる前に中味だけ食べて、残りの汁ばかりを入れた缶詰にして、日本人をからかいやがったな」皆、カンカン(缶缶)で怒り心頭だった。(なんでも先ず疑ってみる懲りない乗員族の癖)食い物の恨みはコワイといってもはじまらない。しゃくにさわったが渋々、すでに作って置いてあるアイスティーを大コップに注ぎ、砂糖をたっぷり入れて2~3杯飲んで憂さを晴らした。
恥ずかしながら、当時、裏南洋の島ばかり飛びまわっていた、田舎者の純大和男の子である。われわれ横浜の海洋部乗員には贅沢なジュースなど想像もできなかった。後日、表南洋のマニラやシンガポールへ飛びだして、初めてジュースという贅沢な飲み物をふんだんに飲むことができた次第だった。
当時、日本の委任統治領である南洋諸島を裏(内)南洋と呼んでおり、その外側にある南方地域、すなわち英領マレーシア、仏印、タイ、フィリピン、ボルネオ、ニューギニア、ソロモン、ギルバート諸島、ポルトガル領チモールなどの広大な外国領土を表(外)南洋と称していた。
つぎは敵さんの舶来品でも拝見するかと、各自が米軍用のかなり大きな頭陀袋(米海軍の衣納袋)を持って倉庫へはいり、まず自分の寸法に合った防暑服やカウボーイ風の帽子、厚い牛革の靴に身をかためた。いままで使っていた、よれよれのスフの乗員用防暑服と、ブツブツと小さな穴ガあいている豚革靴が捨てきらず、丸めて袋の中にいれた。これは単なる愛着だけではないですぞ、まぁ、日ごろの倹約第一をモットーとする二宮金次郎的教育の賜物でございます。
このカウボーイ姿によって、後にとんでもない災難が振りかかろうとは、神ならぬ身の悲しさで、知る由もない。ズタブクロに獲得品が一杯になったところで、一旦、宿舎に戻り、シャワーを浴びた。そしてアイスティーでも飲んでいればよかったのだが、凡夫のあさましさ、もっと良いものを探そうと、今度は海岸にあった倉庫へ出向いた。
5. ホールドアップ
すでに美しい南洋の夕日が西の地平線に沈まんとしており、アッという間に、赤道直下の夕方は薄暮に変っていった。時計は未だ午後3時を過ぎたばかりだった。まだまだ大丈夫だとばかり、急いでブツを集めてまわった。実は時差についての勉強不足もあったが、わが腕時計は日本時間のままだった。欲の皮がつっぱっていたので、自分にいいように早合点して、気にも止めなかった。
タダでもち放題の素晴らしいお土産が、こんな太平洋の孤島にあろうとは、これが本当の宝島だと、ほくほく顔で通信士と2人で、薄暗くなった海岸を、スタコラサッサと走るようにして帰途についた。ズタブクロを担いだカウボーイ姿は、まるでサンタクロースそのものだ。
「誰か!」2度目の声がとんできた。どうもわれわれを呼んでいるらしい。こりゃ大変だ。3度目はブスッかドーンとくるかも知れない。途端に、中学時代の大嫌いだった教練で覚えさせられた動作が、脳裏をかすめた。いざ本番となると、緊張のあまり喉がつまって、なかなか声がでてこない。両手はすでにグリコの看板の姿勢である。とうとう1人が、通信士の方に向かってまっしぐらに突進してきた。そのとき、やっと声がほとばしりでた。
「日本人だっ、日本人だっ!」 必死に叫んだのが分かったらしく、相手もホッとした様子で鉾を収めてくれた。「いやぁ、大日航の飛行機乗りさんですか、未だ海岸の防空壕には、図体のでかい敵さんが大勢いいるし、それに、あんたたちが毛唐と同じ服装をしていて、暗くなってよく分からなかったんです。スミマセン。夜間の外出は危険ですよ」注意してくれたまではよかった。「あんたは何となく最初から日本人かなぁって思ったんだがね」ジロッと私の方を見ながらつぶやいた。さらに通信士を見ながら 「あんたの方は、鼻が高く、アメ公に見えたのでね、まぁよかった、宿舎までおくってあげよう」 人間、自分の弱味をいわれると、不愉快極まりない。どうせ私は、背と鼻が低くて、目がつりあがった典型的な日本人で、悪かったなぁ。しかし、まぁ助かってよかったぞ。
その兵隊さんに案内されるままに行き着いたところは、1度目の収穫物を置いた、先程の一棟の場所とはちがう宿舎じゃないか。「あのぅ、先程の棟じゃないんですかね?」「ああ、あそこには先程、海岸の防空壕の辺りで捕まえた20人ほどの捕虜を、監禁しております。だけど安心して下さい。あなたたちの鞄やトランクはチャンと移動させてありますから」
こりゃいかん、戦利品を突っ込んであるズタブクロはどうなったのだ。「あのぅ、敵さんの衣納袋が置いてあったんですが、それも移していただけましたか?」「あぁ、あれは敵さんの物ばかり入っていたので、奴等の着替え用にでもと思いそのまま置いておきましたよ」かの兵隊さん、涼しい顔をしている。「一度、敵さんを収容したら、立ち入り禁止で、外から鍵がかかるんで、もうなかなか入れませんよ。グワッハッハ、どうかしましたか?」人のよさそうな上海陸戦隊の猛者の高笑いだけが、夜隠にひびいた。
折角集めた獲得品だったのに、欲張ったお陰でまたアメ公のところへ逆戻り、二兎を追うもの一兎をも得ずかと、くやんだが後の祭りだった。それにしても、こちらの豚革の古靴まで、とりこまれてしまった。今頃、敵さん、ヨレヨレになっているスフ製の大日本航空の乗員用防暑服や靴まで取り出し、どんな生地で織った布地か、どんな動物の革で作ったのか、当てっこしているだろうなぁ。
全く参ったよ。着替えがないので、トラック島に颯爽とカウボーイ姿で降りたら、司令はじめ、第四航空艦隊の皆さんに、捕虜が降りてきたって、間違えられるぞ。心のなかでぼやいている。われわれの心も知らないで、「飛行機乗りさん、食事は血のでるようなビフテキです。高級なウイスキーやアメ公のビールもたっぷりあるし、いくらでも飲んでください。食後は映画でもどうですか。野外映画で言葉は英語なんで、よく分かりませんがブルー・フイルムってんですか、とにかくノーカットで物凄いシーンばかりですよ。そのうえ、総天然色なもんですから・・・」 人のよい兵隊さんは、いうだけいって去っていった。われわれは兵隊さんに丁寧にお礼を述べて、未練たっぷりにその場を離れた。
6. 不思議な縁
翌朝、缶入りのラッキーストライクとキャメルの、2種類のタバコ缶を飛行艇に所狭しと積み込んだ。ところが、吃水線(搭載許容範囲線)、胴体の日の丸の下まで水面がすれすれになったのには、ビックリした。タバコがこんなに重いとは、考えてもみなかったがトラック島で待っている仲間の喜ぶ顔を思い浮かべて、とにかく積めるだけ積みこんだ。満載で重いのか、さすがに長い滑走距離の後、やっと離水したわれわれは、最前線のウェーキ島を守る、上海陸戦隊の兵隊さんのご健勝と武運長久を祈念しつつ、何度も大きく手を振り、バンクを繰り返しながら帰途についた。日本占領直後に、ウェーキ島に上陸した感動は、永久に忘れられない。
終戦直前に、横浜海軍航空隊の二式飛行艇が、敵の制空権をくぐりぬけて、トラック島へ直行する飛行を3回試みたが、3機とも撃墜され全滅した。海軍司令部の懲りない面々が、ついに大日本航空の二式飛行艇での長距離飛行を下命してきた。戦況不利となり、孤立した太平洋の孤島ウェーキの餓死寸前の将兵たちに、万難を排して、食糧や軍需物資と今後の作戦命令を横浜から輸送しようという訳である。
制空権皆無の中を、太平洋の滴のような孤島への推測航法は、想像以上の困難がともなう。こんな海軍司令部の無謀な、がむしゃらな飛行作戦計画の指令をうけ、慌ただしいスタンバイ(待機)の毎日がつづいた。針の筵に座わらされているようなものだ。もし飛行していれば十中八、九は、いやそれ以上危険な任務によって、おそらくは太平洋の藻屑と消える運命が待っていただろう。
幸いにも物資の収納に日時がかかり、ついに終戦となって一命をくい止めることができた。この特攻輸送作戦の要員に選ばれたことについては後述する。それにしても、心の隅にはいつまでも、あの時の不思議な出会いだったウェーキ島の陸戦隊の兵隊さんが、身内のように思われて仕方がなかった。
戦後、JALのパイロットとして、何度もウェーキ島に宿泊するチャンスに恵まれた。そんなときには、海浜に打ち寄せる荒波さえ懐かしく、「オレはウェーキ島が大好きだ!」と叫びつづけた。
JAL最後の領収となった国内線用ボーイング727型機を、ボーイング社から日本へのフェリーフライトを担当した私は、ハワイからウェーキを経由し、給油のためウェーキ島に一泊した。これがJALのウェーキ経由のラストフライトとなったことは不思議な縁だ。翌日ハワイ発東京行きの直行定期便DC-8の通過時間にあわせウェーキを離陸し、空中で雁行して国際線用の無線と飛行情報等を中継依頼しながら羽田に着き、ウェーキ経由のラストフライトを無事終了した。
いつもチャンスに恵まれ、終戦によって命拾いした私は、愛すべきウェーキ島への日本人としての初飛行と、そして日本人としての最後の飛行をまっとうすることができた、不思議な縁を思うと同時に、私の大きな誇りである。太平洋の美しい孤島ウェーキよ、永遠に平和な島であってほしいと、願わずにはいられない。